第40話 ゾンネの森 その13 ソールベリーの味
ユーリは大の字になったまま、すっかり夕焼けに染まった空を見上げ、ぴくりとも動けずにいました。
さきほどの戦いで気力も体力もすべて使い切ってしまい、もう指のひとつ動かす力すら残っていなかったのです。とくに、戦うパートナーを瞬時に入れ替える《スイッチ》は、ウィザードの技術に依存するぶん、ユーリ自身の生命エネルギーの消耗が激しい魔法でした。体の奥が空っぽになったような、奇妙な虚脱感が全身を支配しています。
それはエミルも同じ……いえ、エミルのほうが、むしろ症状は重いようでした。
大樹の精によってマナを直接吸い取られていたせいで、彼女は地面に横たわったまま、まるで命を失ったかのようにぐったりしています。顔色は青白く、胸の上下もわずかで、一瞬、息をしていないのではないかと不安になるほどです。
――それでも、ちゃんと生きていました。
かすかに聞こえる呼吸の音に、ユーリは胸の奥でほっと安堵します。
そのときです。
仲間のなかでただひとり、まだ元気のあるプリンセスが、両手で大きななにかを大事そうに抱えながら、ふたりのもとへ歩いてきました。
『ユーリさん、こちらをめしあがってください』
プリンセスはやさしい声でそう言うと、抱えていたそれを、ユーリの目の前にでん、と置きました。
それは――
太陽のかけらのように黄金の輝きを放つ、とても巨大な果物。
ソールベリーそのものでした。
表面はなめらかで、熟した果実の香りがふわりとただよい、甘く濃厚な匂いがユーリの鼻をくすぐります。その輝きは、夕焼けの光を受けてなお強く、まるでみずから光を放っているかのようでした。
『ソールベリーは栄養満点です。ひとくち食べれば、たちどころに元気が戻るはずです。この戦いで、いちばん活躍されたのはユーリさんです。ですから、いちばん最初に食べる権利があります。きっとエミル様も、それをのぞんでおられると思います』
プリンセスは、いつくしむようなほほえみを浮かべて言いました。
いつものユーリなら、きっと遠慮していたでしょう。
「エミルが先だ」と、そう言ったはずです。
しかし――
今回はちがいました。
目の前で輝くソールベリー。
ただよってくる、甘く芳しい香り。
それらが、疲れきったユーリの心と体に、直接語りかけてくるのです。
――食べたい。
動く力もないはずなのに。
それでも、その衝動だけが、体の奥からあふれてきました。
まるで、理性のたがが外れてしまったかのようでした。
プリンセスに許されたことで、その欲求は、もう止められません。
ユーリはごくりとつばを飲みこみ、重たい頭をムリヤリ動かすと――
がぶり、とソールベリーにかじりつきました。
その瞬間。
ユーリの体を、言葉では言い表せない幸福感が包みこみました。
甘く、みずみずしく、濃厚な果汁が口いっぱいに広がります。
それは、これまでユーリが食べてきたどんな食べ物とも違う、まったく別の次元の味でした。
旅に出るまで、質素な食事しか知らなかったユーリには、この感動を表現する言葉が見つかりません。
生まれて初めて――本当の意味で、「おいしい」と感じた気がしました。
そして――気がついたときには、ユーリは立ち上がっていました。
自然と体が動いていたのです。
「すごい……ほんとうに元気になってる……」
さっきまで、あれほど重かった体が嘘のように軽くなっています。
疲労は消え、力が体の奥からあふれてくるようでした。
それどころか――以前よりも強くなったのではないかと思うほど、全身に活力がみなぎっています。
「これが……ソールベリーの力か……そうだ!」
ユーリははっとして、指輪に手をかざしました。
光がほとばしり、パートナーたちが次々と姿を現します。
エミルからあずかっていたシロンもいっしょです。
呼び出したのはもちろん、みんなに、ソールベリーを食べさせてあげるためでした。
現れたパートナーたちは、だれもかれもボロボロの状態。
体には深い傷が刻まれ、羽は裂け、息も荒く、今にも倒れそうです。
それでも――彼らは、ソールベリーの香りを感じ取った瞬間。
まるで磁石に引き寄せられるかのように、果実へと近づいていきました。
そして、夢中になって、かじりつきました。
次の瞬間――
歓喜の声が、いっせいにあふれました。
弱っていた体が、みるみるうちに回復していきます。
ほとんどひん死だったシロンも。
クリスも、ジェムも、アクアも、すっかり元気を取り戻していました。
それだけではありません。
あれほど深かった傷までもが、跡形もなく消えていたのです。
ユーリは、食べさせる前にキズ薬を使おうと準備していましたが――その必要は、まったくありませんでした。
ソールベリー。なんと恐ろしいチカラを持った果実なのでしょう。
この味と、この効き目。
ダークエルフが、争いの原因になると心配していたのも、無理はありません。
「お~いし~い!!!」
そのとき。
突然、元気いっぱいの声が響きました。
「えっ!?」
ユーリは驚いて振り向きます。
見ると――
エミルが起き上がり、夢中でソールベリーを食べていました。
頬を輝かせ、目をきらきらさせながら、しあわせそうに笑っています。
どうやら、ユーリがパートナーたちに食べさせているあいだに、復活していたようです。
しかし――おかしい。
さっきまでエミルは、気を失っていて、自分で食べられる状態ではなかったはずです。
どうして……?
そう思った、そのとき。
ユーリは、彼女のとなりに立つプリンセスのようすに気づきました。
プリンセスは頬を赤らめ、うっとりとした表情で、自分の口元をそっと手でおさえています。
その姿を見て――ユーリは、すべてを理解しました。そして、自分も顔を赤らめます。
――ああ、そういうことか。
エミルが、プリンセスの命を救ったときと同じ。
今度は――プリンセスが、エミルを救ったのです。
「ユーリ! この実、すごいよ! 食感が、外はしゃくしゃく、中はぷりぷりで小気味よくて、はちみつとメープルシロップが合わさったみたいに甘いの! それでいて、しつこくも不快でもなくて、野イチゴみたいな酸味がアクセントになってて……口の中いっぱいにしあわせがあふれて、いつまでも消えない感じ! わたし、こんなおいしい果物、はじめて食べた! 村の外に旅立って、ほんとによかった!」
エミルは両目を星空のようにキラめかせ、胸の前でぎゅっとソールベリーをにぎりしめながら、たいへん興奮したようすでユーリに詰め寄り、まくしたてました。頬はほんのり赤く染まり、まるで宝物を見つけた子どものような笑顔です。
ユーリは思わずぎょっとして、「よ、よかったね」とひとこと、目をそらしながら、ほほえむしかできませんでした。
「よかったね、じゃないでしょー! ユーリだって食べたんだから!」
「た、たしかに食べたけど……ぼくはエミルほど、食べものへのこだわりは強くないから……」
「じゃあこれからは、旅先でおいしいもの、もっといっぱい食べよう! それでユーリも、おいしいもの、もっといっぱい作ってね!」
「そ、そうだね……がんばるよ……」
自分以上に何倍も元気になってしまっているエミルに、ユーリは圧倒されるしかありませんでした。ついさっきまで、命の危険にさらされていたとは思えないほどの回復ぶりです。
パートナーたちは、われ関せずといった感じで、一心不乱、無我夢中でソールベリーをむさぼっていました。果肉をかじるたびに、しゃくっ、ぷちっ、と小気味よい音があたりに響き、甘い香りが森の空気に混ざってひろがっていきます。
みんなには見えないところで、ちゃっかりグレイも、大きな口でがぶついています。口のまわりを果汁でべとべとにしながら、満足そうに目を細めていました。
「プリンセスは食べました?」
エミルはくるりと振り返り、プリンセスにたずねました。
『私は、集落に戻ってからでけっこうです。お父さまや民たちより先に、口にするわけにはいきませんから……』
そう答えながらも、プリンセスの視線は、ちらちらとソールベリーへ向かっています。
――正確には、すでに口にはしましたが、自分で味わっても飲みこんでもいないので、ノーカウント……ということなのでしょう。
『そーゆーこといわずに、たべる、たべる!』
そこへシロンが、かじり取ったソールベリーのかけらを、ぐいっとプリンセスのやわらかいくちびるに押し当てました。
『い、いえ、けっこうです!』
『なによー! シロンのソールベリーがたべられないっていうのー!?』
完全に酔っぱらいのからみです。
(この実、ほんとうにだいじょうぶなのか……?)
と、ユーリは少しだけ不安になりました。
「プリンセス」
『は、はい。なんでしょうか、エミル様?』
エミルにふいに声をかけられて、プリンセスはなぜか緊張ぎみに返事をしました。背筋をぴんと伸ばし、まるで正式な謁見の場に立っているかのようです。
「プリンセスは、いまはわたしのパートナーですよね?」
『え、ええ、そのとおりです』
――正確には、まだ契約はユーリのもとにあり、譲渡されたままの状態です。
けれど、細かいことを気にしたら負けなのです。
「なら、あなたのご主人さまとして命じます。ソールベリーを食べなさい!」
『え、ええ~っ!』
突然の職権濫用(?)に、プリンセスもユーリも目を丸くしました。
「あのバケモノにとどめをさしたのは、あなたなんだから! 当然、あなたにも食べる権利があります! だから、ちゃんと食べてください!」
エミルはまっすぐなひとみで、強く言いました。
それは命令でありながら――どこか、ねぎらいのこもった言葉でした。
『べ、べつに……集落に帰ってからでも、いいではないですか!』
プリンセスは顔を赤くしながら、必死に言い返します。けれど、その声には、ほんの少しだけ揺らぎがありました。
「あ、でも……あんなに大きな果実、集落のみなさんのぶんまで持って帰るのはたいへんそうですよね。プリンセスがチカラをとりもどしてくれれば、ずっと楽にソールベリーを運べるんじゃないでしょうか?」
「それだ、ユーリ! ナイスアイデア!」
エミルはぱっと顔を輝かせ、両手でユーリを指さしてほめました。
ダテに、ただお姫さま抱っこで運ばれたわけではないようです。
『そ、そうですね……そういうことなら……いただきます』
プリンセスは、もじもじと視線をさまよわせながら、小さくうなずきました。
差し出されたソールベリーを、そっと両手で受け取ります。
その表情には、姫としての誇りと――ひとりの少女としての、ささやかな期待が、入り混じっていました。
きっと本心では――自分も、このしあわせの味を、ちゃんと味わってみたかったのでしょう。
『はい、あ~ん!』
『あ、あーん……』
シロンに食べさせてもらって、プリンセスは小さな口へソールベリーを受け入れました。
プリンセスは口の中でお上品に果実をもぐもぐと味わうと、とてもうっとりした表情を浮かべ、甘い吐息のような声をもらしました。その美味とともに、天にも昇るような幸福感が、全身へとひろがっていきます。
すると――なんということでしょう。
プリンセスの体が、ソールベリーと同じ黄金色の光に包まれはじめたのです。
やわらかな光は、朝日のようにあたたかく、しかし力強く輝いていました。
銀色の髪はさらさらと風もないのに揺れながら、さらに長く、さらに美しく伸びていきます。オレンジ色のひとみは宝石のように澄んで強い輝きを宿し、褐色の肌は健康的なつやを増していきました。そして、しなやかな体には、スタイルを損なわない程度にほどよく引きしまった筋肉が浮かび上がり――その美貌は、誰の目にもはっきりとわかるほど、以前よりもはるかに洗練され、気高くグレードアップしていたのです。
エミルたちは、その神々しい変化と、絵にも描けないほどの美しさに、食べかけていたソールベリーのことすら忘れ、ただ息をのんで見とれるばかりでした。
団子より花――そんな言葉がぴったりの、うれしい逆転現象が起きていたのです。
『これは……私の本来の……いえ、衰える前よりも、はるかに強いチカラがみなぎるのを感じます……!』
プリンセスは自分の手を見つめ、胸に手を当て、全身を確かめるように見回しました。その声は震えていましたが、それは不安ではなく、あふれるよろこびによるものでした。
『ありがとうございます。エミル様、ユーリさん。そして、そのお仲間の方々……なんとお礼を申し上げればよいか……』
深い感謝をこめて、プリンセスは優雅に頭を下げました。
「お礼なんていいですよ」
エミルはにっこりと笑います。
「だってわたしたち、仲間じゃないですか」
『仲間……?』
プリンセスは目を丸くしました。
「ええ。だからどうしても、いっしょにソールベリーを食べたかったんです。勝利のよろこびを、仲間たちみんなでわかちあうために!」
エミルは両手を大きくひろげ、太陽のような満開の笑顔で宣言しました。
その姿は、小さな体なのに、とても大きく頼もしく見えました。
『……そうだったのですか』
プリンセスのひとみに、ふたたび涙がにじみます。
『私、とってもうれしいです!』
こぼれた涙は悲しみではなく、心からのよろこびのしずくでした。
プリンセスは涙をぬぐいながら、美しくほほえみました。
「でも、いちばんおいしいところは、ユーリにとられちゃったけどね」
エミルは、今度はいたずらっぽく「にしし」と笑いながら、ユーリを見ました。
「そ、そんなことないよ。ぼくはただ、エミルの杖を借りただけで……」
照れ笑いしていたユーリは、ふと思い出したように、自分が倒れていた場所へ目を向けました。
あのとき、大の字に倒れた拍子に、杖を取り落としてしまっていたのです。
「あーーーっ!!!」
思わず大声をあげます。
なんということでしょう。
エミルから借りていた杖が――
きれいに、ポッキリと折れてしまっていたのです。
まるで、長い役目を終えたことを示すかのように。
「ご、ご、ごめんエミル! ぼくのせいで、大切な杖が……!」
ユーリは顔を青くして、必死に頭を下げました。
エミルは少しだけさみしそうな表情を浮かべながら、折れた杖をそっと拾い上げました。
そして――ユーリに向かって、やさしくほほえみます。
「いいよ。気にしなくて」
その声は、とても穏やかでした。
「きっとこの杖は、役目を終えたんだと思う。ここまできれいに折れてるってことは、そういうことだよ」
エミルは杖を胸の前で大事そうに持ちました。
「いままで……ありがとうね」
これまでの思い出をなぞるように、そっと杖をなでます。
ユーリも、その姿を見つめながら言いました。
「……その杖のおかげで、ぼくたちは勝てたんだ。にぎったとき、まるでエミルのチカラがぼくに乗りうつったみたいだった」
ユーリもまた、感謝をこめて杖にふれました。
「ぼくからも……ありがとう」
そのとき――
「……ん?」
ふいにエミルが顔を上げ、振り向きました。
視線の先にあるのは――サンライトレントが存在していた、大きなクレーターです。
まだ木の断面は黒く焼け、戦いの激しさを物語っていました。
「どうしたの、エミル?」
『わかった! こえがきこえたんでしょー!』
シロンがぴょんと跳ねます。
「はい、シロン。正解!」
エミルはうなずきました。
「ちょっと行ってみる!」
そう言うなり、エミルはクレーターに向かって駆け出しました。
ひとりでは危険かもしれません。
シロンもすぐに、そのあとを追いかけます。
クレーターの中は、えぐり取られたように深く、焦げた樹木の匂いがまだ残っていました。
エミルは注意深く、きょろきょろと見回します。
声はたしかに――ここから聞こえたのです。
『あそこ! なんかおちてる!』
シロンが前足で指さしました。
その先を見ると――
黒くコゲた、枯れ葉のようなものが一枚、ぽつんと落ちていました。
それは風もないのに、かすかに震えているようにも見えました。
まるで――
まだ、生きているかのように。




