表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花とペン  作者: 井上マイ
67/68

67.

 

「ちゃんと食べて、しっかり寝る。それだけ守れば、どこに行っても何があっても大丈夫だ」

 ニレイさんのアドバイスはシンプルだ。

「保健の教科書みたいなこと言わないで」

  もっと重みのある言葉が欲しい。

 アリアは不満顔だ。

「俺もサキ君も、その単純なことができなかった。だから転んで大怪我をしたんだぜ」

「説得力が増してきた」

 ふふ、とアリアが笑う。

「あと腰と肛門を大切にな。仕事用に値の張る椅子を買うといい」

 動くことが苦ではないタイプだからなのか。ニレイさんは、以外にも健康優良児だ。

 一方、サキさんは腰痛持ちで痔主だ。

 市販の塗り薬を、買いに行かされたことがあるので知っている。

「分かった」

 アリアは神妙にうなずいた。

「セイくんに、飯の焚き方を習っておけ。おかずは外で買えばいい」

 何でもうまくやろうとするな。

 一人で全部やろうとするな。

 適当でいいのだ。とニレイさんは言った。

「セイさん、これの作り方も教えて」

 アリアは、昼食の皿を指した。

 ぼく特製のオムライス。アリアのお気に入りのメニューである。

「承知しました」

 あとは洗濯機の使い方と、公共料金の支払い方くらいは教授せねば。

「うまく作れるようになったら、このおっちゃんを呼んでご馳走しておくれ。お土産をたくさん持っていくから」

 離れて暮らすようになれば、寂しがるのはきっと俺の方だなと、ニレイさんは言った。

「離れて暮らすって……まだ先の話じゃない」

「半年なんてあっという間だ」

「わたしの作る下手くそなご飯なんて、食べなくったっていいじゃん。料理上手なガールフレンドが、いくらでもいるでしょ」

 アリアが拗ねている。

 別れが来るのは分かっている。

 でも今から、そんなことを考えたくないのだ。

「娘の作ったメシは別格だ」

 ニレイさんは笑いかける。

 しかしアリアの眉根はぎゅっと寄せられたままだ。

「アリアくんにも、早くいい人が出来るといいな。君の作った飯なら、なんでも美味い美味いと平らげてくれるやつが」

 寄り添ってくれる恋人が。

 ニレイさんはからかい半分、けれど温かい視線をアリアに向ける。

「くだらない」

 アリアは、そっぽを向いた。

「そうだ。色恋なんて下らない。でも長い人生だ。たまには寄り道も必要だ。その寄り道で、いい風景が見えるかもしれない」

「…………」

 アリアは黙々と昼飯の残りを掻っ込んだ。

 ゴクゴクとお茶も飲み干す。

 そして、顔をあげた。

「ばーか、おっちゃんの馬鹿」

 小学生以下の語彙力で言い捨てると、キッチンから出て行ってしまった。

「年ごろの乙女をからかうのはやめてください」

 ぼくが代わりに注意しておく。

  すると流れ弾が飛んできた。

「お母さんみたいな物言いだな。君はそれいいのか?」

「……どういう意味ですか?」

「それでいいなら、いいけれど」


 草四郎がどんな言葉で想いを告げたのか。

 アリアはそれにどう答えたのか。

 ぼくは知らない。


 ふたりは、いままでと変わらなく見えた。

 週に一度、草四郎はホスピタルにやってきてアリアに勉強を教える。

 授業が終わると、ふたりは向き合ってお茶を飲む。

 そして草四郎は、アリアの求めに応じて笛を演奏する。

 穏やかな時間だ。


 しかしそれも、もうすぐ終わる。

 草四郎がこのアルバイトから離れるのはは、決まっていた。

 本人たちに気取られず、密かに五島万を守る。

 もともと家庭教師は、草四郎がこの家に出入りするための口実だった。

 しかし、きっかけはなんであれ結果は、良かった。

 草四郎だけでなくアリアも、週に一度のこの時間を大切にしていた。

 しかし草四郎の住むアパートは、ホスピタルからたっぷり一時間は離れている。

 それに理系の大学生というのは、なにかと忙しいらしい。

 アリアの仕事も忙しくなる一方だ。

 ふたりの予定を合わせようとすると、どうしてもレッスンは細切れになった。

 通信講座やプロの家庭教師に任せた方が、アリアの学力向上のためには良い。

 契約終了は、お互い納得してのことだった。


 最後の授業の後、ささやかなお別れ会が開かれた。

 草四郎は引き留とめられ、ホスピタルで夕食を食べていくことになった。

 ニレイさんもサキさんも揃って、座は賑やかだった。


「はじめて会ったのは、冬の初めだった。階段からわたしが落っこちて、先生が薬を塗ってくれた」

「あの時は、本当にすいませんでした」

「分かりが悪いわたしのために、何度も仮定法の説明をしてくれた」

「いえいえ。アリアさんは、素直な良い生徒さんでした」

「先生とセイさんは兄弟みたいで、一人っ子のわたしはいつも羨ましかった」

「兄貴は、ぼくの方でしょう?セイさんは頼りないところがあるから」

 草四郎がくつくつ笑う。


 出会ってからまだ数ヶ月。

 それでも思い出話は、尽きないくらいあった。

 アリアは、ひとつひとつの記憶を慈しむように、丁寧になぞっていく。

 胸に押し抱いてから、棺に納めていくように。

 ひとつ線を引いて、身を退こうとしていた。

 アリアは少し寂しそうに笑って言った。

「テープレコーダーを準備しておけば良かったな。さっきの笛が最後だから」

 草四郎の笛の音は特別だ。その響きはテープには収めきれないだろう。

 心を震わせ、共鳴を起こす。

「それでも慰めにはなるから」

 それを繰り返し聞いて、今日という日を思い出す。

 そうアリアは言った。

「最後だなんて、言わないでください」

 草四郎が微笑みかける。

「笛が聞きたくなった時でも、勉強に詰まったときでも、特に用事が無くても、なんでも……いつでも電話してください。すぐに駆けつけます」

「そんな無理だよ。出来ない。草四郎先生に悪いよ」

 真面目で優等生の草四郎。

 一方の自分は、落ちこぼれだ。

 草四郎と自分の住む場所は違う。

 アリアは強固に思い込んでいる。

「草四郎先生は、わたしのお守りをしてる場合じゃないんだから」

 アリアは自分に言い聞かせるように言った。

「こちらの都合で家庭教師を続けることが出来なくなって、すいません」

 草四郎は頭を下げた。

「でもこれからも、ぼくはアリアさんに会いたい。理由なんて、用事なんて、何も無くても」

「…………」

 どうして?とアリアは尋ねなかった。

 アリアの瞳は、まだ迷いに揺れている。

 草四郎はじっとアリアの返事を待っていた。

 長い沈黙のあと、アリアは小さな声で言った。

「ありがとう」

「これからもよろしくお願いします」

 ありふれた挨拶だ。

 でも草四郎は、この一言を言うために勇気を振り絞った。

 草四郎の気持ちは、アリアにも伝わっていた。

 こくり。

 無言でアリアは頷いた。


「これまでの授業のお礼。なにがいいか散々迷って、結局無難なものになっちゃった」

 アリアは草四郎にプレゼントを用意していた。

 コバルトブルーの軸が鮮やかな、細身のボールペン。

 外国製だが、普段使いの品だ。

  電車に乗って銀座まで行き、長い時間文具店をウロウロして、アリアはこれを買ってきた。

 ぼくが付き添ったので知っている。

 思いのこもった贈り物だ。

「ありがとうございます。もったいなくて、使えないです」

 草四郎は照れに照れていた。

「ちゃんと使ってください」

「大切にします」

 壊れやすいもののように、草四郎はそれを両の手のひらに包みこんだ。


「今日は楽しかったですね。みんなで食事をするのも、たまにはいいもんだ」

「うん」

「風呂は沸いてます。すぐに入れますよ」

「分かった」

 草四郎が帰り、座がお開きになったあとも、アリアは練習室には戻らなかった。

  ぼくと並んで流しに立ち、珍しく洗い物の手伝いをしてくれた。

 今はひとりになりたくなかったのかもしれない。

 アリアは再び伸ばし始めた髪を、無造作にピンで留めていた。

 おでこを出したアリアは少し幼く見える。

「来週は、アリアさんのお誕生日ですね」

「そういえばそうだね」

 本当に忘れていたらしい。 

「パーティをやりましょう。お客さんを呼んで」

 パチンと指を鳴らして、微笑みかける。

「お気遣いなく」

 冷めた声でアリアは言うが、ぼくは引き下がらない。

 アリアは去年15歳の誕生日を、全寮制の学校で迎えた。

 母親とは離れ離れ。学校には友達もいない。

 余計なお世話といわれようが、今年は楽しく祝ってやりたい。

「パーティの料理は何にしましょう。何でもリクエストしてください」

「何でも?ほんとに?」

 アリアが、ここでやっと笑顔をみせる。

「もちろん。十段重ねのケーキでも、子豚の丸焼きでも、松坂牛ステーキのフォアグラキャビア乗せでも、ちらし寿司でもなんでも拵えます」

「実現するのは、最後のひとつだけでしょ」

「おいしいのを作りますよ」

 あとで母に電話して、レシピを聞こう。

 ぼくはひそかに誓った。


        XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 造花を輪にして首飾りにする。

 ボール紙に、金色の折り紙を貼って王冠も作った。

 お洋服はドレスの様な、ふわりとしたニ段フリルのワンピース。

 藤色にミルクを垂らしたような、柔らかい色合いだ。

 このワンピースはサキさんからの、誕生日プレゼントだ。

 誕生日の今日一日、アリアはお姫様だ。

 これがこのホスピタルで行われる、最後のイベントになるだろう。


「やっほー、アリアちゃん。お誕生日おめでとう!」

 ピンクのリボンがかけられた贈り物を携えて、カナがやってきた。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 谷さんが慇懃に頭を下げる。

 作家・アリア先生からの招待だ。担当編集者としては、断る訳にもいかない。

 谷さんには、バースデーケーキを用意してもらった。

 甘味が苦手なアリアの為の特注品。洋食レストランの、ゼリー寄せのケーキだ。

 招待客は、谷兄妹と草四郎だけだ。

 この前の祭りとは違って、誕生日会はこじんまりとしたものになった。

「ちょっと見てもらえますか。この場面なんですが……」

「こらこら、君は主役なんだから。それはまた今度にしなさい」

 早速、谷さん相手に仕事を始めようとしたアリアをニレイさんがたしなめる。

「ほら、カナちゃんも並んで。はい、チーズ!」

 サキさんのカメラはフル回転だ。

 テーブルの上は、所狭しと手作り料理が並んでいる。

 アリアの好物を中心に、ぼくが腕に寄りをかけたものだ。

「豪勢だな。君もずいぶん腕をあげたな」

 谷さんが口笛を吹く。

 この人がぼくを褒めるのは初めてじゃないか?


 草四郎に手伝わせて、花紙とモールで飾り付けもした。

 今宵、ホスピタルの待合室はパーティー会場だ。

 飲んで食べて、トランプゲームをした。

 みんなでハッピーバースデーを歌い、アリアがケーキのロウソクを吹き消す。

 あの祭りの日から、もうすぐひと月が経つ。

 あの時の影は、もう無かった。


 時計の針が十時を指すのを確認して、みんなはグラスを置いた。

 主賓は未成年につき、そろそろお開きの時間だった。

 ニレイさんは、よく通る声で呼びかけた。

「さてさて最後に一曲披露させていただきます。お耳汚しを失礼します」

 ニレイさんの手には、物置から取り出してきたギターがあった。

 ニ本しか残っていない指で、ポロンとつま弾く。

 シャンシャン。

 ぼくはタンバリンをかき鳴らす。

 プー。

 玩具のラッパを吹くのはサキさんだ。

 彼には楽器経験がないが問題ない。このラッパは単音しか出ないオモチャだ。

 草四郎が向き合っているのは、愛用の篠笛ではない。小型のキーボードだ。近所のバッタ屋で買った1,980円の品である。

「心をこめて演奏します……今宵16歳を迎える君に捧げる。『HAPPY BIRTHDAY SWEET SIXTEEN』」

 サキさんが口上を決めた。

 ぱちぱちぱち。

 拍手をする、アリアの顔に驚きはない。

 同じ家で暮らしているのだ。

 彼女に隠れて練習するのは不可能だった。

 かくし芸は失敗である。

 オールディーズの短い曲。

 ふつうに演奏すれば、三分足らずで終わる筈だった。

 しかしそうはいかない。

 つっかえつっかえ。

 行きつ戻りつ。

 息も絶え絶え。

 まともな演奏者は、草四郎だけ。

 ぼくのコーラスは、どうにも調子が外れていて。

 サキさんのラッパは、ひたすらにやかましい。

 ニレイさんは、余計なアドリブを挟み混乱に拍車をかけた。

「頑張れ頑張れ」

 アリアが応援してくれる。

 谷さんは苦笑を浮かべて、ぼくらを見ていた。

「アンコールっ!!アンコールっ!!」

 やっとのことで演奏を終えた途端に、カナからふざけ半分の声が飛ぶ。

 そんなこと言われても。

 我々のレパートリーはこの一曲だけだ。他に何にも出るわけがない。

 ニレイさんはギターを置いた。

「え、ちょっとな、なに……!?」

 そしてアリアの前で膝を付く。

「踊ろう」

「ま、待って」

 戸惑うアリア。

「さぁお姫様、お手をどうぞ」

「まったくもう……」

 アリアはニレイさんの手をとった。

 草四郎がキーボードで、ワルツの旋律を奏でる。

 くるくるとふたりは手を繋いで回る。

 十年前、親子として暮らしていたときにも、二人はこうして戯れたんだろう。

 アリアのワンピースの裾が広がり、一輪の花のようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ