★ うららかなれ、と狐は言った・下
四角いテーブルを挟んで二人は相対しました。そして用意されたるは、一組のトランプでございます。宗助は何枚かを引いて手に持ち、図面を愛奈に見せて説明を致しました。
「カードに……札に、模様が描いてあるじゃろ? 四種類。赤いのが二種類と、黒いのが二種類じゃ。そんで、ここには全部で五十三枚の札がある」
その間、愛奈はずっと宗助の目を真正面から見据えておりました。
「嘘は……言うとらんみたいやね」
「当然じゃ。それで、今から俺がかき混ぜるから、お前は中を見ずに一枚を選んで引け。引いた札の模様が赤じゃったらお前の勝ち。そうじゃなかったら俺の勝ち。ええな?」
「ええよ」
「よし、決まりじゃな」
決して上手とは言えない手つきで宗助はトランプを切りました。そしてゆっくりと、その山を愛奈に向けて差し出しました。
愛奈は目を瞑り、左手で一枚、また一枚と、山の上からカードを横へ避けていきます。彼女にとっては生死の境目なのです。慎重にもなりましょう。
そして半分ほどのけたところで、ぴたりと指を止めました。
「これにするわ」
そう宣言して愛奈は図面を自分だけに見えるようめくりました。薄目を開け、じっくりと見つめ、それでも表情を変えずに、しばしの間を置きました。
「……これ、やり直しは効かんっちゃろ?」
弱々しい声です。愛奈は呟いて、手札をテーブルの上に放りました。
そこには、ラッパを吹いている道化師が描かれております。
さてさて、実のところを申し上げますとこの賭け試合、全くの公平というわけではありません。
宗助はルール説明の際にこう規定しました。「赤が出れば愛奈の勝ち。そうでなければ自分の勝ち」と。それでいて、そこに五十三枚のカードがあることまでは嘘偽りがございません。
僅かながら宗助に勝ち目が多くあり、かつその思惑通りに事が進んだのでございます。
「ああ……そげんこつ? こりゃ、してやられたなあ」
「怒っとるが?」
肩を落として呆然とカードを見つめる愛奈も、宗助が仕掛けたからくりに気付いたようです。
それでも、その顔はとても穏やかでありました。
なにせ言い換えれば、彼が仕掛けたのは、この確率としてせいぜい二厘もあるかどうかの足しに過ぎません。
一世一代の土壇場で、やはり結局はほぼ運任せにしてしまう性根の真面目さが、宗助の美点でもあり欠点でもあり。
「あたしは化け狐。騙し合いで負けたんなら、もう認めるしかないっちゃろ」
そう言って、やおら突き出した左手をぎゅっと固めました。そして宗助に掌を向けるように開くと、ひび割れた手指の上に何やら煌びやかな物が乗っておりました。
それは飾り小物のようで、赤い隈取をした白狐が右手を上げてお座りをしている意匠でございます。
「約束や。あたしの力の半分、お守りにでもして持っとうて。あくまで半分だけやけん、力があっても、ちょっと配慮の足りんところばあるかもしれん。勝手に誰かを攻めたり騙したりもせんけど、悪意から身を守っちゃるくらいはするとよ」
宗助が白狐の飾り小物を受け取ると、次に愛奈は一つのおまじないを教えました。それは手印と呪文との組み合わせによって、人に化けた物怪を見破る術。名を《きつねの窓》と申します。
試しに宗助が教わった通りに指を組んでみれば、なるほど愛奈の姿は巫女ではなく九尾の白狐として目に映るのでした。
「あと、もう一つ……」
すると彼女はテーブルの端に手を突いて、ぬいっと顔を寄せてまいりました。そのまま止まることもなく、戸惑う宗助の唇を奪ったのでございます。
数瞬の間をおいてから離れ、愛奈は綻んだような笑みを浮かべました。
「きさんに……あんたに教えること。女の舌の味。どう? 今まで知らんかったっちゃろ?」
「ああ、温かくて、土の匂いと血の味がしたわ……って、なんでお前が、俺がキス童貞じゃって知っとるんじゃ!」
「分かるよ。あんだけ長い小説やのに、これまで一個も『きすしーん』が無かったけんね。まだ経験が無かったっちゃろうね。こんこん」
笑われて、勝手に分析までされて、宗助は恥ずかしいやら悔しいやらです。
「うるせえが。とにかく勝負はついたんじゃ。早う戻れ」
「あ、最後に。これは要求やのうて、お願いや」
彼に素っ気無くされながらも、愛奈は至ってにこやかに立ち上がりました。
「なんじゃ?」
「あんたなら出来る。もっとええもん、書きんしゃれんね」
それだけ言ったのを最後に、九尾の影は音も無く膨張致しました。
そして影が瞬く間に部屋中を覆い尽くし、宗助は真っ暗闇に包まれたのでございます。
昼前になって宗助は目を覚まし、そこに愛奈の姿が無いことを知りました。さては夢だったのかと物思いに耽ったのも束の間、右手には白狐の飾り物が握られているではありませんか。
ならば、彼女の命懸けの訴えもまた真実なのでしょう。
「……いや、俺は勝ったんじゃ。あいつの言う通りにする義理なんかねえが」
ちくりと感じた胸の痛みを払うように、彼は首を横に振りました。
それでも、やはり提出前に推敲くらいはせねばなるまい。その考えに至り、彼はパソコンの前に座りました。そして原稿データファイルを開き、愕然と致しました。
――この最終話は、面白いのだろうか。いや、つまらないだろう。昨夜は興奮に任せてずらずらと書き連ねてしまったが、一晩明けて改めて読み返すと、いろいろと酷い。これは何としても書き直しが必要だ。プロとして、こんな出来の悪いものを売るわけにはいかないぞ。よし、やろう。締め切りにはまだ三日もある――
宗助は己の考えを百八十度転換させて、一心不乱にキーボードを叩き始めました。
*
美女に化けて天下を乱し、国を傾けたとして悪意の槍玉に挙げられていた九尾の白狐。
城から逃げ出した彼女は山に隠れていたところを村人に見付かり、縛り殺されそうになる。それを救ったのは一人の侍であった。
彼は狐がかつて情を交わした相手であり、また彼女を裏切り罠にかけて捕らえた者でもあった。あれからずっと良心の呵責に苦しんでいた若き侍は、彼女の前で腹を詰めて詫びようとしたのだ。しかし彼を止めたのはなんと狐。死んで償うくらいなら、生きて償ってほしいと言うのだ。もちろん裏切ったことは許せない。でも自分が望むものは平穏な暮らしだけなのだから、あなたには死ぬ気で私を守ってほしい。
そして逃避行。最後にはお待ちかねの、愛ある「きすしーん」で締め括り。
*
版元に迷惑をかけてまでして仕上げた改稿版は、かいつまんで紹介すると以上の流れであります。これには賛否両論が分かれました。それと申しますのも、それまで極悪人然として描かれていた若い侍が急に改心しているからです。ご都合主義にもほどがありましょう。
ただ一方で、そんな機械仕掛けの神様仏様に頼ってでも、彼女が幸せになってほしいと願う読者が多くいたことも事実だったのでございます。
いずれにせよ宗助は後悔しておりません。自分の腕でも美しい結末を綴ることが出来るのだと、自分を縛る枷がようやく外れたのだと証明されたからでした。
次に宗助が書き始めたのは、夢と希望に満ちた児童小説でした。未来を照らす物語でした。
しかし児童向けとは銘打ちつつも、広く老若男女の心を打つものでありたい。むしろそうあらねばならぬと、強い使命感を抱いて執筆に取り組みました。
それこそ、どんな時代においても読み継がれるものをと。
その想いが実ってか、彼の新作は多くの人に読まれ、長く支持される代表作となりました。アニメや絵本にもなりましたし、原作者としては不満だらけの結末でしたが漫画化もされました。
母木宗助が著したる児童小説の題は『雲呑み兎』と発します。
さてさて、蛇足やもしれませんが最後にもう一つ。
どうして目覚めた宗助が、手の平を返したように最終話を書き直したのか。
そのからくりは、愛奈が不意打った口付けにございます。彼が勝利に安らいでいる気の緩み、教わったおまじないを試している警戒の隙を突いて、彼女は妖術を仕掛けたのでした。
狐はズル賢いことで有名なのですよ。騙し合いで勝とうったって、そうは問屋が卸しません。ただでキスなんかしてくれるはずがないでしょう。
あのカード選びの時点で既に、彼女は宗助の思惑などお見通しでしたよ。敢えて試合に負けて勝負に勝つことを選んだ、とでも申しましょうかね。こんこん。




