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良い子と悪い大人のための平成夜伽話  作者: 橘圭郎
第二部《雲呑み兎》
27/51

★ 狸の恩返し・上


 あるとき、あるところに、一人の男がおりました。

 年はさかんに、名を母木勇助ははきゆうすけと申します。


 引き締まった肉体をもち、顔つきも精悍(せいかん)なくせに、どうにも奥手で疑い深いこの男。おかげでちっとも周りに女っ気がございません。


 そんな彼がここ最近において煩悶(はんもん)しておることと言えば、やはり女絡みのことでありました。

 それと申しますのも毎日のように父親から電話がかかり、早く所帯を持てだの、いつ孫の顔を見せてくれるのかだの、実に耳の痛い話ばかりされているのです。


 もちろん彼女すらいないのですから、結婚など夢のまた夢。父親が世話を焼いてお見合いの場を設けたりもしましたが、そもそも勇助本人が乗り気ではないので、ろくに成果は上がりませんでした。


『勇助ぇ。お前もええ年じゃ。そろそろ身を固めんといかんが』

「親父よ、今は別に結婚なんかせんでも普通に生きていける時代じゃろ。地球規模で見れば人口は一杯いっぱいなんじゃし、俺みたいなんが頑張らんでも、そういうのは適当なイケメンとかに任せときゃええが。これも一種のエコじゃ」

『なにをへ理屈抜かしとるが。そろそろ親孝行の一つでもせんか』

「子供は健やかに生きるのが一番の孝行じゃろ」

『お前が言うなが』


 などなど、このような会話は日常茶飯事なのでございます。




 とある宵時のこと。コンビニでおでんを買った勇助が外へ出たところで、不意に後ろから声をかけられました。


「なあ、そこのお兄さん。ご飯、めぐんでくれへん?」


 振り返ってみれば、煌々(こうこう)と輝く白い灯りから少し外れた箇所、公衆電話の足にもたれかかっている少女の姿が見えます。

 勇助がコートを羽織ってもまだ寒そうに肩をすくめている季節に、彼女は薄手のラグランシャツを着てカタカタと歯を鳴らしておりました。


 勇助は彼女を不憫(ふびん)な娘だとは思いましたが、あまり関わるのは面倒だと覚え、そのまま見ぬふりをして立ち去ろうと致します。


「ちょ、ちょ、ちょお待ち! 目ぇ合わせといてそれはないやんか」


 すると少女は慌てて立ち上がり、駆け寄って彼の腰に抱きつきました。


「誰じゃお前は? いきなりくっつくな! 汁がこぼれるが!!」

「殺生なこと言いなや。お腹が減って、もう一歩も動かれへんねん」


 彼女の指は勇助のコートにしかと食い込み、ちょっとやそっとでは離れそうもありません。


「さっきそこからダッシュしてきたじゃねえが」

「それはあれや。火事場のなんとかや」


 このまま引きずって歩くのも相当に厄介だと感じた勇助は渋々、おでんを袋ごとくれてやったのでございます。


 そして少女が空腹を満たすことに気を取られている隙に、こっそり黙って帰ってしまおうと致しました。


「なんで付いてくるんじゃ」

「寒いねん。ひもじいねん。今晩泊めてや」


 ところが少女は熱々のがんもどきをはぐはぐと頬張りながら、ぴょこぴょこと勇助の後に従ってくるのでありました。


「嫌じゃ。お前、金持ってねえんか?」

「上着を野良犬に取られてん。お財布ごと、ケータイもみんな持ってかれた」

「嘘つけ。この平成の時代に、人間様の持ち物をひったくるような犬がおるか」

「ほんまやって。家出同然でこっち来たから、行く当ても無いねんな」

「だったら警察にでも行け。俺んとこはボロアパートじゃ。家出少女をかくまえるほど余裕はねえがよ」

「せやけど、お兄さんの家、ここやろ? 表札……へー、勇助さんっていうんや」


 口ではあれこれ言いながらも、無意識に動いていた勇助の足は彼女を自分のねぐらへと案内しておりました。彼にとっては不本意ながら、少女を家へ呼び込むことと相成ったのです。




 明るいところで改めて見る少女の顔は、つぶらで愛嬌のある目鼻立ちと丸面が特徴的でありました。絶世の美女とは言えないまでも、見る者の男女を問わず、可愛らしいという印象を与えましょう。

 また身体の輪郭も、モデルのように洗練された美しさこそありませんが、ほどよく健康的な肉づきをしておりました。


 彼女は田川絹子たがわきぬこと名乗りました。

 それから絹子が明かした身上によりますと、名家で生まれ育った彼女は顔も知らぬ男と結婚させられそうになり、そのことで父親と大喧嘩をしたとのことでございます。


「今晩だけでええから、な。お願いや。勇助さん」

「ダメじゃ。帰れ」


 潤んだ瞳で下から覗き込んでくる絹子の懇願(こんがん)を、勇助はにべもなく否決致しました。


「ええやんか、いけず!」 

「俺は世間じゃ、ケチな貧乏人で通ってるんじゃ。変に期待すんな」

「あんまがめついことばっか言うとったら、お釈迦様に叱られるで……って、あいたた」


 なおも勇助が固い態度を崩さずにいると、絹子は急に言葉を途切れさせ、自分の腹を抱えてうずくまります。


「おい、どうしたが?」

「あー痛たたー。お腹いたいわー。さっき食べたおでんが、あたったんかもしれへんなー」


 そして、明らかに棒読みの台詞を口にしながら、ちらちらと勇助の顔色を窺い始めました。あまりの芝居の下手さに、彼は呆れてものが言えません。


「えらいこっちゃー。救急車なんか呼ばれても、お薬代も持ってへんしなー。保険証も無いから、きっと高くつくやろなー。ここはおとなしく、寝て治るんを待つしかないなー。勇助さーん。どうしたらええかなー」

「もう勝手にせえ」

「ほな、泊まってもええのん? おおきに!」


 了承をもらうや否や、絹子は露骨なまでに早く元気を取り戻しました。そして今度は狭い部屋の中を、図々しくもジロジロと見回します。


 八畳一間のワンルームには、カップ麺の空き容器やら開きっぱなしの成人向け雑誌やらが散乱しておりました。テレビもパソコンも無く、窓の外には食費を浮かせるための野菜プランターが置かれ、貧乏というのは事実のようであります。


「それにしても、ほんまに汚いな」

「ほっとけ。ちなみに言っとくが、金目の物なんてねえからな」

「泥棒ちゃうわ。どんだけ疑り深いねん」


 軽口を叩きつつ絹子が部屋の物に手を出しては、勇助がたしなめるのを繰り返し、思わぬ珍客を迎えた夜は騒がしく更けていったのでございます。




 明くる日、一組しかない冬物毛布を貸したがために自分は薄っぺらな布団で耐え忍んだ勇助は、鼻をくすぐる美味しそうな匂いで目を覚ましました。

 さらに寝ぼけ眼で首を回しますと、部屋からは埃っぽさが消えており、ゴミというゴミが片されております。さらに耳を澄ませば、玄関の向こうから洗濯機の揺れる音が届いてきました。

 たった一晩で、部屋は見違えるほど綺麗になっておるのです。


「あ、起きた? 鍋とか包丁とか勝手に使わせてもろたで」


 勇助が未だ状況を掴みかねておるうちに、エプロン姿の絹子がテーブルの上に朝餉(あさげ)を配してゆきました。油揚げの入った味噌汁に、ふっくらと炊かれたご飯。それは実に素朴ではあるものの、彼が久しく口にしていない家庭的な食事でございました。


「まあ、こっちのお魚と漬物はコンビニでちょちょいと買うてきたもんやけどな。あ、ごめん。財布も勝手に使わせてもろたわ。これレシートな」

「…………」

「ほな、いただきまーす。あれ、勇助さん、食べへんの?」


 両手を合わせて挨拶した絹子に促され、勇助は気だるそうに箸を伸ばします。


「どう?」

「……うまいが」

「やろ? うち、これでも炊事は得意やねん。勇助さんさえ良いって言うてくれたら、毎日でも作ったげるで。独り暮らしやと、お仕事から帰ってきても寂しいやろ?」

「…………」


 屈託無く頬を緩ませる絹子に対して、勇助は何故だか険しい顔をしておりました。

 そして彼はご飯を半分残したままで箸を置き、おもむろに立ち上がっては、ぐいっと絹子に顔を寄せたのです。


「え、な、なに? そういうんは、まだ、早いやろ……」


 絹子は思わず顔を赤らめました。

 しかしここで女日照りの男の下へ転がり込んだ少女がその無防備さの故に押し倒されて……などという、成人向け作品でお約束の展開を所望でありましたれば、ご期待には沿うことはかないません。

 勇助は、なんと、彼女に頭突きをしたのでございます。


「ぃいっ痛あぁあっ!」


 出し抜けに割れるような痛みを覚え、絹子はのたうち回りました。


「いいいきなり何すんねん! そりゃ黙ってお金使ったんは悪かったけど、そこまで怒ることないやないの! これでもちゃんと安くて良い物選んで買うてきてんねんで」

「別に怒っちゃいねえが。それよりお前、何者なんじゃ」

「何者って、どういう意味?」

「お前、人間じゃねえだろうが」


 冷ややかな勇助の目に射すくめられた絹子は、震える声で答えました。


「え、なんで? なに言うとん?」


 絹子は(しら)を切ろうと致しますが、敢えて先に申し上げておきますと、たしかに彼女の正体は人外のものでございます。

 ですが既に長いこと人間の世で暮らした実績がありますし、(さと)では住民票さえも獲得しておるほど。今さら耳や尾を隠し忘れたなどという初歩的な下手(へた)を打つことは致しません。料理の味付けも完璧なはずでした。


「ちょっと考えれば分かることだが。まず、俺は女にモテねえ」

「はあ……」


 突然の言うことに、絹子は眉をひそめます。


「そんな俺のところに可愛い女の子が突然やってきて、押しかけ女房みたいに毎日でもご飯を作ってくれる? そんな夢みてえなこと、あるわけねえが! あるとしたら、そいつは詐欺師か化け物じゃ。そんでお前はこの部屋を隅々まで掃除したじゃろ。そうしたら俺が本当に文無しのおけらだってことくらい分かるはずじゃ。自慢じゃねえが、借金だってある。それでもまだこんな、ままごとをしたいなんて抜かすんなら、お前は化け物に違いねえ!!」


「ちょ、ちょお待ち! 大前提がおかしない? どんだけモテてへんの」

「うるせえが! 化生けしょうのものか、魔性のものか、正体をあらわせ!!」


 勇助の剣幕に()され、驚いた絹子は一部分だけ変化を解きました。山なりの三角耳がちょんと生え、丸みを帯びたふさふさの尾が姿を現します。


「やっぱり化生のものかよ。で、お前は何者なんじゃ? むじなか?」


 決まり悪そうに目を伏せ唇を噛みながら、絹子は姿勢を正しました。勇助も腰を下ろしました。ちなみに

「むじな」とは、多くの場合は穴熊を指します。


「……狸、です」


「それじゃあ、いいところのお嬢様ってのは嘘か?」

「ごめん、それ嘘やねん」


「知らない男と結婚させられそうになって、親父と喧嘩したってのは嘘か?」

「ごめん、それも嘘やねん」


「野良犬に上着を取られて寒そうにしとったんのも嘘か?」

「いや、それはほんま。うちら狸は昔っから犬と相性悪いねん」


「どんくさいな、お前。それで……何が目的じゃ。俺みたいなんを化かしたって面白くもなんともなかろうが」

「化かすとか、楽しむとか、そんなんとちゃうよ。これは恩返しや」

「恩返し?」

「うちはほんまに、勇助さんのお嫁さんになりに来たんや」


 ようやく顔を上げた絹子の瞳には、強い意志が宿ってございます。


「ひと月くらい前、山ん中で罠にかかってな。危うくタヌキ汁にされるところやってん。ほんまはあれ、タヌキやなくてムジナの肉を使わなあかんのやけどな。まあそれはどうでもええわ。とにかく腕とか足とか縛られると変化が使えへんし、もう諦めそうになったとき、ある男の人が猟師さんからうちを買い取って逃がしてくれたんや」


 ふと、ここで勇助はその話に違和感を覚えました。

 何よりそもそも、彼には記憶に無い出来事なのです。ここ数年は狸助けはおろか、人助けもろくにしておらぬ生活なのですから。


「せやから、命を救ってくれたお返しや」

「本当に俺がか?」

「母木勇助さん、やろ? 珍しい苗字やから、よう間違わん。それにその首飾り。赤い隈取(くまどり)した白い狐が、お座りして右手を上げてるポーズやんな?」


 絹子が指差したのは、驚く勇助の胸元でありました。


「お前、なんでそれを……」


 たしかに彼の首には、絹子が口にした通りの意匠をしたお守りが掛かっております。

 しかしそれはいつも服の下に隠しているため、外から言い当てることはかなわないはずでした。また寝ているときでさえも肌身離さぬほどに愛着しているため、こっそり覗き見ようとすればさしもの勇助も気付くでしょう。


 さらに白狐のお守りは彼が父親から譲り受けたもので、この世に一つしかないと言い聞かされていたのです。他所で見知ったものとも思えません。


「でも、どういうことじゃ? 俺は狸なんて知らねえが」

「そんでな。お礼を言いに行ったとき、その人が言うてん。『わしのことはどうでもええが、気がかりなんは息子のことじゃ。いい年をして未だに彼女の一人もおらん。もしお前さんさえ嫌じゃなけりゃ、どうか勇助の嫁になってくれ』ってな」


 絹子が話し終えて数瞬後、ようやく事の次第を知った勇助は声を張り上げました。


「俺じゃねえのがよ!」


「うん。うちの命の恩人は、あんたのお父さんや」

「あんのクソ親父! 俺が人間嫌いだからって、人でなしを送ってくることねえだろが!」

「人でなしって……随分な言い方しなや。ちょっぴりショックやわ」

「お前もお前じゃ。簡単に嫁になるとか言うな。さっさと帰れ」

「嫌や! うっとこは貸し借りに厳しいねん。恩返しの一つも出来んとのこのこ帰ったら、おとんに尻尾をギューンってされる。尻尾をギューンってされる!!」

「なんで二回言った」

「あの痛さはもう、釜茹でにでもされたほうがまだマシやでほんま」

「知るか! なんで親父らの都合に俺やお前が振り回されにゃならんが」

「いやいや、勇助さん。うちのおとんを舐めたらあかんで。金玉袋で空も飛べるし、酔って暴れて火を吹くねん」

「ほほう?」

「しかも、ポンポコ流空手百段の腕前やねんで?」

「最後ので急に胡散臭くなったがおい」


 勇助は怒り顔から呆れ顔、そして時計の針を一瞥した次は焦り顔へと、(せわ)しなく表情を変えてゆきます。


「とにかく、俺は今から仕事に行くんじゃ。お前もう出て行け」

「嫌やー、堪忍してー」


 絹子は涙目で必死に抵抗するも虚しく、外に引きずり出されてしまいました。


「うちかて一文無しやねんで! 女の子を一人ほっぽって逃げるなんて、アホー! アホー! 勇助さんのアホー! ついでにもう一つ、アホー!!」


 しかしご近所に迷惑がかかるほどの声量で罵られても、勇助は振り返ることなく足早に去って行ったのでございます。


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