26.
夢を見ていた。
夢の中のぼくは、白いリネンのパジャマを着てベットに横たわっていた。
固いマットレスの感触。
夢の中、特有の感覚だ。
ぼくは固く目を閉じて眠っている。
しかし同時に自分の姿を俯瞰していた。
そこは大部屋の病室だった。しかしいま室内に他の人間の気配はない。
ベッドを取り囲む白いカーテンは閉められている。
薬品、人の皮脂、病院食、排泄物……それらが交じり合った病院独特の臭いがする。
「失礼します」
部屋の入り口のドアが開いた。
そしてベット周りのカーテンが開いた。
やってきたのは、アリアだった。
なるほど。間違いなくこれは夢だ。
アリアは看護婦の格好をしていた。
ふだん下ろしている長い髪も、きちんとまとめられている。
白い制帽、制服、ストッキングに高さのないシューズ。
本格的なナース姿だった。
「渋谷征さん、検温の時間です」
アリアは銀のトレイを携えていた。
「口を開けて下さい」
アリアがトレイから、体温計をつまみ上げる。
その途端、
「あっ!」
水銀の体温計。その硬質な物体は、みるみるうちに形を変えた。
銀色の蛇となって、アリアの指先から逃れる。
「待って」
アリアは小さく声を上げる。
しかし蛇は煙りのように掻き消えてしまう。
「はぁ」
ため息をひとつ。
アリアは蛇を追うのを諦めた。
けれどぼくの熱を計ることは諦めなかったようだ。
アリアが、手のひらをぼくの額に当てる。
よくできた夢だった。彼女の利き手のペンだこまで、再現されている。
その小ぶりな手のひらは、ひんやりと冷たかった。
「うーん?ちょっと熱いかな」
いまいち確信がもてなかったのか、アリアは首をかしげる。
ひらひらと、アリアは眠るぼくの眼前に手のひらをかざす。
ベッドの中のぼくは眠ったままだ。ピクリとも反応しない。
「……」
アリアの顔が近づいてくる。
こつん。
アリアのおでこが、ぼくのおでこに当たる。
心臓が跳ね上がる。
声を出したいのに、出せない。
ピクリともぼくの体は動かない。
「はい、平熱です。異常はありませんねー」
アリアは、クスクスとひとり笑う。
その表情をみて分かった。
アリアも、これが夢だと分かっている。
「次は肺機能の検診です」
アリアが携える銀のトレイには他にもいろいろな道具が乗っていた。聴診器とピンセット、そして注射器と薬剤のアンプルが並べられている。
パジャマのボタンを外され、胸に聴診器を押し当てられる。
次はピンセットで唇をつままれた。
「セイくん、ねぇねぇ……」
アリアは耳元で、呼びかける。
セイくん。
現実では呼ばれたことがない。
アリアはいつもぼくを、さん付で呼ぶ。
人差し指で、頬をつつかれた。
けれど、ぼくは目を覚まさない。
「セイくんは、なんの病気で寝ているの?それともケガをしているの?」
アリアの 問いかけに、心の中で答えを呟く。
ぼくは、生まれつき耳を痛めている。
この耳では、ミカさんの、一族の守り神の、その歌が聞こえない。
ぼくは君たち五島万を、君を、日比野 亞璃亞を守るためにここに来た。
こんな欠けた体で、ぼくは役目を果たせるんだろうか?
「……」
ベッドの中のぼくは、沈黙を保ったままだ。
微かな寝息さえ聞こえない。
「じゃあ、最後に注射をしましょうね」
アンプルの薬品は、血のような赤色だった。
ぼくの鳥のミカさんと同じ赤だ。
アリアはアンプルの爪を折り、注射器に液体を移し替える。
銀色の注射針が、蛍光灯の明かりに毒々しくきらめく。
このままこの注射器も、蛇になって逃げ去ってくれないだろうか。
しかしぼくの願いは、はかなく消えた。
ためらいもせず、アリアはぼくの腕に注射針を突き立てた。
けれど所詮は、ニセ看護婦だ。
ぼくの血管を捉えることはできない。
「あれ、入っていかないな……」
アリアは、ぐりぐりと無理くり、針を進めようとする。
ぼくの左腕に、痛みが走る。痺れを伴う嫌な痛みだ。
冷汗が、背中をつたう。
すべての感覚が、やけにリアルだ。
これがただの夢ならば、跳び起きて目覚めても良いころなのに。
ゆっくりと時間をかけて、赤い薬液が注入されていく。
ぼくの腕は、どうなってしまうんだろう。
「長い夢……まだ醒めない」
アリアが呟く。
ぼくも同じ気持ちだった。
「わたしの、独り言ばっかりね」
アリアはぼくの髪に手かけた。
そのまま優しく、髪をすかれる。
「ゴメンね、注射痛かったね」
アリアは、枕とぼくの頭の間にその手を差し込んだ。
そしてぼくの顎を掴み、クイッと上向かせる。
不意をつかれた。
あっ、と声をあげることもできない。
アリアの額がぼくの額に、こつんと当たる、。
そして唇が重なった。
ほんの軽い口づけだった。
清潔で、熱のない。
挨拶程度のキスだ。
それなのに、ぼくにはそれが、ひどく甘く感じられた。
「セイくん、起きたらまた一緒に遊んでね」
アリアが囁く。
胸が、頬が、熱くなる。
嬉しかった。
これが夢でなければいいのに。
同時に頭の隅で、冷めた自分の声がした。
”アガミの術士は、夢に溺れてはいけない“
目覚めれば忘れてしまう、浅い夢なら見てもいい。
それは排泄と変わらない人間の生理だ。
けれど夢を貪ってはならない。拘泥してはいけない。
アリアのくれた、このキスは夢だ。
認識していることだけが救いだ。
それでも覚えてしまったこの甘さを、ぼくは恥じるべきなのだろう。
キスは目覚めの合図だ。
もうすぐこの夢も終わる。
景色が揺らぎ始める。
意識が浮上していく。
「きみの耳は、元から壊れてなんてなかったんだよ」
現実と夢の終わりの刹那。
アリアの口を借りて、誰かは言った。
ぼくの耳。
ミカさんの声を聞くことの出来ない欠陥品の耳。
「きみは繭の中で、守られて眠っているだけ。でも、もうすぐ起きる時間だ」
アリアなのか、誰なのか……彼女は優しくぼくに告げる。
「目が覚めたら、いっぱい、いっぱい、お話ししようね」
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
夢の余韻に浸る間もないほど、慌ただしい一日だった。
ニレイさんの詰めているウナギの仕事場とホスピタルを往復し、また別方面に打ち合わせに出ているサキさんに届け物をした。
午後も遅くなった時間。
トタトタトタ。
板張りの床を裸足で歩く音。
ホスピタルへ戻ったぼくを、出迎えたのはアリアだった。
「ただいま帰りました」
あの夢を見てから、初めてアリアと顔を合わせた。
しかし気まずさを感じる間もなかった。
「セイさん、電話」
「電話?ぼくにですか?」
「うん」
不機嫌そうに、アリアが答えた。
「もしもし?」
ホスピタル唯一の電話機は、玄関を入ってすぐの待合室に鎮座している。
靴を脱ぐのももどかしく、荷物を床に置いてぼくは受話器を取った。
「やっほー、わたしだよ。誰だか分かる?」
最近、聞いたばかりの声だった。
「谷さんのところのカナちゃんか?」
「ピンポーン!正解」
明るい声。
しかしそれが、よりぼくの不安を煽る。
アリアは基本的に、電話が鳴っても取らない。
けれどホスピタルで暮らす面子と、谷さんからの電話は例外だ。
いったんベルを二度鳴らし、一度切る。
そしてまたかけ直す。
これが符牒だ。
その決まりをカナは谷さんから、聞いたのだろう。
だからアリアは電話をとった。
なんの必要があって、谷さんは妹にそれを教えたんだ?
「で、今日は何の用?」
「聞いてないの?今日はお掃除があったの」
お掃除。
カナはマ”を払う仕事のことを、そう呼んだ。
「お宅の草四郎くんを引き取りにきて。彼ひとりで歩けそうにないから」
草四郎が、同行してたのか。
ぼくはなにも聞いていなかった。
「了解。ウチのがご迷惑をおかけした」
「聞かないの?何があったんだ?とか。怪我をしてるのか?とか」
「死んだ訳じゃないんだろう?」
カナの口調からいって、草四郎は深刻な状態ではないだろう。
それよりも気になるのは……
「お兄ちゃんに代わってくれ」
なんで谷さんは、自分で電話をかけてこなかったんだ?
「周平さんは、取り込み中」
やはり様子がおかしい。
電話口に出て、嫌味のひとつでも言うのが谷周平という男ではないか。
「今、どこ?すぐ行くよ」
「R院」
カナがいったのは、コウガミ傘下の社だった。
彼らの拠点は、どこにでもある。
「草四郎先生がどうしたの?」
電話を切って振り返ると、アリアが険しい顔でこちらを見ていた。
「いま女の人、誰?谷さんのところの人って言ってたけど、どういうこと?」
アリアは先日路上ですれ違った女子高生のことなどおぼえていないだろう。
ましてやそれが谷さんの妹で、ぼくらと同じ方面の力をもっているだなんて。
想像が付くわけがない。
「夕飯までには、戻ります」
しかし今は、アリアへの説明を考えている余裕がなかった。
待ち合わせでぼくを出迎えたのは、カナではなかった。
固い顔をした、その社の宮司だった。
ぼくを案内すると、彼はすぐに行ってしまった。
部屋に入るなり、血の臭いが鼻についた。
しかし草四郎は無傷だ。
こじんまりとしたその神社の集会室。
パイプ椅子を並べて、草四郎は寝かされていた。
顔は死人のように青い。
なのに額には玉のような汗が浮いていた。
近づいて、顔を覗き込む。
まもなく草四郎は、浅い眠りから覚めた。
「草四郎」
「……」
呼びかけると、無言のまま彼はぼくの腕にすがった。
「痛いぜ、草四郎」
まるで、ザイルを必死で掴む滑落間際の登山者だ。
「セイくん……ごめん」
ずいぶんと久しぶりに、くん付で呼ばれた。
途方に暮れた草四郎は、幼い顔をしていた。
目には涙の膜が張り、熱に酔っている。
「安心しろ。ぼくもミカさんもここにいる」
だから、しばらく休め。
それだけ言って、ぼくは口を閉じた。
「…………」
草四郎はもつれる舌で必死で、ぼくに何かを伝えようとした。
それを宥めて寝かしつける。
パイプ椅子を一脚借りて、じっと座っていた。
ひどく静かだった。
半時ほどたって、谷さんがやってきた。
「重症じゃないですか。病院に行った方がいいんじゃないですか?」
嫌味三分、心配七分。
歩いているのが不思議なほどの怪我だった。
「医者が縫える傷じゃない。知ってるだろ?」
間髪を入れずに言い返してきた。まだ谷さんには余裕がある。
「妹さんは?」
「妹というほど、気安い間柄じゃない。認識を改めてくれ。彼女なら呆れて帰ったよ」
彼は今日もウサギの面をつけていた。
面の下の右目はガーゼで塞がれている。
右のシャツのそではめくられて、包帯で巻かれ、三角巾で吊られていた。
シャツの裾には、血のシミがある。
”マ”のものではない。
赤い人間の血だ。
谷さん自身の血だろう。衣服に隠れた部分にも、傷を受けているにちがいない。
腕に巻かれているのは、ただの包帯ではない。呪薬と香料が塗りこめられた霊傷用のものだ。
「草四郎を守っていただいて、ありがとうございました」
礼を言った。
その場にいたわけではないが、想像はつく。
手練れの彼が負傷したのは、草四郎を庇ったためだろう。
谷さんは、喉の奥でククッと笑った。
「違うよ。標的を仕留めたのは草四郎くんだ……すごいもんだよ。一撃だった」
先日、谷さんの主催した”社会科見学”。
そこで目撃した”マ”を思い出した。
あんな化け物を草四郎が仕留めた?
しかもミカさんの力を使わずに?
「敵を一撃で倒した。ならなんで、あなたはケガをしたんです?」
「俺は仕事のときに、式神を使役することもある」
谷さんは多彩な術士だった。
ぼくが先日見た以外にも、様々な力を持っているらしい。
「草四郎くんの一撃は強烈でね。俺の式神まで焼いちまった」
暴発だ。
谷さんから半ば無理やりに与えられた力を、草四郎は上手く使うことが出来なかった。
人ならぬ者の力を使う時、術士もまた人ならぬ世界とその身を重ねる。
術が破られた時、その傷は術士に返る。
谷さんの傷はその結果だ。
「草四郎くんが気に病むことはない。そのうち俺の方が、彼に頼ることになるだろう。逸材だよ」
そして谷さんは、ビンをひとつ持ってきてぼくに見せる。
「きょうの成果だ」
ビンは缶コーヒーほどの大きさで蓋がついている。
ビンの中は赤黒い粘性の液体で満たされていた。
蓋には戒めに札が貼られている。
これが、草四郎が倒したという”マ”の残骸なのか。
「こいつを餌に、次はこれ以上の大物を釣り上げるつもりだ」
軽い口調で谷さんは言った。
ほの暗い執着。この人は憑かれたように、戦うことを求めている。
「少し休んだ方がいいですよ」
余計なお世話だろう。でも言わずにはいられなかった。
”マ”を祓うことは、点取りゲームではない。
異形の血は、闇と怨嗟でできている。
返り血を浴びた術士は、汚れを浄め祓わなければならない。
さもなくば闇に侵されてしまう。
しかしいくら洗っても、拭いきれない染みもあるのだ。
谷さんは、とても危うく見えた。
「大丈夫、大丈夫。俺は無敵なんだ」
陽気に、歌うように谷さんはいった。
「草四郎は、あなたと違って無敵じゃない。あいつを連れ出すのは、もうやめてください」
ぼくの言葉を聞くと、谷さんは笑った。
「今回の始末への参加を希望したのは、草四郎くんだ」
「嘘だ。あいつは嫌がっていたはずだ」
「信じたくないのか……本当なのに」
ふいに谷さんは、怪我をしていないほうの手をぼくに向ける。
その手のひらから、嫌な圧を感じる。
「…………!!」
転びそうになりながら飛びのいた。
「はは、きみでも分かったか。この前の勉強会で、草四郎くんにやったのはこういうことだ」
話に聞いていた。
しかし実際に体感して、初めて理解した。
内側を揺さぶられる感覚。
少し触れられただけで、めまいを起こす。
「俺は君らのカミサマと、話すことができない。乱暴に怒鳴って、こちらの声を拾ってもらうしかない」
「ミカさん……うちの守り神に何を言ったんです?」
「少しの間、この子のそばを離れてください。そうお願いした」
「素直に聞くような、お方じゃないんですけどね」
そのぼくの言葉は鼻で笑われる。
「でもお願いをきいてくれたよ。それに、俺はきっかけを作っただけだ」
きょう”マ”を払う際に、草四郎はミカさんの力を借りなかった。
そう谷さんは言った。
まだぼくにはそれが信じられない。
しかし谷さんが嘘をつく理由もない。
「しかし、君たちアガミのカミサマは難儀だな」
そう言って、谷さんが横たわる草四郎に目を向ける。
しかしいくら目をすがめても、谷さんにはそこにいるミカさんの姿を見ることは出来ない。
「肉を切るには肉切り包丁。魚には刺身包丁。俺たちコウガミは、状況によって道具を使い分ける」
”マ”は獲物。
術士は狩人。
術は狩りの道具。
谷さんの例えは単純だ。
「君たちのカミサマは銘刀だ。菜っ葉を切るのには過ぎた品だ。だから君たちアガミは器用にも、刀を鞘に納めたままで使う。それも優しくなぜるだけだ」
「褒められているようには、聞こえませんね」
「羨ましがっているのさ。俺たちが血と汗と泥に塗れて戦うときに、君らアガミは優雅に舞い踊る。それで戦果をあげているんだから、大したものだ」
ぼくらアガミ。谷さんのコウガミ。
同じ船に乗っているが、どこまでいっても混じることはない。ふたつの組織は異質なものだ。
話を続けても、不毛でしかない。
「あなたからすれば、ぼくらはヤワに見えるでしょう。けれど、何百年もそれでやってきたんです。それしか知らないですから」
血の匂い。不穏な空気。
早くこの人のそばから離れたい。
だが草四郎はまだ目覚めない。
「なにを焦っているんだ?セイくん」
ささくれだったこちらの神経を触る。笑い混じりの声。
艶がかったプラスティック。毒々しいピンクのウサギの面。
相変わらずふざけた男だ。
「まあ焦りもするか。草四郎くんが身を削るのは、君のためだからな」
谷さんの言う通りだ。
ポンコツのぼくを守るために、草四郎は無茶をする。
「草四郎くんは、本当はひとりで戦いたい。君が死ぬところを見たくないからだ」
ぼくは谷さんの言葉を遮った。
「なぜぼくらを放っておいてくれないんですか?」
「…………」
声を荒げたぼくを、谷さんは冷ややかに見やる。
「あなたは強い。そしてカナさんにタカセくん……他にも強い味方が控えているんでしょう。それで十分じゃないですか」
「足りない。まったく」
谷さんはぼくの顔をじっと見つめる。そこに何かを探す様に。
しかし何も見つけられなかったようだ。
谷さんはため息を付いた。
「酒が欲しいな。場所を変えよう」
「しゃんと歩け、しゃんと」
「…………はい、すいません」
小声だがはっきりと、草四郎は答えた。
だがその足元はおぼつかない。
ほとんど草四郎を担ぐようにして歩いた。
谷さんは今日は自家用車できたらしい。ぼくらはその黒いカムリに乗り込んだ。
草四郎を後部座席に放り込む。
「セイくん、運転を頼む」
助手席に座ると、谷さんはそのまま目を閉じた。
「どこへ向かえばいいんですか」
「俺の家へ。場所は覚えているだろう?」
それを最後に谷さんは沈黙した。
谷さんの家に着くとまず、電話を借りてホスピタルにかけた。
決められた合図を使う必要もなかった。
一回目のコールで、アリアは受話器を取った。
「草四郎先生は?」
「めまいを起こしたみたいです」
「……病院には?」
「少し休めば治ると思います……しばらく、ぼくが付き添っています」
「そっか」
アリアがほっとしたのが、電話越しに分かった。
「夕飯は作れなくて、すいません」
「出前を頼むから。気にしないで」
ニレイさんもサキさんも外出中。
いまホスピタルにはアリアひとりきりだ。
「でも、セイさん。できるだけ早く帰ってきて」
「分かりました」
草四郎の具合を聞いただけ。
アリアは、こちらの事情を何も尋ねなかった。
「寛いでくれ」
谷さんがいった。しかし三人がゆっくり座れる席などなかった。
草四郎は膝を抱えるようにして、カーペットに座る。
ぼくもその隣に腰を下ろす。
谷さんは、食卓の椅子に付いた。ぼくら二人を見下ろすような格好だ。
このリビングの他に、ベッドルームもあるようだ。
一人暮らしには十分すぎる程広い。
ここには、寝に帰るだけだ。
谷さんの言葉通り、生活の匂いが希薄な部屋だった。
書棚には、雑多な本が並んでいる。すべて編集の仕事絡みのものだろう。
オーディオも、テレビも、観葉植物もない。
ここに生活する人間の、人となりを示すものは何一つなかった。
この家にある酒は一種類だけだった。
「飲もうか」
谷さんがビンを傾ける。
バラバラの形をしたグラス3つに、ウイスキーがなみなみと注がれる。
氷も水さえも無しだ。
草四郎は、それを一気に飲み干した。
しかし未だ蒼白の顔面に、色が差すこともない。
そこでようやく谷さんは、ウサギの面を外した。
夕刻を迎えて、伸び始めた髭。
充血した目。
疲労の色が、微かに滲んでいる。
「始まりは、18年前」
谷さんはゆっくりとグラスを傾ける。そして話し始めた。
「お前さんたちのカミサマは、俺を指さし、ひとつの予言をした」
ミカさんが?
「…………!」
草四郎が身を固くする。
ぼくも、なにも言葉を発することが出来なかった。
「それが俺の運命を狂わせた」
谷さんは皮肉に唇を歪めた。
未来を見通す、ミカさんの能力。
人智を超えた力だ。
それがひとりの子供に向けられた。
本人とその周囲に、どれほどの衝撃を与えたのか。
想像に難くなかった。
「俺に与えられた予言は、約束された勝利。”神殺し”の運命だ」
そして、そのミカさんの予言を明かしたのは、ぼくの父……渋谷一だ。
「渋谷一は禁忌を犯した。カミサマの予言は門外不出なんだろう?」
「…………」
谷さんの問いかけに、無言でぼくは頷く。
彼が大社を治める谷家の養子に招かれたのには、明かされたこの予言と関りがあるのだろう。
コウガミはミカさんの予言を認めている。その事にも驚かされていた。
「そして渋谷一は、報いを受けることになった……」
谷さんは、何を知っているのだろう。
父は不慮の事故で亡くなった。
ぼくはそれしか聞いていない。
「”神殺し”……あなたはいつか、神を殺すというんですか?」
「そうだ。だから俺は無敵なんだ。そこいらの化生ごときに負ける訳はない」
腕に巻かれた包帯。
谷さんはその真新しい傷など無いように振舞う。
それがひどく痛々しくうつった。
「神を殺した人間は、どうなるか知っているか?」
谷さんは、ぼくらではなく見えないミカさんに語りかけていた。
「神を殺した人間は、神に代わらねばならない」
それは人間としての、死を意味する。
勝利と死の神託。
それを語る谷さんの声に熱はない。
だがその双眸には爛々と、黒い炎があった。
「運命はいつか必ず訪れる……けれど待つことに疲れた」
「だからあなたは、積極的に十日町の事件に関わった……彼が呼びだそうとした魔物こそが、あなたの殺す神なんですか?」
「さてね。俺に分かることなんて何も無い。すべてはカミサマのお導き通りだ」
その予言は、昏い狂気に縁取られていた。
ぼくと草四郎もその運命の輪に引きずり込まれようとしている。
草四郎に求めるのは、予言の続きだけではない。そう谷さんは言った。
「俺は強くて、脆い男が好きだ。血を引き寄せてくれるからね。だから草四郎くんはいい」
谷さんは血を求める。戦いを求める。
いずれ、その手で殺す神に出会うために。
そして谷さんはぼくに向かって、笑いかける。
「きみにも使い道がある。手負いの獣は狙われる。その傷口から、たちのぼる匂いが魔性を誘う」




