EP09.マリカリウス
秘密結社『グライア』の数十万の軍勢を一瞬で無力化した奇跡。しかし、国を救ったはずの特例対策室『鵺』の司令室には、お祝いの雰囲気など微塵もなかった。
巣鴨をはじめとする警察幹部、そして政府の重鎮たちは、モニターに映る静かな海を見つめながら、ただガタガタと震えていた。彼らは、アリスという少女が秘めた『世界の命運を握る恐怖』を、骨の髄まで目の当たりにしてしまったのだ。
「100分の1の拘束状態で、一国の軍隊を凌駕した……。もし、あの拘束がすべて解かれたら、この世界はどうなる?」
幹部の一人が青い顔で呟く。だが、巣鴨は知っていた。本当に恐ろしいのは、現在の彼女の仮想領域『リトルワールド』ではない。
――『マリカリウス』。
それは、大きな白い卵形の物体。かつてアリスを怪物へと作り変えたメガコーポが遺した、アリスの『最大絶対能力』を100%完全解放するための、文字通りの禁断の揺り籠だった。
世界を単分子レベルで破滅に追い込むことができるマシン。そんな都合のいい兵器など存在するはずがないと思われていた。しかし、その構造とアリスの能力の親和性を知るほどに、技術者たちはそれが「完全に可能である」という悪夢を思い知ることになったのだ。
そのマシンがひとたびアリスと融合すれば、地球上のすべてのネットワーク、軍事衛星、果ては核ミサイルの発射コードまでが彼女の「体の一部」と化す。現代社会において、インフラを完全に掌握されることがどれほど致命的かは言うまでもない。
だが、真の絶望はそこではなかった。このマシンと繋がることで、アリスはただ「望むだけ」で、世界一の軍隊をその手中に収める女王となるのだ。
マシンの内部には、未知の特殊鋼を精錬する製造設備と、自己増殖型の加工組み立て工場が内蔵されている。さらに恐ろしいことに、その特殊鋼の主成分は、地球のどこにでもある砂や土に配合されているケイ素などの成分だった。つまり、このマシンが地上に接触するだけで、無限に材料を取り込むことができる。
戦況に応じて最適な兵器を、地上の土から、リアルタイムかつ無限に自動生成する。そして、その万単位の自動兵器をアリスの超並列思考で完璧に操作し、世界中を隈なく絨毯爆撃するのだ。たとえ国家規模の核ミサイルで反撃したところで、アリスの情報統制によって不発に終わるか、あるいは彼女の生成した迎撃兵器によって完璧に撃ち落とされる。
彼女の軍事力に勝てる存在など、この地球上には存在しない。
我々が最高傑作だと自負していた『リトルワールド』のような有限の兵器など、彼女の真の力の前には子供騙しでしかなかったのだ。
だが、このマシンを調査した主任技師は、巣鴨にさらに恐ろしい事実を報告していた。巣鴨はその国家崩壊レベルの秘密を、胸の奥底にしまい込み、誰にも言わなかった。
「このマシンとアリスが組み合わされれば世界に戦争を起こして勝てる」というのは、決して誇張ではない確定した未来なのだ。
なぜ、そんな危険なものが今も残されているのか?
もともとは、解体処分してしまおうという話だった。だが、アリスの意思や思考、精神のベースの一部が、皮肉にもこの『マリカリウス』の演算回路内で発生しているという事実が判明したのだ。マシンの内部のどこかに、アリスの肉体、あるいは脳の部位の一部が有機的に組み込まれており、アリスという生命を維持するためには、このマシンを破壊するわけにはいかないという。
恐ろしいマシンをこのままにしておくことはできないが、壊せばアリスの命はない。
そんな絶望的な状況の中、一筋の光明が見えた。最近の調査で、アリスの本体とこのマシンを繋ぐ連携は、距離を無視できる「量子絡み合い(量子系)」を利用していることが分かったのだ。どれだけ物理的に離そうともアリスの生命維持には影響がない。さらに、このマシン自体には、アリスへ自らの現在地やステータスを能動的に送信する機能はないことも判明した。
「位置さえ分からなければ、彼女でもアクセスしようがない」
こうして、一つの極秘作戦が立案された。作戦名は『アビス・ロック』。
「『マリカリウス』の秘匿場所は、国家最重要機密としてブラックボックス化されている。だが、あの来栖の異常な探知能力とアリスのハッキング能力にかかれば、どんな暗号網もいずれ突破されるだろう。だからこそ――場所が看破されたところで、物理的に手も足も出ない場所を選定した」
結論は単純極まるものだった。「深海への投棄」。
政府直轄の特殊サルベージ船を極秘裏に動かし、機材ごと日本海溝の最深部――太陽の光すら決して届かない『深海1万メートル』の底へと沈める。場所がバレようが、水圧と暗黒の物理障壁によってアリスの手には絶対に届かない。人類の手の届かない暗黒の棺へ永久封印する計画が、静かに始まった。
最大の問題は、作戦遂行の輸送中にマシンを奪還されること。
相手は当然、天才ハッカー・中島来栖、そしてアリスだ。巣鴨は、この計画がすでに彼らに漏れていることを前提に行動していた。
【中編:大人の執念、子供の天才】
「へぇ……大人の癖に、なかなか陰険で良い作戦を思いつくじゃん?」
特例対策室の自席で、中島来栖は不敵な笑みを浮かべていた。
極秘計画のはずだった。だが、来栖の天才的な情報網は、大人の泥臭い通信ログのわずかな歪みから『マリカリウス』の存在と、それを海に沈めるという計画をすでに完璧に嗅ぎつけていた。
「アリス姫の大事なものを深海にポイしようなんて、とんでもないことだ。こないだの似非マシンは有限で役に立たない木偶の坊だったけど、これは別。僕の専用マシンのアップデートのためにも、ポイ捨てなんか絶対にさせないよ」
来栖の指が、キーボードの上を猛烈な速度で踊る。
作戦決行は今夜。輸送トラックが横浜港の特務艦へ『マリカリウス』を運び込む手筈だ。来栖はトラックの自動運行AIのコアを乗っ取り、道中の信号機をすべてハッキングして、荷物を自分の秘密ガレージへと「誤配送」させる完璧な妨害工作を仕掛けた。
「ふふん、これで大人の計画はオシャカさ!」
――ガチリ。
勝ち誇る来栖の背後で、妙に重苦しい機械音が響いた。
見ると、オフィスのメインサーバーへと繋がる極太の通信プラグが、物理的に引き抜かれていた。
「……あれ?」
「悪いな来栖。今夜はサーバーの『物理メンテナンス』の日だ。ついでにお前のデスクのLANケーブルも、大元のルーターごと全部抜いといたぞ」
背後で、缶コーヒーを片手に不敵にニヤリと笑う巣鴨の姿があった。
「なっ、課長!? 何すんのさ! 嫌がらせ!?」
「嫌がらせじゃない、正当な職務だ」
焦った来栖は、すかさず懐から個人用の超高出力モバイルWiFi端末を取り出し、直接トラックの誘導衛星へとバイパスを繋ごうとした。しかし、端末の画面には【電波圏外:指向性妨害ジャミング作動中】の文字が非情に点滅する。
オフィスの天井の四隅を見上げると、普段は使われていない警察用のアナログ式電波ジャマーが、火花を散らしながらけたたましく作動していた。
「あ、あれ!? なんでピンポイントで僕の秘密の周波数が潰されてるの!?」
「俺がこの対策室の課長を何年やってると思ってるんだ。今まで何人もの国家級ハッカーから警察の防壁を守ってきたんだ。お前ら天才ガキがやりそうな裏ルートなんて、空気の味で分かるんだよ」
普段の巣鴨は、頼りない凡人課長に見える。だが、彼は伊達に高度IT・ロボット・サイボーグ系犯罪の最前線で修羅場を潜り抜け、課長にまで登り詰めたわけではないのだ。
単細胞な来栖が「大人の邪魔」をしようと画策するルート、思考の癖、ハッキングの仕掛け先――そのすべてを、巣鴨は『泥臭い大人の経験と執念』で完璧に先回りし、物理的・アナログ的な手段で徹底的に圧殺していった。
「うわあああ! 課長、どいて! 退いてよぉ! アリスちゃんの最高のおもちゃが沈んじゃう!」
「ダメだ。これ以上、お前たちに神の力を背負わせるわけにはいかん。……悪く思うなよ、来栖」
来栖がデスクでジタバタと暴れる中、窓の外からは、夜の闇を切り裂いて横浜港へとひた走る、政府の特殊大型輸送ヘリの重低音な爆音が響いていた。
結果――大人の計画は完璧に遂行された。
超禁忌プラットフォーム『マリカリウス』は、幾重もの物理プロテクトをかけられたまま、光の届かない日本海溝の深海1万メートルの泥の中へと、深く、深く、永遠に沈んでいった。
【後日譚:檻の中の微睡み】
深夜。大嵐のような攻防戦が終わり、オフィスには静寂が戻っていた。
巣鴨にすべてのルートを遮断され、大失恋でもしたかのような絶望顔でデスクに突っ伏している来栖。彼は最後の手段として、精神世界を通じて、ダイブカプセルの中で眠るアリスへと意識を繋げていた。
「……ごめんね、アリスちゃん。大人の汚い罠のせいで、アリスちゃんの本当の力を取り戻せるはずの『マリカリウス』が、海の底に沈んじゃった……。僕の力が足りないせいで……」
来栖の涙ながらの「懺悔」が、真っ白な空白の仮想空間に寂しく響く。
アリスが最大の力を発揮するための、世界に唯一つのゆりかご。それを失ってしまったのだ。絶望して怒るか、あるいは悲しむか――。
しかし、白い空間に現れたアリスのアバターは、いつもと変わらない、気高くて美しい微笑みを浮かべたままであった。
『なんだ、そんなこと』
アリスはクスッと悪戯っぽく笑い、涼しい顔で、まるで気にも留めていない様子で首を傾げた。
『巣鴨課長たちさんも、本当に臆病で、滑稽で……そして、とっても可愛いわね。あんな鉄の塊を海の底に沈めても、私の力が抑えられるわけではないのに』
「え……?」
呆然とする来栖の前で、アリスはまるで「マリカリウスは本当は不要」だと言わんばかりの、圧倒的な全能の瞳を瞬かせた。
『アリスはどこにでもいて、どこにもいないの。あんなもの、最初からなくても、世の中の兵器全て・・・・』
そこまで言って、アリスはふっと言葉を止め、オフィスの監視カメラの映像越しに、自分のために冷や汗を流しながらアナログジャマーを不器用にお片付けしている巣鴨の姿を見つめた。
『……ふふふ。巣鴨さんたちの努力も認めてあげようかしら。この不自由な現実を、この檻の中で眺めているのも暇つぶしにはちょうどいいわ』
アリスは仮想空間でふわりとドレスを揺らし、心地よさそうに目を閉じた。
『おやすみなさい、来栖。私はまた、楽しい夢を見るわ。……そうそう、あなたが心配していることは、なにも問題ないから安心しなさい?』
何事もなかったかのように、アリスは深い、深い眠りへとついていく。
100分の1の檻に縛られているのではない。彼女は、巣鴨たちの必死な「大人としての足掻き」を愛おしみ、見守るために、自らその檻の中で微睡んでいるのだ。
仮想空間から現実へと意識を戻した来栖は、アリスのあまりの底知れなさと、圧倒的な神々しさに、ただただため息を漏らすことしかできなかった。そして、彼女が遺した最後の言葉の真意を悟り、ふっと表情を緩める。
「とにかく、マリカリウスが無事なら……クレストロも安心というわけだな、巣鴨さんたちもご苦労さま」
アリスの強大な力に恐れと同時に安心感を感じ、少年は大人が必死になり達成した計画に微笑んだ。




