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花とペン  作者: 井上マイ
20/68

20.

「やっぱり家がいちばん」

 朝に家を出て、まだ日も暮れてないのだが。

 長い旅行から帰ってきたように、アリアは言った。

 先ほど見せた感情の揺らぎは、もう消えていた。

 いつものアリアだ。

 玄関先で草履を脱ぐやいなや、板張りの床に倒れこむ。

 着付けも、結い上げた髪もぐちゃぐちゃになってしまう。

「もう!そんなところに寝転がらないでくださいよ」

 しかし窮屈だったんだろう。十分もしないうちにアリアは、結局のそのそと起き上がった。

「この帯外して」

「はい……あーっ!待ってってば!だから襦袢を脱ぐのは、ぼくが居なくなってからにしてください!」


「夕飯は、練習室で食べる。出かけたせいで、仕事溜まってるから」

そうしてアリアは、練習室にこもってしまった。

「アリアさん、入りますよ」

 できあがった夕飯を盆にのせ、練習室へ持っていく。

 ノックをしても返事がないと思ったら案の定だ。

 文机に突っ伏してアリアは、眠っていた。

 ひとりになって、疲れがどっと出たのだろう。

 ジーンズ生地のスカートがめくれて、パンツ丸見えである。

 まったくこの子ときたら。

「ほら、寝るなら布団で寝て下さい」

「…う、う」

 アリアは生返事を返した。

「夕飯はラップかけて、キッチンに置いておきます。朝に食って下さい」

「一時間たったら起こしに来て……仕事しなきゃ……」

「はい」

 返事はしたが、その願いを聞いてやる気はない。

 今日は、ゆっくり休めばいい。


「ただいまー」

 22時を回ってサキさんは、ようやく戻ってきた。

 この人は下戸だ。酒が入っている訳でもない。

 なのに、えらく上機嫌だ。

 どこに寄ってきたのか、小さな紙袋を下げている。

「着物脱いじゃって下さい。アリアさんのとまとめて、クリーニングに出しますから」

「あいよ」

 着替え終わるやいなや、サキさんは階段下の納戸をゴソゴソ漁りはじめる。

「あったあった」

 サキさんの目当ては、CDラジカセだったようだ。

「ここで、音楽聞いていいかい?」

「どうぞ。なんの曲ですか?」

「聞けばわかるさ」

 ぼくは清書作業の最中だったが、構わない。

 周りで音が鳴っていようと、気にならないたちだ。

 しかしサキさんが、ぼくと一緒に音楽鑑賞とは。

 珍しいこともあるもんだ。

 サキさんの部屋には、ちゃんとかれ専用のミニコンポが置いてある。

 サキさんは普段、ひとり静かにベートーベンなどを楽しんでいる。


 サキさんが提げていた紙袋の中身は、カセットテープだった。

 聞き込まれているテープなんだろう。

 開始早々、ほこりっぽいノイズがパリパリと入った。

 もともとの録音状態も悪い。

 奥行きのない、鋭角なだけの音。

 しかしそんな安出のエフェクトは、その音楽によく合っていた。

 聞けばわかる。

 サキさんの言う通りだった。

 でも思い出すまでに、三曲かかった。

 ぼくは両の人差し指で、テーブルのへりを叩く。

 青臭い歌詞と単純なコード進行。

 勢いだけのつたない演奏。

 ぼくはこの曲をよく知っている。

 このドラムを叩いているのはぼくだ。


 二本指のまま最後のシラバスを叩き終え、パントマイムでハイハットの震えを止める。

 ついでに、スティック回しのパフォーマンスもサービスだ。

 やっぱり体に染み付いてる。

 自然と手は動く。

 サキさんは、そこでラジカセのスイッチを止めた。

 なんだか不服そうな顔をしている。

 ぼくの見せた反応は、期待していたものと違ったらしい。

「ずいぶん楽しそうだなぁ、おいこら」

 なぜかサキさんは、喧嘩腰だ。

 本当に驚いた。

 ライブ会場限定販売。1本500円。200本限定。

 ぼくたちメンバーがで手売りした、レアな音源だ。


 ぼくと通りすがりの女子高生の会話。それをサキさんが立ち聞きしたのは、今日の昼過ぎ。

 女子高生がたった一言口にした、バンド名の略称。

 ヒントはそれだけ。

 それからわずか数時間のうちに、このどマイナーな音源を見つけ出してきたわけだ。

 敏腕探偵もかくやである。

「いやあ懐かしい。どこから持ってきたんですか、このテープ?」

「草四郎くんの下宿に押し掛けて、借りてきた」

「その手がありましたか」

 灯台もと暗しだ。入手先は、我が叔父貴殿だ。

 一年前、草四郎はまだ高校生だった。

 あの頃からぼくらはコンビだった。草四郎は散々、ぼくに付き合わされてきた。

「なんで黙ってた。こんの裏切りものが」

 サキさんはぼくに指を突き付け、こういった。

「裏切者?なんですかいきなり」

「音楽に罪はない。だが、バンドマン……お前らは敵だ!!」

 ドンとサキさんは、テーブルを叩いた。

 裏切り者の次は敵ときた。

 なかなか穏やかじゃない。

「お前さんが、アリアくんのしどけない姿を見ても、動じなかった訳がよく分かったぜ」

 サキさんはそう言うが。

 アリアのアレは、しどけないというより、だらしないというのが正しい。

「おっしゃる意味がよく分からんのですが」

 首をかしげるぼくに、サキさんはなおも詰め寄る。

「何人、その毒牙にかけた?」

「は……?」

「ファンの子を、何人食ったのかって聞いてんだよ」

 ………ハァ。まったく、ため息しか出てこない。

「サキさんが想像しているようなことなんて、一度もありませんよ」

 気になるあの娘を、スカしたバンドマンにかっさらわれた。

 そんな辛い過去でも、サキさんはお持ちなんだろうか?

「へー、ふーん、ほー。すっ呆けるつもりかい」

 サキさんのひがみっぽい追及は、やむことをしらない。

「たいした人気だったんだろ?そのころの君は」

「ぼくにキャーキャーいう子はいませんでした。ファンはみんな他の三人のものです」

 一番後にバンドに入り、いちばん年下。

 デカい顔をして、客に手を出せるほど偉くもなかった。

「まぁ、添え物というか、間に合わせというか。三枚目担当というか、味噌っかすというか、箸休めというか……」

 まったく謙遜ではなく、事実である。

 それを聞いて、サキさんの怒りはだいぶ和らいだようだ。

 ニヤニヤ笑いが戻ってきた。

「セイくんも、顔を塗って、髪を伸ばしていたのか?」

「そういう種類のバンドじゃなかったですね」

 派手な衣装もきてなかった。

  せいぜい皮パンをはいて、短い髪をディップでつんと立てていた程度だ。

「若者音楽は、よう分からんな」

 そう言うサキさん同様、ぼくにも分かってなかった。

 サウンドも、衣装も、ぜんぶリーダーが考えていた。ぼくは"彼"に言われた通りにやっていただけだ。

「戻りたくないのか?音楽の世界に」

「ははは、ないですよ」

 ドラムを叩くのは楽しかった。

 けれど、またあの時を繰り返したいとは思わない。

「悔しくないのか、ピート・ベストよ」

 また妙な名前が飛び出してきた。サキさんは草四郎から、ぼくがバンドを抜けた経緯も聞いて来たんだろう。

「ぼくがクビになったバンドは、そんなに偉大なもんじゃなかったですよ」


 そう、クビになったようなものだ。  

 ぼくにはドラムの才能は、ない。

 ぼくの脱退後、バンドはすぐに新しいドラマーを加入させた。

 レコード会社との契約も決まって、今年中にはいよいよデビューだ。

「よし、わかった……」

 サキさんに、ガシッと肩を掴まれた。

「さっきの発言を全面的に撤回させてもらう。君は裏切りものでも、敵でもない……俺の同士だ」

 サキさんの誤解は晴れたらしい。

 しかし、素直に喜ぶ気にはなれない。

「君はやはり小説を書け!復讐戦さ。君を切り捨てた奴等を、ペンで刻んでやるんだ」

 ああ。

 サキさんの話の行きつく先は、いつもそこである。


 音楽活動に未練はない。

 ”お化けの仕事のために、人の大事なものの中に潜り込む”

 昼間のアリアの、言葉の通りだ。

 あのバンドに身を投じたのは、アガミの仕事のためだった。


 高校卒業後に就職した会社は、すぐ辞めた。

 しかしアガミの術士としても、ぼくは欠陥品だった。

 術士になれば、花の名前を貰えるはずだった。

 しかしぼくへの許しは、いつまで待っても出なかった。


 アガミの年長者たちは、ぼくに期待などこれっぽっちもしていなかった。

「こら、ごく潰し」

 口の悪い双子の先輩は、遠慮もなしにいった。

「術士はあきらめろ。正業について真面目に働け」

 ぼくが折れないと知ると、ため息をつかれた。

「術士でなくとも、アガミの一員であることには変わらないんだ。外から俺たちを支えてくれ」

 みんなそう説得しようとした。

 でも、術士になれない自分など想像できなかった。

 先輩の術士たちがいうことは正しい。 

 ぼくに術士の適性はなかった。 

 ぼくの耳は、ミカさんの声を聞くことができない。

 ミカさんの力を借りる術士として、致命的な欠陥だ。 


 だが、ぼくは術士になった。

 ミカさんがぼくを選んだからだ。

 術士を選ぶのは、アガミの年長者ではない。

 当人である、ぼくの意思も関係ない。

 ミカさんだ。ミカさんが、ぼくを呼んだ。

 聞こえないぼくが、応えることはないのに。

 それでもぼくを選んでくれた。

 

 ミカさんは変わった神様だ。

 笛の音と踊りが大好きで、かくれんぼのように姿を見せたり消したりする。

 歌うことが大好きで、人懐こい。

 天真爛漫な五歳児のような守り神さまだ。

 しかしミカさんは別の顔も持つ。

 未来を見通す目と、魔を祓う強大な力。

 アガミの術士はミカさんの力を借りて、異形と対峙する。

 草四郎の笛も、ぼくの踊りも、ミカさんをあやすためのものだ。

 術士であるぼくら自身には、一分の力もない。 



 ぼくの傷ついた耳の理由は、父にあるのだろう。

 18年前、ぼくとエイの父親は死んだ。

 父は先代の「この花」。

 ぼくと同じ花の名を使っていた。

 事故だった。

 聞いているのはたったそれだけ。

 父の死因について、誰も多くを語らない。


 ホスピタルに来る前、孝三叔父から見せられた十日町丈の遺体写真。

 それを見て腑に落ちた。

 身をよじり、眼窩からは蛆が湧く惨殺体だ。

 父は彼同様に、惨めな最後をとげたのだろう。

 アガミの一族は、ミカさんで繋がっている。

 ことにぼくと父の絆は、強いのだと思う。

 ミカさんの声が聞こえない。

 これは父からぼくへと受け継がれた、傷だ。

 それは今でも、ぼくの中で膿み、わだかまっている。


 父の死の真相が知りたい。

 息子であるぼくの手で、無念を晴らしたい。

 そんな熱意はない。

 だが術士としてこの場に留まり続けていれば、見えてくるものがあるだろう。

 あるのは、ボンヤリとした予感だけだ。


「ミカさんの気まぐれのせいで、草四郎は苦労する。ひとりで二人分の働きをせないかん」

 先輩方いうとおりだ。

 ミカさんはアガミの守り神で、術士の力もミカさんの加護ゆえだ。 

 術士は、舞手と奏者のふたり一組が最小単位だ。

 舞手のぼくと、奏者の草四郎の力量はまるで釣り合わない。

 草四郎をぼくの相手に選んだのも、ミカさんだ。

 傷を持つぼくなどには、過ぎた相棒だ。

 辛抱強く、ミカさんの言葉に耳をすませ、心を砕いて笛を吹く。

 だからミカさんは、草四郎に応える。

 

 草四郎の花の名は、菖蒲だ。

 この名は、孝三叔父が使っていたものだ。

 ぼくたちを、五島万の元へと送り込んだ叔父だ。

 術士という前線から退いて久しく、今は裏方としてぼくらを差配する立場だ。

 孝三叔父は、死んだぼくの父と組んでいた。

 父が舞手で、孝三叔父が奏者だ。

 21歳の若さで父は死んだ。

 その時、孝三叔父も力を失った。

 孝三叔父の白髪交じりの髪は、耳の下までやや長く伸ばされている。

 それを掬い上げれば、ただ黒く穴が見えるだけだ。

 錯乱の果てに、叔父は両外耳を自分の手で削いだ。

 そう聞いている。


 草四郎はぼくの父の、末の弟だ。

 長兄の死。その相棒の花の名。

 草四郎もまたぼくと同じく、影を受け継いでいる。

 "彼"の献身は、それを撥ね退けようとする気負いの現れなのかもしれない。

 胸の内を、尋ねたことはない。

 草四郎がアガミの仕事に、何を求めているのかしらない。

 だがいつか、非力なぼくを振りほどかなかったことを、後悔する日がくるかもしれない。


 18才、プータローのぼくは旅回りに出された。

 二人組になったばかりの草四郎とは、すぐに離ればなれになった。

 年長の術士たちの雑用を務めながら、一年以上かけて断続的に全国を回った。

 同行する先輩術者は、いつも同じというわけではなかった。

 さまざまな先輩に付き添って、色々な場所にいった。

 そして様々な人々に出会った。

 ぼくの役目は車の運転、宿の手配、飯の確保……。

 何よりも大切な仕事は、見ること、そして待つことだった。

 ぼくは年長者たちの仕事を、二年間ただ見続けた。

 旅の中でさまざまな異形を目の当たりにした。

 しかしぼくにできることは、何もなかった。

 自分の出番を、ただ待ち続けた。

 たったひとつ習い覚えた踊り形を、繰り返し練習しながら。

 だがどれだけ見ても、待っても、自分の色を見つけることはできなかった。

 どうやってこの先、一人前の術士として立って行けばよいのか。取っ掛かりすら見えなかった。

 旅の終わり、東京駅のホームに降り立ったぼくを、草四郎が出迎えに来てくれた。まだ高校生だった"彼"の紺色の制服と、幼い横顔。

「セイさん」

 草四郎のその声は、微かに震えていた。

 不安を抱えながら、ぼくの帰りを待っていた。

 ぼくらはふたりでひとりだ。

 自分ひとりでは、自分の花の色を定めることなどできない。

 ひとりでどん詰まりにいた気になっていた。

 けれどここは、道の始めだ。 

 ぼくも草四郎も、これからどんどん変わっていく。

 いつか、草四郎がぼくの元を去る日がくるかもしれない。

 しかしその時のぼくは、今日とは違う場所に立っている。

 ひとりでも立っていかねば、ならないのだ。


 アガミの術士の仕事は、異形と対峙することだけではない。

 この花をという名を与えられ、ぼくに最初に任されたのは友達作りだった。

「この男と、知り合ってこい」

 孝三叔父が、ぼくに若い男の写った写真を見せた。

 のちにぼくが所属することになる、バンドのリーダーだった。

 アガミは動く。すべてはミカさんの、意志通りに。

 ミカさんは、どこから"彼"を見つけ出して来たのだろう?

 ミカさんの尺度は、我々人間とは異なる。

 過去、未来、現在、すべてを見通す。

 我々術士は、小さな駒だ。

 ミカさん見ている盤面を、読み解くことなどおぼつかない。

 ミカさんは、その若きロックンローラーを指し示した。

 ミカさんの予言は絶対だった。

 "彼"はアガミの家にとって、何かの縁のある人だ。


 こちらの思惑を知らせぬまま、なに食わぬ顔をして近づく。

 まるで、スパイか忍者だ。

 だが、ぼくに罪悪感はなかった。

 こいつを殺せ。

 金を騙しとってこい。

 そんなことを、命じられた訳じゃない。

 友達になれと言われただけだ。

 ましてや相手は同性だ。


 まず"彼"のバンドのライブを見に行った。

 デビュー前のステージ、小さなライブハウスだ。

 熱心な"彼"のファンは、10代20代の女の子だ。若い男の観客は珍しい。

 ライブステージに原宿での路上演奏。2回、3回と通ううちに、向こうから声をかけてもらった。

「よく見に来てくれてるよね。うちのバンド気に入ってくれた?」

 あなたの声と歌詞が好きだ。

 素直にそう答えた。

 ぼくには"彼"の音楽のことは、よく分からない。

 でも、ステージで一心に歌う姿が眩しく写った。


 まず"彼"の友達と、友達になった。

 そこからバイクが"彼"の趣味だと聞いて、中型二輪の免許を取った。

 "彼"がよく出演するライブハウスで、アルバイトを始めた。

「のめりこみすぎじゃないですか?横で見てて、気持ちが悪い」

 草四郎にも、そう言われた。

 バンドマン相手に一発決めたい、追っかけギャルのやることとあまり変わらない。

 初めて貰った仕事を前にして、ぼくは肩に力が入っていた。

 楽器を始めたのも、その過剰なやる気の一貫だ。

 "彼"と共通の話題が欲しかった。

 そういう不純な動機で、やり始めた。

 まさかそのあと"彼"のバンドのメンバーになれるだなんて、思ってなかった。

 楽器の中でも、なぜぼくはドラムを選んだのか。

 アガミは光神から、小さな神社を任せられている。

 夏は、町内会の祭りの会場になる。

 ぼくはお囃子で、太鼓を叩いていた。

 それが取っ掛かりになるかもしれない……なんて甘い考えだった。

 ドラムと祭り太鼓とは、勝手が違う。

 四苦八苦の日々が始まった。


「俺の尻を狙う、ホモだと思ってた」

 無事、"彼"と親しくなった後の話だ。

 面と向かってそう言われた。

「熱心に、俺ばかり見つめてた」

 酒の席だ。

 "彼"はぼくの肩を抱き寄せ、頬っぺたに唇をプチュッと付けた。"彼"のサラサラした長髪が触れる。

 ぞわっと鳥肌が立った。

「やーめーろー。嬉しくない、嬉しくない」

 ぼくが抗議をすると、"彼"と他のバンドメンバーがケタケタ笑う。

「ロッカーとしての、俺に惚れたって訳でもないんだろう?」

 "彼"は、ちゃんと見抜いていた。

「子犬みたいにしっぽをブンブンぶんまわして、目をキラキラさせて近づいてきやがって。まんまと騙された」

 最近は生意気ばかり言いやがってと、"彼"は口を尖らせる。

 でも本気で怒っているわけではない。目は笑っている。

「なぁセイ、何で俺を選んだ?」

 その時、"彼"のその問いに、何と答えたのかは忘れた。

 でも、その後に"彼"がぼくに言った言葉は、おぼえている。

「大正解だよ。セイ、俺と一緒に来い。世界で一番いい景色を見せてやる」

 こういう台詞を、恥ずかしげもなくいう人だった。

 "彼"は自分の才能を確信していた。

 そして本当に才能があった。

 ロックが"彼"の全てだった。

 小説がすべてのサキさんと、タイプが似ているかもしれない。


 リーダーの"彼"と"彼"の同級生が高校時代に結成したバンドだ。

 初代のドラマーは大学卒業後、サラリーマンになる道を選び、バンドを抜けた。

 その後何人かのドラマーが入ってきたが、いずれも居着かなかった。

 ぼくは一回限りの、ピンチヒッターのはずだった。

 だが、ズルズルとなし崩しに居座ることになってしまった。

「もういい。めんどくさい。お前でいい」

 リーダーである"彼"の鶴の一声で、加入が決まった。

 "彼"も他のバンドメンバーも、ぼくより五つほど年が上だった。

 ぼくのドラムプレイは、まったく期待されていなかった。

 出回り始めたばかりのリズムマシーンより扱いが楽だ。

 車の運転もできる。話し相手にもなる。

 その程度の理由だ。

 年下で実力のなかったぼくは、ミソッカス扱いを受けながらも、みんなからよく可愛がられた。

 とかく我の強い他のメンバーたちの、程よい緩衝材だった。

「お前はきっと伸びる。だって、それだけドラムが好きなんだから」

 "彼"から貰った、数少ない誉め言葉だ。


 アガミの家の庭には、使われていない物置小屋がひとつあった。

 物置の内側にホームセンターで買った防音材を貼り、月賦で買ったドラムセットを運び込んだ。

 多い日で16時間、ぼくは物置で過ごした。

 教則本にかかれている基礎練習を一通り、1日30セット繰り返した。

 あとはひたすらバンドの曲の練習だ。

 腕が上がらなくなるまで、叩き続けた。

 食事は物置の中から出ず、握り飯で済ませた。

 喉が乾けば、ヤカンに汲み置きした水を飲んだ。

 密閉された物置の中、汗が滝のように流れれば、塩を舐めてしのいだ。

 アルバイト中も、風呂の中でも、気づけば指をスティックがわりにリズムを刻む。あるいは小声でトコトコ、スネアのリズムを歌う。

 電車の中など、手も口も動かせない時は、頭の中で空想のドラムセットに向かった。

 サキさんに言った通りだ。女の子と遊んでいる暇なんてなかった。

 ぼくはずっとドラムを叩いていた。

 手の皮は、何度も赤剥けた。

 肩も、腰も、腕も、熱を持ってズキズキ痛んだ。

 体重が8キロ落ちて、頬がこけた。

「ロッカーらしい顔つきになってきたじゃないか」

 嬉しそうに"彼"は笑った。

 何としてでも、"彼"の懐に飛び込む。

 対象である"彼"にも、見破られるほどに稚拙な企みだった。

 無我夢中だ。計算なんてできなかった。

 まるで取り憑かれたようだ。自分でも説明できない熱に駆り立てられていた。


 草四郎はずっと隣で、そんなぼくを見ていた。

「セイさんは、どこに向かおうとしてるんだ?」

 ミカさんは変わらず、ぼくの周りをパタパタ飛び回っていた。


 ぼくは術士だ。

 アガミの仕事のために、"彼"に近づいた。

 ドラムなんて、その仕事のための口実に過ぎない。

 正気に戻るのは、定期的に挟まれる別の仕事の時だけだった。

 踊りの稽古は、疎かになっていた。

 なのに草四郎と並び、異形を前にすれば、不思議と技は以前よりも冴えた。

「ミカさんのための舞は、決められた形をなぞれば、いいというものではない」

 ぼくに舞を仕込んだ、先輩そう言った。

 その言葉の重みがようやく、分かり始めていた。

 ミカさんの声、滅すべき異形の発する叫び、そして人の鼓動。

 すべての共鳴の中で、ぼくは舞うのだ。

 出会い別れ、すべては移りゆく。

 同じ踊りを、二度踊ることはできない。

 その時の主旋律は"彼"だった。

 ミカさんは、人の心に湧き出す幻影を糧にする。

 たぶん"彼"は将来、大勢の人々に夢を見せる存在になるのだろう。

 ぼくの役割は、花開く前の"彼"を、少しだけ支えることだ。

 ミカさんへ捧げる舞を彩るのは、舞手自身の血と汗だ。

 誰がいったのか。しめっぽい箴言だ。

 だがその言葉通り身を削ってぼくは踊った。

 しかし、どんな踊りにも終わりがある。


 ある日のスタジオからの帰り道だ。

 先を歩く"彼"の背中が、遠くに見えた。

 そしてぼくは、ここでの役目を終えたことを知った。

 

 "彼"がアガミにとって、なんの意味を持つ人なのか分からずじまいだった。

 ぼくは仕事はあくまでも、"彼"とミカさんとを繋ぐ細い道を作ることだった。

 自分の視線の外側で、なにが果たされたのかは分からない。

 アガミの先輩方も、なにもぼくには伝えない。

 けれども、気づかないわけはない。

 ぼくのための音楽はそこで鳴りやんだ。

 残響のひとつも残さずに。


 それから数か月をかけて、ぼくはバンドを去る準備をした。

 隠し事の下手なぼくにしては、うまく立ち回った。

 バンドは順調だった。

 新しいドラマーは、所属先のレコード会社がすぐに用意してきてくれた。

 ぼくよりもよほど腕前がある。性格だって悪くない。きっと他のメンバーとも、上手くやっていける。

 正式にメンバーたちに辞意を告げたのは、別れの日が差し迫ってきてからだった。


 しかし、"彼"は誰より先に気づいていた。ぼくが変わってしまったことに。

 "彼"はぼくを、引き留めはしなかった。

 恩知らずで勝手なぼくの物言いに、怒りを見せることもなかった。

「残念だ」

 "彼"は静かにそう言った。

 それが半年前の話だ。

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