★ うららかなれ、と狐は言った・上
あるとき、あるところに、一人の男がおりました。
年は青く、名を母木宗助と申します。
蒸し暑かった季節が懐かしく感じられる夜長のこと。
宗助は自宅で、パソコンの画面に向かってキーボードを叩いておりました。そして淀みの無い手の動きで長文を書き連ねると、最後の句点を打ち終えて大きく息を吐いたのです。
生来のものぐさ故に栄養状態が偏りがちで、他人よりもやや脂の多い宗助。そんな彼の職業は小説家でありました。人気があるかと問われれば、一部の読者から熱狂的な支持を受けている、と答えるのが適当でしょうか。
なにせ彼が連載を持っているのは成人向けの雑誌やウェブサイトばかり。その中でも例えば複数の男がよってたかって一人の女を襲うだの、クスリを盛って前後不覚に陥らせた挙句に監禁するだのと、およそ世間では口に出すのをはばかられる類のものを主に書いているのですから、あくまで日陰者の間での人気といったところなのでありました。
さてさて、長く書き続けてきた物語の最終話という大仕事を終わらせた宗助は、気分転換に成人向け擬似恋愛ゲームを起動させました。彼の趣味と言えばこれくらいなものなのです。
――しかし、みんな面白くて爽やかな話を書けるものだ。自分には到底、真似が出来ない。同じエロでも訴えるものが違うのだ。それにしても、この子は可愛いな。ああ、誰か一人でもいいから、こう、ゲームの中から出てきて嫁にでもなってくれんもんかなあ――
クリックしつつもそんな生産性に欠ける思考に落ちていた宗助でしたが、ふと我に返ると、いつの間にやらモニターが真っ暗になっておることに気付きました。
ヘッドホンからも全く音が届いてきません。マウスを動かしても反応がございません。
「こりゃあ本格的にいかれたか?」
宗助が頭を捻ったのも束の間。その黒い画面が何の前触れも無く、ひとりでにたわみました。
何度も何度も繰り返し。その激しさたるや、内側から叩かれているようにも見えます。
「な、なんじゃ?」
そして十数秒の沈黙を挟んで、今度はなんと、人の左腕が勢いよく突き抜けてきました。
次に右腕、そして頭、肩、背中……宗助が身を引いて警戒している間にも、徐々に人間の女性らしき形のものが抜け出てまいります。
二次元の女の子が実体化する、というのはたしかに彼がつい先ほど頭に浮かべたささやかな妄想でございますが、実際に目の当たりにすれば、それはそれは鬼気迫るものがありました。
腰の辺りまで抜け出たところでバランスを崩した女は、どべしゃっと音を立てて床に落ちました。溺れかけていた者が陸に上がったかのように息を荒げました。そして産まれたての小鹿を思わせる動きで腕をかき、一刻も早く己の足で立ち上がろうと足を震わせました。
やがて、ゆうらりと身を起こした女を改めて認め、宗助は固唾を呑みました。
女は薄い金色の髪を膝まで伸ばしておりますが、そのところどころが刃物で乱雑に切られております。巫女装束は端々が擦り切れ、尖った物で貫かれたと思しき穴が大小点々と空いております。さらに両手首は荒縄の痕に沿って血が滲んでおります。素足の爪は半数以上が割れておりました。
「きさん(貴様)が母木宗助?」
そして何より宗助が背筋を凍らせたことには、そう問いかける彼女の麦色の瞳には、明らかな殺意が満ち満ちていたのでございます。
「先に言うとくけど、あたしに嘘は効かん。答えれ。きさんが、あたしの作者やっと?」
「そ、そうじゃ。ひょっとせんでも、お前は愛奈じゃろ?」
返す宗助の確認に、傷だらけの巫女は首肯致しました。それと同時に彼女の足元に落ちていた影が広がり、後ろの壁に九つの尾を映してみせました。
愛奈、というのは宗助が小説に登場させた化け狐の名でありました。それも、彼が今しがた書き終えた――実は筆者の予想に反して最も読者からの反響が大きい――作品の主人公なのです。
「な、何しに来たんじゃ?」
「あたしがどんな目に遭うてきたか、さすがに忘れたわけやないっちゃろ?」
もちろん自分で著したのですから宗助は知っております。白い襦袢で隠された背や腹には、鞭で打たれた痕が縦横に走っていることを。緋袴の下の太腿には、彼女を犯した者達の名が戯れに刻まれていることを。そして長い髪に覆われて外から見えない左耳は、犬に食い千切られて欠けていることを。
「なんてな。安心しれ。別に殺しぁあせん。……ぶっ殺しちゃりたいんな山々やけどな。ばってん今、きさんば死なせてしもうたら、あたしも殺されてしまうけん」
宗助も彼女の言わんとしていることは理解しておりました。作者がいなくなれば物語は進まない、という抽象的な枠組みでの死ではございません。
もっと直接的な意味でした。宗助が用意したエンディングとは、愛奈が逆恨みした村中の人間に追われて嬲り殺されるという悲惨なものなのです。
仮に今この場で宗助が死んだとして、原稿のデータは既に保存されております。編集者が取りに来て、いずれ遺作という形でも最終話は刊行されてしまうでしょう。
その時点で愛奈の死は確定します。
彼女はパソコンを指差し、凛として言いました。
「あたしがキーボードの打ち方ば覚えたところで、外から書き換えるこたあ出来らん。やけん、訴えに来たんや。今ならまだ間に合う。結末ば変えてほしい」
「あ、アホ言うな。もう締め切りまで三日も無いんじゃぞ! 俺は筆が遅いから、他人より早く取り掛かってようやくなんじゃ。今から書き直して間に合うわけねえが!」
ところがこの期に及んで宗助も強気になりました。結局は相手が、己の被造物であること、そして生命までは奪われることがないと知っての開き直りでございます。
「だいたい、なんで作者が登場人物の言うことなんて訊かんといかんのじゃ。普通は逆じゃろうがよ」
「……きさん、殺しゃあせんって言葉の意味、ほんまに分かっとうと?」
すると愛奈の声は冷ややかさを帯び、目がすぅっと細まりました。
刹那、影尾の一本がしなり、宗助の足元へと伸びます。
影は影でありながら、しかし実在の重みをもって彼の足首に絡みつきました。見た目にはただ黒い帯が巻かれているようですが、確かに強い圧力を与えるのです。
このままでは危険であると宗助が判断するより早く、影尾は万力の如くに彼のくるぶしを割り砕きました。それに続いてもう一方の足を打ち払います。激痛に襲われた宗助は全身から冷や汗を噴き出し、まともに立つことすらままなりません。
「足の一本くらい無うなったって、物は書けるっちゃろ?」
這いつくばった宗助を見下ろして、愛奈は平淡な声で言いました。
「だけど、作者に手を上げていいと思うとるがか?」
一方で宗助は歯を食いしばりながら、態度を崩しません。
「良いも悪いも関係なか。やっても死ぬ、やらんでも死ぬなら、やるしかないっちゃ。ばってんあたしは死にとうない。あたしは……幸せになりたい。毎日お腹いっぱいにならんでも、ふかふかの寝床やなくても、畑仕事ば手伝ってまめが出来ても、誰にも嫌われずに生きていられればそれで良かったのに、それさえも許されんなんて、納得いけん」
「お前が小説の登場人物なんは事実じゃろうが。確かにお前には酷い展開だったかもしれんが、そもそもお前がそう考えるようになったんは、俺がお前を作ったからじゃ。お前のその人格自体、俺の創造物のはずじゃ。早う小説ん中に戻れ。なんでこう、俺の思う通りにしてくれんが?」
「じゃあ、きさんは!」
ここにおいて愛奈は、拳を固く握り締め、烈火のごとく吼えました。
「親に死ね言われたら、黙って死ぬと? 神様に消えろ言われたら、喜んで消えるとね?」
「それとこれとは話が違うじゃろうが」
「同じやっか!! 裏切られて、犯されて、痛めつけられて、殺されるため、だけに、あたしは作られたと? 嫌や。嫌や。嫌や!! そげなこと認めん。足掻けるだけ足掻いちゃる!!」
息を荒げて肩を上下させる愛奈に、宗助はしばし考え込んでから言いました。
「そうか。お前の言いたいことは分かった。でもダメじゃ」
直後、ばきり、という音と共に残ったほうのくるぶしも砕かれました。
叫び悶える宗助を、愛奈は黙して見下ろしております。
「ダ……ダメなんじゃ。俺には、ハッピーエンドなんて書けん。明るい話を読むのが好きでも、自分で書けばどうしても暗くなってしまう。嘘くさくなってしまう。だから……無理なんじゃ」
息を整えて再び口を開く宗助でしたが、その結論に変わりはありません。
対する愛奈は口元を歪めました。
「物怪は人間の想いの産物。あたしの場合は、大部分が、きさんの小説を読んでくれよう人の感想とか願いとかや。あたしを応援してくれよう人が沢山おるけん、あたしは今ここにおる。ようやっと出て来れた。きさん、みんなに期待されとってもまだ弱音ば言うと?」
「……無理なものは、無理なんじゃ」
とうとう宗助は、顔を伏せて落涙してしまいました。しかしそれは痛みのせいではありません。今までずっと見て見ぬ振りしてきた己の不甲斐無さを、遂に自覚させられた故にでございます。
しばらく両者は無言のままでした。
砕けた宗助の両足は愛奈の不思議な力によって治されておりましたが、彼女はまたその力でもって扉や窓を塞いでいるため、宗助は逃げることが出来ないのです。もちろん電話も通じません。
さりとて宗助は、素直に要求を呑むことも致しませんでした。
時刻は丑三つ時にもなろうかという頃合。ふと、パソコン前の椅子に陣取っていた愛奈が手を叩きました。ベッドで寝そべっていた宗助が顔を上げて眉をひそめます。
「このままでおっても、いっちょん話が進まん。一つ賭けようかや」
「賭け?」
「銭ば投げて表裏当てるんでもええし、賽の目の丁半当てるんでもええ。勝つか負けるか、一回こっきりの真剣勝負。あたしが勝ったら、無理でも何でも死ぬ気で書き直してもらう」
「俺が勝ったら? 元に戻るだけじゃ割りに合わんがよ」
「そうね。あたしはきさんに作られた存在やけど、きさんには無い力を持っとる。きさんが知らんことも知っとる。そいつば教えちゃろう」
愛奈の提案を受けて、宗助は頭を回しました。彼女のゆるやかな声を耳にすると、なんとなく対等のような気がしないでもないように感じられました。
そうして彼はようやく条件を呑み、腹を括ったのでございます。




