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良い子と悪い大人のための平成夜伽話  作者: 橘圭郎
第二部《雲呑み兎》
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☆ 凍てつく吹雪、童女の戯れ・後編・乙


 しばしの沈黙が続きます。洞穴は外から届く吹雪の鳴き声と、風を避けてもなお身体の芯まで凍えさせる山の冷気に支配されておりました。


「ふ、ふざけんなが! 人の生命は物じゃねえ。そうそう簡単に渡したり貰ったりするもんじゃねえが!」


 その気配を破ったのは、誰あろう孝助でございます。彼は小雪と国彦の間に割ってはだかるように立ち、彼女を怒鳴りつけました。


「そったなごと言われても困るすけ。わは神様の言ってらったごとさ伝えてるだけだもん」


 それでも小雪は悪びれた様子も無く、しれっと答えます。


「その、雪の神様ってのも本当におるか分からんが。俺は見えないものは信用せんのじゃ」

「おっかしいな。神様がいねえど、わは生まれでねえ。そったらなごとさ、おにいちゃんも知ってらな。さっきおじちゃんと話してたへ? さっきと言ってらごとちがうっきゃ」

「それこそどっちでもいいじゃろ。とにかく俺は、お前なんぞには惑わされんぞ」


 小雪の細めた目つきは孝助の内側を見透かすようであり、また彼を値踏みするようでもありました。


「んだども、もっけの法はもっけの法だっきゃ。かってなごと言わねえでけろ」

「……俺の知ってる物怪は、みんな優しい、いい人じゃ」

「そったなごと、わは知らねえすけ」


 次第に小雪の声には不機嫌さが滲んでまいりました。そしてこれ以上は話を続けたくないとの意思表示に、くるりと踵を返します。


「ま、待ってくれ。山に生命を捧げるというのは、具体的にどうすればいいのだ?」


 それを呼び止めたのは、必死なる国彦でありました。


「神様におねがいして、祠の前に人の死体さ放っぽっとけばいいっきゃ」


 小雪は首だけ回してぶっきらぼうに言い捨てると、()てつく雪の舞う夜闇へ消えてゆきました。

 それからずっと国彦は押し黙り、話しかけられても生返事ばかりをしておりました。本気で心配する孝助をよそに、彼の頭は小雪の言葉をずっと反芻していたのでございます。


 吹雪はまだまだ収まりそうにありません。日もとっぷり暮れているため、やはり今日はこの洞穴で過ごすほか手は無いでしょう。懐中電灯も外ではろくに役立ちません。

 登山用の準備は、キャンプをするほど万全とは言えぬため、二人して深く眠ってはそのまま目覚めぬ恐れがございます。交代々々で仮眠をとろうと決めました。


 降る雪の強さは変わらぬまま、とうとう空が白け始めました。日は差さずとも、足元を見るには問題ありません。孝助はまだ眠りに落ちております。

 国彦が待ちかねていたのはこのときでありました。


「すまん」


 彼は誰に言うでもなく呟くと、孝助の荷物に手を伸ばして杖を掴みました。それをゆっくり両手で持ち直し、石突を寝姿に向けて構えたのです。

 ここに至って国彦に迷いはございません。杖は無防備な孝助を捉え、容赦無く肩を突いたのであります。


「あがぁ! い、岩崎さん……まさか、雪女の話を本気で信じとるんですか!」


 猛烈な痛みで跳ね起き、孝助は一瞬にして状況を理解致します。

 対して国彦は厳かな、命令する上司の口調で言いました。


「いいか母木、よく聞け。お前は錯乱した私に襲われ、命からがら逃げ延びて町に辿り着くんだ。私が何を考えて、どこへ行こうとしていたのか、お前は知らない」

「岩崎さん?」


 国彦は再び突きました。孝助の腹を打ったニ撃目は手加減をされつつも、彼を立てなくするには充分な痛みを負わせました。


「これで私の死体に傷が無ければ、誰もお前を疑わない」

「岩、崎さん……自分を、生贄にする気、ですか……?」

「いや、お前は何も知らない。知らなかった。そして逃げる途中で、十年前に死んだはずの岩崎雪音によく似た女の子を保護するんだ。雪の神様にまつわる不思議な事件として噂になるかもしれないが、どうせすぐに忘れられるさ、適当にごまかせ」


 口を動かしながらも国彦は、手早く自分の荷物をまとめておりました。


「お、俺には分かりません……岩崎さん、本当か嘘か得体の知れない話に、なんで命まで賭けられるんですか」

「母木、お前にもいずれ分かるさ。どんなに小さな望みに賭けても、どんなに大きな犠牲を払っても、子供に生きていてほしいと思うのは親の情だ」


 そう諭す国彦の顔には、ただ純粋に我が子の幸せを願う父親の表情が浮かんでおりました。




 それから孝助が止めるのも聞かず、国彦は洞穴から立ち去ってしまいました。

 孝助は息を整えて彼を追いかけますが、豪雪のために視界がうまく利きません。目を凝らせば辛うじて、国彦の足跡がうっすらと見える程度であります。追いつくのは至難の業でありましょう。


「こんなことになるなら、殴ってでも山登りなんて止めさせときゃよかったが」


 下を見ながら脇目もふらずに歩いておりますと、不意に、朱色の着物の裾が目に入りました。それを避けるように向きを変えても、草履を履いた足も孝助に合わせて動いて阻もうとするのです。


「そこをどけ。俺は岩崎さんを連れ戻すんじゃ」

「行ってもムダだっきゃ。もう死んでらな」

「嘘をつくなが!」


 さも面白そうに報せる小雪を孝助は一喝致します。


「岩崎さんはまだ生きとる。お前がまだ人間に戻っとらんのがその証拠じゃ」

「くすくす……おにいちゃん、わの言うごと信じてねえがったんとちがうか?」

「くっ……それでも、まだ洞穴を出てからそんなに時間は経ってねえ。まだ間に合うはずじゃ」

「んだども、おにいちゃん……」


 これ以上は小雪の言葉に耳を貸すまい、耳を貸すまいと考えつつも、やはり彼女の声は冷ややかなる妖しさをもってまとわり付くのです。


「さっき言ってらったごと、ウソだすけ」

「……さっきってのは、いつじゃ。嘘ってのは、どの部分じゃ?」

「人の命さ山にささげねばなんねえっで、あれウソっぱちだ。そったなごとしたって、わは人間にさなれねえ」


 彼女の言わんとする意味を理解して、瞬間、孝助は頭に血が上るのを感じました。


「じゃあなんで、なんであんなこと言ったんじゃ! お前のせいで、岩崎さんは!」

「おじちゃんがどうすんのか、見てみたかったすけ」

「この、性悪物怪が!」


 怒り心頭に発し、孝助はでたらめに殴りかかっていきました。しかし体力を多く消耗している人間では手の届く道理がございません。彼は物怪の血を半分は引いてはおりますものの、その力を能動的に扱う術など持ち得ていないのです。もっとも仮に使えたところで、ここは冬山。雪の娘の独壇場でございましょう。


「うひゃあ、おっかねえ、おっかねえ」


 孝助の拳を笑いながら軽々とかわして、小雪は彼の真後ろに廻り込んで抱きつきました。その腕は氷のように冷たく、孝助の首や頬から急速に熱を奪ってゆきます。


「それにさ、どっちかって言っだら、おじちゃんよりおにいちゃんのほうがいいすけ。おにいちゃんだったっきゃ、おムコさんにしたってもいいな」

「お断りじゃ」


 もちろん孝助は即答致しました。


「子供には興味がねえし、お前みたいに性根の曲がった奴は論外じゃ。それに何より、俺には心に決めた人がおるんじゃ」

「あー、そったら心配いらねえ」


 振り払われた小雪は一瞬だけ寂しげな顔をしたかと思うと、すぐに頬をにんまりと緩ませ、丸っこい手の平を空に掲げました。

 すると吹きすさぶ雪の粒が宙の一点に集まり始め、見るみるうちに鋭い氷柱が形成されたのです。


「いっぺん死ねば、みーんな忘れらな。したっきゃ、わのほうがおねえちゃんになるども……別にかまわねえへ?」

「構うわ、馬鹿たれ! お前なんぞに殺されて堪るがよ!」


 小雪が腕を振り下ろすと、氷柱は孝助を目掛けて矢のように放たれました。孝助は横に跳んでどうにか回避しましたが、それでお終いにするほど小雪も甘くはございません。


「くすくすくす……」


 地に刺さった氷柱は花咲くように割れ、六枚の薄刃へと分かれました。それぞれが時間差で漂い、飛び、斬りつけてくるのです。孝助が痛みに耐えて反撃を試み、氷の刃を叩き割って半分にまで数を減らした頃には、小雪はまた新たな氷柱を固め終えておる始末。


 ところが、ここにおいて小雪の注意は孝助だけに向いていたため、彼女は隠れて虎視眈々と期を狙うものの存在に気付いておりませんでした。

 小雪が三本目の氷柱を撃つとほぼ同時。赤い隈取をした白毛九尾が後ろから跳びついて、彼女の首根を捉えたのです。


「ぎゃあ、いだいいだいいだい、だずげで!」


 子供特有の甲高い声で泣き叫び、牙から逃れんと暴れる雪の娘。

 守るべきもののために、不埒者を決して離すまじと食いつく狐。


 ともどもに積雪の上を転げて回りました。


 両者の揉み合いは、孝助が狐に加勢するまでもなく決着致しました。

 ごきりっと鈍い音を立てて一拍、力無く横たわった小雪の着物と肌から色が抜け、跡形も無く白雪に溶けて消えていったのです。


 しかし狐も無事では済みませんでした。雪の娘と直に触れておったのですから、体温も妖力もすっかり奪われておりました。息も絶えだえで立っていることすらかなわず、その場に倒れ込んでしまいます。


「お前、大丈夫か!」


 それに合わせて、孝助は胸に小さな違和感を覚えました。狐に駆け寄りながら首飾りを手繰ってみると、お守りの白狐が真っ二つに割れていたのです。


「そうか……お前だったんじゃな。俺が危ないときに何度も助けてくれたんは」


 狐は答えません。答えられません。


「最後の最後まで、俺を助けて、こんなになって……ありがとう。本当に、ありがとうな」


 孝助は狐の頭を撫で、その冷たさを感じました。

 そして目を閉じさせてから、両手を合わせて冥福を祈りました。




 狐を置いて孝助は山頂を目指します。小雪が消えて無くなった以上、国彦がやろうとしていることは無駄死に以外のなにものでもないからです。


 足跡を頼りに、上へ、上へ。


 やがて着いた先には確かに国彦がおりました。彼は上半身を裸にして雪の上に身を横たえていたのです。傍らには小さな石造りの社殿が建っているのですが、雪にまみれているので、遠目には白い人形のようにも見えました。


「岩崎さん! 岩崎さん!!」


 慌てて孝助は、近くに畳まれ置かれていた衣服を拾って国彦に着せました。キャラメルを小さく割って飲み込ませました。

 意識は無くとも、まだ息はございます。一刻も早く麓へ連れ戻さねばなりません。

 孝助は痛みをおして国彦を担ぎ上げるなり下山を開始致します。

 ところが、ところがです。始めのうちは自分の足跡を戻るだけで結構だったのですが、その道しるべが徐々に薄れていくのでした。


 とうとう完全に頼みを失い、また右も左も分からなくなりました。地図を広げても、磁石を手にしても、自分達がどこにいるのか、とんと分かりません。

 下っているかと思えばいつの間にやら上り、引き返しても足跡は無く、進んでいるのか戻っているのかすら分かりません。もちろん電話など最初から通じておりません。

 叫んでも、声を枯らしても、誰も答えるものはおりません。

 雪は止まないのです。




 行っても行っても白い山。

 行っても行っても、白い山。


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