☆ 連理の絆、定めの渡し・前編
あるとき、あるところに、一人の女がおりました。
年は妙やか、名を叶美琴と申します。
彼女には互いに将来を誓い合った婚約者がおりましたが、残念ながら彼・母木孝助は若くして亡くなってしまいました。旅行先の山中にて遺体が発見されたのです。
孝助が命を落としたまさにその瞬間、既に彼の実家にて共暮らしをしておった美琴は、得も言われぬ不安感に襲われました。虫の報せとでも申しましょうか。何やら胸が締め付けられるような痛みと喪失感を覚えたのです。
それでもまさか、まさか彼が死んだとまでは思いも寄らない美琴は、実際に訃報を耳にしてからというものの常に茫然自失。諸々の雑務にも全く身が入りません。
やがて孝助の身体が返ってまいりますと、ついに美琴は喚きに喚きました。白い顔を一目見て、冷たい頬に触れて、事実として突きつけられる彼の死を、せめて気持ちの上でも否定せんと叫んだのです。
その様はまるで孝助の父・勇助の悔しさと、母・絹子の悲しさをも代わりに発露しているようでございました。
「…………たい……」
そしてひとしきり吼え、むせんだ後、美琴はぽつりと呟きました。
「殺してやりたい……」
「え? 美琴さん?」
「……もし、こーくんを死なせた奴がおるんなら、うちが、この手で、くびり殺してやりたい……」
絹子が問い返すと、美琴の声にはより強く明確な意思が込められてゆきます。
「分かっとります。そがあなことしたって、こーくんはきっと喜ばんし、生き返るわけとも違う。うちの気だって、どうせ晴れたりせんなん……分かっとります。けども、このまま何もせんとおったら、気が、くるうてしまう!」
美琴は唇を震わせ、肌が白むほどに強く両肘を掴みました。
「でも、でも、ほんは一番、こがあなこと考えてしまう自分が嫌なんです! こーくんが危ないとき、気付けんかった。何も出来んかった。それを誤魔化したがっとる、自分が憎うて憎うて仕方ないんです!」
堪えきれずに美琴は、とうとう全身を掻き毟り始めます。
「いけない! 美琴ちゃん、落ち着きなさい!!」
その美琴を止めたのは、彼女を案じて念のために張り込んでいた魔女と赤鬼でした。突入するなりスキンヘッドの赤鬼が腕力で押さえたところを、魔女は懐に常備していた誘眠の符を急いで美琴の首筋に貼り付けたのです。
あわや大蛇へ変わらんとする直前で、彼女は畳の上に倒れ臥せりました。
「事態は思った以上に深刻ね……あなた達にも話さなきゃいけないことがあるわ。協力してほしいの」
絹子が美琴を布団に寝かせたのを確認すると、魔女は苦々しく言いました。そして孝助の両親と、通夜のために田舎から出ていた祖父・宗助――若い時分に比べれば随分と脂が抜けております――を、一部屋に集めて語ったのです。
その内容とは、かつて美琴が恋人の存在を明かした夜に、魔女が事情を知らぬ子狐に説いたものとほぼ同一でございました。
「出来ることなら孝助くんと、その家族のあなた達には教えたくなかったわ。可能な限り普通に接してほしかった。そして美琴ちゃん自身にも『普通』であると信じさせて、そのまま何事も無く天寿を全うさせたかった。それでこそ彼女は安らかになって、内にある暗い感情も清められるのだと思うから」
だけども、と一息を置いて魔女は続けます。
「その要となる孝助くんが死んでしまった。今この場ではどうにか止められたけど、この先も抑制し続けられる保証は無いわ。美琴ちゃんの特性から考えても、時間に任せて解決するようなものではないから」
「だったら、お前はどうしたいんじゃ? どうするべきだと思っとるが?」
あぐらを掻き、腕を組んでいた勇助が口を挟みました。対して魔女は一度目を細めてから答えます。
「当初の予定通り、彼女の記憶を別なものにすり替えるわ。眠っている今のうちにやってしまいたい。あなた達、母木家に求める協力ってのは、その後のこと。二度とあの子には関わらないで、昔のことを思い出させないようにしてほしいのよ」
「えらい乱暴なことするんやね」
勇助の隣で正座していた絹子が口を尖らせました。
「最後の手段よ。仕方ないわ」
「ほなら、何? 結婚の約束までしとった女に、孝助は死んだまま忘れられるん? きれいさっぱり? そんなん、孝助が浮かばれんやないの! ふざけんといて!」
いきり立つ絹子を、魔女は冷静に睨み返します。
「ふざけてなどいないわ。絹子さん。あなたも物怪なら、美琴ちゃんがどれだけ大きく深い力の持ち主かって感じたことくらいあるでしょう? 感傷でこれ以上の危険を放置しておくことは出来ないの。化け狸程度じゃ美琴ちゃんを止められない」
そこまで言うと魔女は、もう何も話すことは無いとばかりに席を立ちました。そして赤鬼に運ばせていたトランクケースから薄黄色の液体に満ちた小瓶を取り、美琴を寝かせた部屋の襖を開きます。
「…………っ!」
と、そこで魔女は絶句致しました。それと申しますのも、完全に眠らせたはずの美琴が目の前で立ち尽くしていたからです。
「大丈夫です……もう、落ち着きましたけえ」
しかもその沈痛な面持ちは、これまでの話を聞いていたことを言外のうちに物語っておりました。
「さっきの札……効き目が弱くなるようにこっそり剥がしておきました」
そう新たに口を開いたのは、背筋を伸ばしている赤鬼です。
「管理人さん。彼女ももう子供じゃないんです。いつまでも臭い物に蓋するわけにもいかないでしょう。これからのことは彼女自身に選択させるべきじゃないんですか」
「どいつもこいつも、感傷で周りを危険に晒すなっつってんでしょうが、このバカ鬼!」
「それは貴女にこそ当てはまることじゃないですかね?」
「な、んですって?」
「本気で世界だけを守るつもりなら、問答無用で全部を忘れさせて、彼女を孤島にでも隔離させておくべきでしょう」
「うるさいわね! でも、そうしないって、私達は決めたんでしょうが!」
「そうであればこそ、どんなに危険と隣り合わせでも、彼女に任せなければ意味が無い。美琴自身が乗り越えなければ、本当の未来は訪れないんじゃないですか?」
「そんなこと分かってるわ。分かってるけど……っ!」
「もう、ええですけえ」
ふらりとおぼつかない足取りで、しかしはっきりとした目的のもとに美琴は、言い争いを始めた魔女と赤鬼の間へと割り込みました。
そして膝から崩れ、両手の平を畳に突き、絞るように言うのです。
「こーくんのこと、忘れたあないです。けどもこのままじゃったら、うちゃあ何を仕出かすか自分でも分からんなん」
美琴の目から滴る雫が、ぽたりぽたりと手元に染みを作りました。
「じゃけえ、管理人さん……お願いします。この暗い気持ちを、消せるんなら、いっそきれいに消してつかあさい」
「それは、死ぬよりも辛い選択かもしれませんよ。それでもよいと言うのですか?」
赤鬼の確認に美琴は震えながら首肯致しました。それを受けた魔女が小瓶の栓を開けると、部屋にかぐわしい胡麻の香りが漂います。
魔女が小瓶の中の液体を薬指に付け、美琴の唇に塗ろうとした矢先、
「そこまでの覚悟があるんなら、一か八か、賭けてみたらどうじゃ?」
それまで前屈みの姿勢で静観を保っていた宗助が、ようやく口を出しました。
「死んだ人間を生き返らせることは出来ん。これは確かじゃ。だがひょっとしたら、孝助を死なせないようには出来るかも分からん」
この発言の意味するところを、誰もが最初は理解し得ませんでした。勇助に至っては「とうとう親父もボケたか」などと絹子に耳打ちまでする始末です。
「いや、どう説明したもんかな。ずっと昔に聞いたっきりじゃから、ぼんやりとしか浮かばん。人や物怪には肉体と魂があって、それが重なって生きていて、でも魂は何でもすり抜けることが出来て……時間を、そう、時間をすり抜けるんじゃ……作用と、反作用……過去へ向かう力も常に流れておるから、それに乗れば……」
宗助は頭を抱えたり、身振り手振りを加えたりして、古い記憶を手繰り寄せました。
「魂が時間を遡るですって? そんなの……」
魔女は宗助の回想を遮ろうとして、逆に言葉を詰まらせました。何故ならば、その内容は、魔女自身が理論立てて実践したことのあるものだからです。
「あ、でも、そんなの根拠が無いわ。成功する保証が無いじゃないの」
「だが少なくとも、わしにこの話をした幽霊は大蛇と滅びの未来のことを知っておった。確かに成功する見込みは薄いかもしれんが、全くのゼロではなかろうが」
「そうは言うけど……私は反対よ」
歯痒そうに魔女は言い、足元の美琴に目をやりました。美琴は何も喋りませんでしたが、顔を上げて眼差しは強かに、宗助の続きを待っておるのです。
「大体ね、人も物怪も、肉体と魂を切り離しては生きていられないのよ。魂だけになるってのは、肉体を即死させること。それをやったところで、抜け出た魂はボロボロで思考能力の欠片も残っていないことが殆どなのよ。力の暴走は免れないわ」
魔女が反論をすると、宗助は息子夫婦に目を向けました。
「そう言や絹子……前になんか言うとらんがったか? ほれ、タヌキの由来がどうとか」
「ああ、あれ? せやね。魂抜きやったらうちら化け狸の十八番や。かなり上手に出来るで」
勇助と絹子は、まだオンボロアパートに同棲していた頃の一幕を思い出します。
「……同じことよ。多少は保つかもしれないけど、魂だけでは長く生きられないもの。過去に行けたところで肉体が無いんだから、すぐに崩れて暴走してしまう。それでは犬死に以下よ」
「せやけど狐がおったら簡単やで。うちらと反対の技が得意やからな。あいつら、合うてない肉体に魂を入れることまで出来んねん」
「そんな都合よく物怪の狐がいるわけ……」
魔女は一蹴しようと致しますが、いるのです。母木家の宗助から勇助へ、そして孝助へと受け継がれていったもの。あの白狐のお守りこそずばり、本物の化け狐の力を宿した形見なのですから。
「あ、でも親父よ。本当に過去へ行けるとして、どの時代のどこへ飛べるとかまでは分からんのじゃろ? 美琴がそう首尾よく俺たちの近くに来れるとは限らんが」
「そ、そうよ。限られた時間で、どうやって孝助くんのもとへ辿り着けるわけ?」
勇助がふと頭に浮かんだ疑問点を指摘すると、魔女は鬼の首を取ったように声を上げました。それを冷静に返したのは赤鬼でございます。
「管理人さん、孝助くんと美琴さんに呪いをかけましたよね? 病めるときも、貧しいときも、いつまでも二人の魂が寄り添い繋がるようにって」
「え、あ……」
「それは永久に途切れることが無く、また因果をも超える。自分の呪いは完璧だからって、酒の席で自慢していたことがありましたよね? それが本当ならば、貴女の腕が確かに超一流ならば、たとえ過去へ遡ろうとも、美琴は孝助くんの元へ自然と導かれるはずですよね」
「……だ、ダメよ!」
ここまで丁度よく歯車が噛み合っていても、魔女は頑なでございました。
「どうしてそこまで反対するのですか?」
「どうしてって、そんなの当たり前でしょう!」
問い詰める赤鬼に、魔女は声を荒げます。
「過去へ行って、孝助くんを助ける? そうして未来を変える? それが成功しても、失敗しても、どっちにしたって、いま現在、この場所と時間から、美琴ちゃんがいなくなるってことには変わりないのよ」
魔女の言葉が切れると、部屋の中が、しんと静まりました。すると皆の視線は自然、美琴に集まります。
「それでも、こーくんを……助けたい。守りたい」
そして自らの答えを決めた美琴は、ゆっくりと、それでいて力強く言いました。
「美琴ちゃん。それは私達に、あなたを殺せと言いたいわけね」
「そうです」
「ふざけるんじゃないわよ。進んで命を落とそうとするなんて、残される私達の気持ちも考えなさい!」
「ふざけてなんかないです!」
頭を上げた美琴は、見下ろす魔女と睨み合いました。
「管理人さん。赤鬼さん。絹子さん。勇助さん。宗助さん……わがまま言うて、ごめんなさい。じゃけど、ほんの少しでも望みがあるんなら、こーくんを助けるために命を懸けたいんです」
「でもね、」
「管理人さん」
尚も抑えようとする魔女を遮り、美琴は言い切ります。
「うちは決めたんです。これ以上の邪魔立てはせんでください。どうしても言うんなら、みんな道連れにします」
「…………っ」
彼女の手は、爪で畳をがりりと引っ掻きました。言葉の端から、わずかな所作から、溢れる凄みは魔女をも黙らせました。
再び沈黙が訪れたところで、口を開いたのは宗助です。
「言いだしっぺはわしじゃが……その望みすら、限りなく低いぞ」
「構いません。今ここで無茶を通さんかったら、後悔しても、し切れんなん。ずっと一生、あんときああしとればよかったって思いながら生きてくんは耐えられそうもないん。うちも一緒に旅行に行って、山に登っとればもしかしたらって、そがあなことばっかり考えて、何も出来なあなる自分が嫌なん」
「しかしさっきも言ったが、過去に行けるのは魂だけじゃ。別の肉体に入るとすれば、それはもう別人になるということ。力の一部は受け継ぐかもしれんが、そうなったお前さんを見ても孝助は気付かんじゃろう。最悪の場合、お前さん自身が全てを忘れてしまうかもしれん……それでもええが?」
「死ぬより辛くても、ちっとも怖あないです。どうせ忘れるくらいなら、望みのあるほうが絶対にええじゃ!」
ここにおいて美琴は揺らぎません。
「そうか……ならもし向こうで愛奈という名前の狐に会うたら、一つ伝えてくれんか」
「分かりました」
最終確認を取った宗助は美琴に言伝を頼み、その後に絹子を目で促しました。
「戻って来れん相手には、あんまりやりたないねんけど……ほんまにええねんな?」
「はい」
「わ、分かった。そしたら、三回深呼吸して。そんで一杯に息吸い込んだところで止めてな」
指示通りに美琴は胸を膨らませました。
絹子は彼女の左胸にそっと両手の平を添えてから、ゆっくり、ゆっくりと息を吐きました。それに従い美琴の身体の輪郭がぼやけてゆきます。
「ていっ!」
絹子が発声と共に大きく腕を引き込むや、美琴の身体は肉体と魂が分かたれました。肉体は藤色の蛇に戻り、その場に力無く横たわりました。魂は服を着たままの人型――ただしこの場でそれが見えるのは絹子、魔女、赤鬼の三者だけでございますが――を保ち、宙に浮かんでおりました。
暑さも、寒さも、重ささえも感じません。魂だけという状態は感覚がいつもと大きく違っておりましたが、しかし美琴をにはそれを楽しむ余裕も心積もりもございません。
美琴は皆に深く一礼を致しました。ちなみに魔女だけは、未だに眉をひそめておりました。
「……行ってきます」
そして深く目を閉じ、胸の前で手を組んで、宗助に予め教えられていた通りのイメージを起こしたのであります。




