20.
「やっぱり家がいちばん」
朝に家を出て、まだ日も暮れてないのだが。
長い旅行から帰ってきたように、アリアは言った。
先ほど見せた感情の揺らぎは、もう消えていた。
いつものアリアだ。
玄関先で草履を脱ぐやいなや、板張りの床に倒れこむ。
着付けも、結い上げた髪もぐちゃぐちゃになってしまう。
「もう!そんなところに寝転がらないでくださいよ」
しかし窮屈だったんだろう。十分もしないうちにアリアは、結局のそのそと起き上がった。
「この帯外して」
「はい……あーっ!待ってってば!だから襦袢を脱ぐのは、ぼくが居なくなってからにしてください!」
「夕飯は、練習室で食べる。出かけたせいで、仕事溜まってるから」
そうしてアリアは、練習室にこもってしまった。
「アリアさん、入りますよ」
できあがった夕飯を盆にのせ、練習室へ持っていく。
ノックをしても返事がないと思ったら案の定だ。
文机に突っ伏してアリアは、眠っていた。
ひとりになって、疲れがどっと出たのだろう。
ジーンズ生地のスカートがめくれて、パンツ丸見えである。
まったくこの子ときたら。
「ほら、寝るなら布団で寝て下さい」
「…う、う」
アリアは生返事を返した。
「夕飯はラップかけて、キッチンに置いておきます。朝に食って下さい」
「一時間たったら起こしに来て……仕事しなきゃ……」
「はい」
返事はしたが、その願いを聞いてやる気はない。
今日は、ゆっくり休めばいい。
「ただいまー」
22時を回ってサキさんは、ようやく戻ってきた。
この人は下戸だ。酒が入っている訳でもない。
なのに、えらく上機嫌だ。
どこに寄ってきたのか、小さな紙袋を下げている。
「着物脱いじゃって下さい。アリアさんのとまとめて、クリーニングに出しますから」
「あいよ」
着替え終わるやいなや、サキさんは階段下の納戸をゴソゴソ漁りはじめる。
「あったあった」
サキさんの目当ては、CDラジカセだったようだ。
「ここで、音楽聞いていいかい?」
「どうぞ。なんの曲ですか?」
「聞けばわかるさ」
ぼくは清書作業の最中だったが、構わない。
周りで音が鳴っていようと、気にならないたちだ。
しかしサキさんが、ぼくと一緒に音楽鑑賞とは。
珍しいこともあるもんだ。
サキさんの部屋には、ちゃんとかれ専用のミニコンポが置いてある。
サキさんは普段、ひとり静かにベートーベンなどを楽しんでいる。
サキさんが提げていた紙袋の中身は、カセットテープだった。
聞き込まれているテープなんだろう。
開始早々、ほこりっぽいノイズがパリパリと入った。
もともとの録音状態も悪い。
奥行きのない、鋭角なだけの音。
しかしそんな安出のエフェクトは、その音楽によく合っていた。
聞けばわかる。
サキさんの言う通りだった。
でも思い出すまでに、三曲かかった。
ぼくは両の人差し指で、テーブルのへりを叩く。
青臭い歌詞と単純なコード進行。
勢いだけのつたない演奏。
ぼくはこの曲をよく知っている。
このドラムを叩いているのはぼくだ。
二本指のまま最後のシラバスを叩き終え、パントマイムでハイハットの震えを止める。
ついでに、スティック回しのパフォーマンスもサービスだ。
やっぱり体に染み付いてる。
自然と手は動く。
サキさんは、そこでラジカセのスイッチを止めた。
なんだか不服そうな顔をしている。
ぼくの見せた反応は、期待していたものと違ったらしい。
「ずいぶん楽しそうだなぁ、おいこら」
なぜかサキさんは、喧嘩腰だ。
本当に驚いた。
ライブ会場限定販売。1本500円。200本限定。
ぼくたちメンバーがで手売りした、レアな音源だ。
ぼくと通りすがりの女子高生の会話。それをサキさんが立ち聞きしたのは、今日の昼過ぎ。
女子高生がたった一言口にした、バンド名の略称。
ヒントはそれだけ。
それからわずか数時間のうちに、このどマイナーな音源を見つけ出してきたわけだ。
敏腕探偵もかくやである。
「いやあ懐かしい。どこから持ってきたんですか、このテープ?」
「草四郎くんの下宿に押し掛けて、借りてきた」
「その手がありましたか」
灯台もと暗しだ。入手先は、我が叔父貴殿だ。
一年前、草四郎はまだ高校生だった。
あの頃からぼくらはコンビだった。草四郎は散々、ぼくに付き合わされてきた。
「なんで黙ってた。こんの裏切りものが」
サキさんはぼくに指を突き付け、こういった。
「裏切者?なんですかいきなり」
「音楽に罪はない。だが、バンドマン……お前らは敵だ!!」
ドンとサキさんは、テーブルを叩いた。
裏切り者の次は敵ときた。
なかなか穏やかじゃない。
「お前さんが、アリアくんのしどけない姿を見ても、動じなかった訳がよく分かったぜ」
サキさんはそう言うが。
アリアのアレは、しどけないというより、だらしないというのが正しい。
「おっしゃる意味がよく分からんのですが」
首をかしげるぼくに、サキさんはなおも詰め寄る。
「何人、その毒牙にかけた?」
「は……?」
「ファンの子を、何人食ったのかって聞いてんだよ」
………ハァ。まったく、ため息しか出てこない。
「サキさんが想像しているようなことなんて、一度もありませんよ」
気になるあの娘を、スカしたバンドマンにかっさらわれた。
そんな辛い過去でも、サキさんはお持ちなんだろうか?
「へー、ふーん、ほー。すっ呆けるつもりかい」
サキさんのひがみっぽい追及は、やむことをしらない。
「たいした人気だったんだろ?そのころの君は」
「ぼくにキャーキャーいう子はいませんでした。ファンはみんな他の三人のものです」
一番後にバンドに入り、いちばん年下。
デカい顔をして、客に手を出せるほど偉くもなかった。
「まぁ、添え物というか、間に合わせというか。三枚目担当というか、味噌っかすというか、箸休めというか……」
まったく謙遜ではなく、事実である。
それを聞いて、サキさんの怒りはだいぶ和らいだようだ。
ニヤニヤ笑いが戻ってきた。
「セイくんも、顔を塗って、髪を伸ばしていたのか?」
「そういう種類のバンドじゃなかったですね」
派手な衣装もきてなかった。
せいぜい皮パンをはいて、短い髪をディップでつんと立てていた程度だ。
「若者音楽は、よう分からんな」
そう言うサキさん同様、ぼくにも分かってなかった。
サウンドも、衣装も、ぜんぶリーダーが考えていた。ぼくは"彼"に言われた通りにやっていただけだ。
「戻りたくないのか?音楽の世界に」
「ははは、ないですよ」
ドラムを叩くのは楽しかった。
けれど、またあの時を繰り返したいとは思わない。
「悔しくないのか、ピート・ベストよ」
また妙な名前が飛び出してきた。サキさんは草四郎から、ぼくがバンドを抜けた経緯も聞いて来たんだろう。
「ぼくがクビになったバンドは、そんなに偉大なもんじゃなかったですよ」
そう、クビになったようなものだ。
ぼくにはドラムの才能は、ない。
ぼくの脱退後、バンドはすぐに新しいドラマーを加入させた。
レコード会社との契約も決まって、今年中にはいよいよデビューだ。
「よし、わかった……」
サキさんに、ガシッと肩を掴まれた。
「さっきの発言を全面的に撤回させてもらう。君は裏切りものでも、敵でもない……俺の同士だ」
サキさんの誤解は晴れたらしい。
しかし、素直に喜ぶ気にはなれない。
「君はやはり小説を書け!復讐戦さ。君を切り捨てた奴等を、ペンで刻んでやるんだ」
ああ。
サキさんの話の行きつく先は、いつもそこである。
音楽活動に未練はない。
”お化けの仕事のために、人の大事なものの中に潜り込む”
昼間のアリアの、言葉の通りだ。
あのバンドに身を投じたのは、アガミの仕事のためだった。
高校卒業後に就職した会社は、すぐ辞めた。
しかしアガミの術士としても、ぼくは欠陥品だった。
術士になれば、花の名前を貰えるはずだった。
しかしぼくへの許しは、いつまで待っても出なかった。
アガミの年長者たちは、ぼくに期待などこれっぽっちもしていなかった。
「こら、ごく潰し」
口の悪い双子の先輩は、遠慮もなしにいった。
「術士はあきらめろ。正業について真面目に働け」
ぼくが折れないと知ると、ため息をつかれた。
「術士でなくとも、アガミの一員であることには変わらないんだ。外から俺たちを支えてくれ」
みんなそう説得しようとした。
でも、術士になれない自分など想像できなかった。
先輩の術士たちがいうことは正しい。
ぼくに術士の適性はなかった。
ぼくの耳は、ミカさんの声を聞くことができない。
ミカさんの力を借りる術士として、致命的な欠陥だ。
だが、ぼくは術士になった。
ミカさんがぼくを選んだからだ。
術士を選ぶのは、アガミの年長者ではない。
当人である、ぼくの意思も関係ない。
ミカさんだ。ミカさんが、ぼくを呼んだ。
聞こえないぼくが、応えることはないのに。
それでもぼくを選んでくれた。
ミカさんは変わった神様だ。
笛の音と踊りが大好きで、かくれんぼのように姿を見せたり消したりする。
歌うことが大好きで、人懐こい。
天真爛漫な五歳児のような守り神さまだ。
しかしミカさんは別の顔も持つ。
未来を見通す目と、魔を祓う強大な力。
アガミの術士はミカさんの力を借りて、異形と対峙する。
草四郎の笛も、ぼくの踊りも、ミカさんをあやすためのものだ。
術士であるぼくら自身には、一分の力もない。
ぼくの傷ついた耳の理由は、父にあるのだろう。
18年前、ぼくとエイの父親は死んだ。
父は先代の「この花」。
ぼくと同じ花の名を使っていた。
事故だった。
聞いているのはたったそれだけ。
父の死因について、誰も多くを語らない。
ホスピタルに来る前、孝三叔父から見せられた十日町丈の遺体写真。
それを見て腑に落ちた。
身をよじり、眼窩からは蛆が湧く惨殺体だ。
父は彼同様に、惨めな最後をとげたのだろう。
アガミの一族は、ミカさんで繋がっている。
ことにぼくと父の絆は、強いのだと思う。
ミカさんの声が聞こえない。
これは父からぼくへと受け継がれた、傷だ。
それは今でも、ぼくの中で膿み、わだかまっている。
父の死の真相が知りたい。
息子であるぼくの手で、無念を晴らしたい。
そんな熱意はない。
だが術士としてこの場に留まり続けていれば、見えてくるものがあるだろう。
あるのは、ボンヤリとした予感だけだ。
「ミカさんの気まぐれのせいで、草四郎は苦労する。ひとりで二人分の働きをせないかん」
先輩方いうとおりだ。
ミカさんはアガミの守り神で、術士の力もミカさんの加護ゆえだ。
術士は、舞手と奏者のふたり一組が最小単位だ。
舞手のぼくと、奏者の草四郎の力量はまるで釣り合わない。
草四郎をぼくの相手に選んだのも、ミカさんだ。
傷を持つぼくなどには、過ぎた相棒だ。
辛抱強く、ミカさんの言葉に耳をすませ、心を砕いて笛を吹く。
だからミカさんは、草四郎に応える。
草四郎の花の名は、菖蒲だ。
この名は、孝三叔父が使っていたものだ。
ぼくたちを、五島万の元へと送り込んだ叔父だ。
術士という前線から退いて久しく、今は裏方としてぼくらを差配する立場だ。
孝三叔父は、死んだぼくの父と組んでいた。
父が舞手で、孝三叔父が奏者だ。
21歳の若さで父は死んだ。
その時、孝三叔父も力を失った。
孝三叔父の白髪交じりの髪は、耳の下までやや長く伸ばされている。
それを掬い上げれば、ただ黒く穴が見えるだけだ。
錯乱の果てに、叔父は両外耳を自分の手で削いだ。
そう聞いている。
草四郎はぼくの父の、末の弟だ。
長兄の死。その相棒の花の名。
草四郎もまたぼくと同じく、影を受け継いでいる。
"彼"の献身は、それを撥ね退けようとする気負いの現れなのかもしれない。
胸の内を、尋ねたことはない。
草四郎がアガミの仕事に、何を求めているのかしらない。
だがいつか、非力なぼくを振りほどかなかったことを、後悔する日がくるかもしれない。
18才、プータローのぼくは旅回りに出された。
二人組になったばかりの草四郎とは、すぐに離ればなれになった。
年長の術士たちの雑用を務めながら、一年以上かけて断続的に全国を回った。
同行する先輩術者は、いつも同じというわけではなかった。
さまざまな先輩に付き添って、色々な場所にいった。
そして様々な人々に出会った。
ぼくの役目は車の運転、宿の手配、飯の確保……。
何よりも大切な仕事は、見ること、そして待つことだった。
ぼくは年長者たちの仕事を、二年間ただ見続けた。
旅の中でさまざまな異形を目の当たりにした。
しかしぼくにできることは、何もなかった。
自分の出番を、ただ待ち続けた。
たったひとつ習い覚えた踊り形を、繰り返し練習しながら。
だがどれだけ見ても、待っても、自分の色を見つけることはできなかった。
どうやってこの先、一人前の術士として立って行けばよいのか。取っ掛かりすら見えなかった。
旅の終わり、東京駅のホームに降り立ったぼくを、草四郎が出迎えに来てくれた。まだ高校生だった"彼"の紺色の制服と、幼い横顔。
「セイさん」
草四郎のその声は、微かに震えていた。
不安を抱えながら、ぼくの帰りを待っていた。
ぼくらはふたりでひとりだ。
自分ひとりでは、自分の花の色を定めることなどできない。
ひとりでどん詰まりにいた気になっていた。
けれどここは、道の始めだ。
ぼくも草四郎も、これからどんどん変わっていく。
いつか、草四郎がぼくの元を去る日がくるかもしれない。
しかしその時のぼくは、今日とは違う場所に立っている。
ひとりでも立っていかねば、ならないのだ。
アガミの術士の仕事は、異形と対峙することだけではない。
この花をという名を与えられ、ぼくに最初に任されたのは友達作りだった。
「この男と、知り合ってこい」
孝三叔父が、ぼくに若い男の写った写真を見せた。
のちにぼくが所属することになる、バンドのリーダーだった。
アガミは動く。すべてはミカさんの、意志通りに。
ミカさんは、どこから"彼"を見つけ出して来たのだろう?
ミカさんの尺度は、我々人間とは異なる。
過去、未来、現在、すべてを見通す。
我々術士は、小さな駒だ。
ミカさん見ている盤面を、読み解くことなどおぼつかない。
ミカさんは、その若きロックンローラーを指し示した。
ミカさんの予言は絶対だった。
"彼"はアガミの家にとって、何かの縁のある人だ。
こちらの思惑を知らせぬまま、なに食わぬ顔をして近づく。
まるで、スパイか忍者だ。
だが、ぼくに罪悪感はなかった。
こいつを殺せ。
金を騙しとってこい。
そんなことを、命じられた訳じゃない。
友達になれと言われただけだ。
ましてや相手は同性だ。
まず"彼"のバンドのライブを見に行った。
デビュー前のステージ、小さなライブハウスだ。
熱心な"彼"のファンは、10代20代の女の子だ。若い男の観客は珍しい。
ライブステージに原宿での路上演奏。2回、3回と通ううちに、向こうから声をかけてもらった。
「よく見に来てくれてるよね。うちのバンド気に入ってくれた?」
あなたの声と歌詞が好きだ。
素直にそう答えた。
ぼくには"彼"の音楽のことは、よく分からない。
でも、ステージで一心に歌う姿が眩しく写った。
まず"彼"の友達と、友達になった。
そこからバイクが"彼"の趣味だと聞いて、中型二輪の免許を取った。
"彼"がよく出演するライブハウスで、アルバイトを始めた。
「のめりこみすぎじゃないですか?横で見てて、気持ちが悪い」
草四郎にも、そう言われた。
バンドマン相手に一発決めたい、追っかけギャルのやることとあまり変わらない。
初めて貰った仕事を前にして、ぼくは肩に力が入っていた。
楽器を始めたのも、その過剰なやる気の一貫だ。
"彼"と共通の話題が欲しかった。
そういう不純な動機で、やり始めた。
まさかそのあと"彼"のバンドのメンバーになれるだなんて、思ってなかった。
楽器の中でも、なぜぼくはドラムを選んだのか。
アガミは光神から、小さな神社を任せられている。
夏は、町内会の祭りの会場になる。
ぼくはお囃子で、太鼓を叩いていた。
それが取っ掛かりになるかもしれない……なんて甘い考えだった。
ドラムと祭り太鼓とは、勝手が違う。
四苦八苦の日々が始まった。
「俺の尻を狙う、ホモだと思ってた」
無事、"彼"と親しくなった後の話だ。
面と向かってそう言われた。
「熱心に、俺ばかり見つめてた」
酒の席だ。
"彼"はぼくの肩を抱き寄せ、頬っぺたに唇をプチュッと付けた。"彼"のサラサラした長髪が触れる。
ぞわっと鳥肌が立った。
「やーめーろー。嬉しくない、嬉しくない」
ぼくが抗議をすると、"彼"と他のバンドメンバーがケタケタ笑う。
「ロッカーとしての、俺に惚れたって訳でもないんだろう?」
"彼"は、ちゃんと見抜いていた。
「子犬みたいにしっぽをブンブンぶんまわして、目をキラキラさせて近づいてきやがって。まんまと騙された」
最近は生意気ばかり言いやがってと、"彼"は口を尖らせる。
でも本気で怒っているわけではない。目は笑っている。
「なぁセイ、何で俺を選んだ?」
その時、"彼"のその問いに、何と答えたのかは忘れた。
でも、その後に"彼"がぼくに言った言葉は、おぼえている。
「大正解だよ。セイ、俺と一緒に来い。世界で一番いい景色を見せてやる」
こういう台詞を、恥ずかしげもなくいう人だった。
"彼"は自分の才能を確信していた。
そして本当に才能があった。
ロックが"彼"の全てだった。
小説がすべてのサキさんと、タイプが似ているかもしれない。
リーダーの"彼"と"彼"の同級生が高校時代に結成したバンドだ。
初代のドラマーは大学卒業後、サラリーマンになる道を選び、バンドを抜けた。
その後何人かのドラマーが入ってきたが、いずれも居着かなかった。
ぼくは一回限りの、ピンチヒッターのはずだった。
だが、ズルズルとなし崩しに居座ることになってしまった。
「もういい。めんどくさい。お前でいい」
リーダーである"彼"の鶴の一声で、加入が決まった。
"彼"も他のバンドメンバーも、ぼくより五つほど年が上だった。
ぼくのドラムプレイは、まったく期待されていなかった。
出回り始めたばかりのリズムマシーンより扱いが楽だ。
車の運転もできる。話し相手にもなる。
その程度の理由だ。
年下で実力のなかったぼくは、ミソッカス扱いを受けながらも、みんなからよく可愛がられた。
とかく我の強い他のメンバーたちの、程よい緩衝材だった。
「お前はきっと伸びる。だって、それだけドラムが好きなんだから」
"彼"から貰った、数少ない誉め言葉だ。
アガミの家の庭には、使われていない物置小屋がひとつあった。
物置の内側にホームセンターで買った防音材を貼り、月賦で買ったドラムセットを運び込んだ。
多い日で16時間、ぼくは物置で過ごした。
教則本にかかれている基礎練習を一通り、1日30セット繰り返した。
あとはひたすらバンドの曲の練習だ。
腕が上がらなくなるまで、叩き続けた。
食事は物置の中から出ず、握り飯で済ませた。
喉が乾けば、ヤカンに汲み置きした水を飲んだ。
密閉された物置の中、汗が滝のように流れれば、塩を舐めてしのいだ。
アルバイト中も、風呂の中でも、気づけば指をスティックがわりにリズムを刻む。あるいは小声でトコトコ、スネアのリズムを歌う。
電車の中など、手も口も動かせない時は、頭の中で空想のドラムセットに向かった。
サキさんに言った通りだ。女の子と遊んでいる暇なんてなかった。
ぼくはずっとドラムを叩いていた。
手の皮は、何度も赤剥けた。
肩も、腰も、腕も、熱を持ってズキズキ痛んだ。
体重が8キロ落ちて、頬がこけた。
「ロッカーらしい顔つきになってきたじゃないか」
嬉しそうに"彼"は笑った。
何としてでも、"彼"の懐に飛び込む。
対象である"彼"にも、見破られるほどに稚拙な企みだった。
無我夢中だ。計算なんてできなかった。
まるで取り憑かれたようだ。自分でも説明できない熱に駆り立てられていた。
草四郎はずっと隣で、そんなぼくを見ていた。
「セイさんは、どこに向かおうとしてるんだ?」
ミカさんは変わらず、ぼくの周りをパタパタ飛び回っていた。
ぼくは術士だ。
アガミの仕事のために、"彼"に近づいた。
ドラムなんて、その仕事のための口実に過ぎない。
正気に戻るのは、定期的に挟まれる別の仕事の時だけだった。
踊りの稽古は、疎かになっていた。
なのに草四郎と並び、異形を前にすれば、不思議と技は以前よりも冴えた。
「ミカさんのための舞は、決められた形をなぞれば、いいというものではない」
ぼくに舞を仕込んだ、先輩そう言った。
その言葉の重みがようやく、分かり始めていた。
ミカさんの声、滅すべき異形の発する叫び、そして人の鼓動。
すべての共鳴の中で、ぼくは舞うのだ。
出会い別れ、すべては移りゆく。
同じ踊りを、二度踊ることはできない。
その時の主旋律は"彼"だった。
ミカさんは、人の心に湧き出す幻影を糧にする。
たぶん"彼"は将来、大勢の人々に夢を見せる存在になるのだろう。
ぼくの役割は、花開く前の"彼"を、少しだけ支えることだ。
ミカさんへ捧げる舞を彩るのは、舞手自身の血と汗だ。
誰がいったのか。しめっぽい箴言だ。
だがその言葉通り身を削ってぼくは踊った。
しかし、どんな踊りにも終わりがある。
ある日のスタジオからの帰り道だ。
先を歩く"彼"の背中が、遠くに見えた。
そしてぼくは、ここでの役目を終えたことを知った。
"彼"がアガミにとって、なんの意味を持つ人なのか分からずじまいだった。
ぼくは仕事はあくまでも、"彼"とミカさんとを繋ぐ細い道を作ることだった。
自分の視線の外側で、なにが果たされたのかは分からない。
アガミの先輩方も、なにもぼくには伝えない。
けれども、気づかないわけはない。
ぼくのための音楽はそこで鳴りやんだ。
残響のひとつも残さずに。
それから数か月をかけて、ぼくはバンドを去る準備をした。
隠し事の下手なぼくにしては、うまく立ち回った。
バンドは順調だった。
新しいドラマーは、所属先のレコード会社がすぐに用意してきてくれた。
ぼくよりもよほど腕前がある。性格だって悪くない。きっと他のメンバーとも、上手くやっていける。
正式にメンバーたちに辞意を告げたのは、別れの日が差し迫ってきてからだった。
しかし、"彼"は誰より先に気づいていた。ぼくが変わってしまったことに。
"彼"はぼくを、引き留めはしなかった。
恩知らずで勝手なぼくの物言いに、怒りを見せることもなかった。
「残念だ」
"彼"は静かにそう言った。
それが半年前の話だ。




