★ 狸の恩返し・中
さて、この日は昼過ぎから雨が降っておりました。
とっぷり暗くなった頃合。勇助が嫌な予感を胸に覚えつつ勤めから戻ってまいりますと、玄関口にもたれかかっている少女の姿が見えました。
「あー、ゆ、勇助さん。おかえりー」
「お、お前……なんでまだ帰っとらんのじゃ。こんなびしょ濡れで。早う出て行けって言うたろうが」
胸騒ぎが的中して、絹子はそこにいたのです。
勇助は彼女に詰め寄りますが、その顔には怒りよりもむしろ戸惑いが強く表れておりました。あれだけ無下にしたのに、どうしてなのかと。
「そんなん言われても、困るわ。だって、うち、お金持ってへんもん」
対して絹子は、この寒風の中を薄着で待ち続けていたのでしょう。昨日と同じか、もしくはそれ以上の長い時間を。
おかげで顔は真っ赤に火照り、目もとろんとして焦点が定まらない様子。気力も相当に弱まっているのでしょう。よく見ると耳と尾が出しっぱなしになっているではありませんか。
「うわっ、あつっ! お前、熱まであるが。ひょっとして、朝からずっとここにおったんか?」
「あー、そうやねー」
声にも活がございません。
「アホか。お前、化け狸じゃろ。葉っぱを金に変えるとか、狸の姿でこっそり電車に乗るとか、いくらでも手はあるが」
「あはは、出来んことないけど、それ犯罪やん。お縄になるんは、堪忍やでー」
「とにかく中に入れ。家ん前で野垂れ死なれても気分が悪いが」
「そうしたいんは、山々やけど、腰に、力が、入らへん……」
コンビニ前で会った昨夜と違い、今の絹子は息も絶えだえでございます。故に勇助は何も言わず、仏頂面で彼女を肩に背負いました。
「おおきにー」
「……礼なんて言うな。俺が惨めになるが」
「でもどっちかって言うたら、お姫様抱っこのほうがええねんけど」
「うるせえ、黙っとれ」
ぶっきらぼうに答えつつ、勇助は絹子を布団に倒して寝せました。そして押入れの奥からタオルとシャツを出して放り投げます。
同時に彼女の腹が、ぐきゅるるーと可愛らしい音を鳴らしました。
「もしかしてお前、飯も食うとらんのか?」
絹子は無言で頷きます。
「着替えて待っとれ。粥でも作ってやる」
昨日今日に知り合ったばかりの小娘を看病するなど、がらにもないことをしている、と舌打ちしながらも勇助は台所に立ちました。
「おい絹子! 土鍋はどこに置いたんじゃ。俺がいつも使っとった場所にねえが」
「蛇口の、真上の、戸棚や。っていうか勇助さん、あれクモの巣張っとったで。絶対いつもは使うてなかったやん」
「塩は? 米はどこにやった?」
「調味料は、一番左端の、引き出しにまとめた。お米は、あのままにしとったら、虫に食われるから、床下に……って、今からご飯炊くって、どんだけ時間かけるつもりやねん。百均のパックがあるやないの」
ガチャガチャと慌しく動き回る勇助に、絹子は寝たままで答えました。
勇助が苦戦しつつもどうにか作った粥飯を盆に乗せて部屋へ戻ると、手首まで隠れる白ワイシャツに袖を通した絹子が、上体を起こして待ちくたびれておりました。
「裸の上にダボダボの男物を着させるなんて、勇助さんったらマニアックやね。ほんま、エロエロやわー」
「お前が服を軒並み洗濯機に入れたせいで、それくらいしか残っとらんかったんじゃ。だいたい、俺が女物を持っとるわけなかろうが。つまらんこと言うとらんと、ほら食え」
勇助は盆を枕元に置きましたが、震える絹子の手はうまくスプーンを掴み上げることすらかないません。
「あかん。よう持たれへんわ」
「世話のやける……って、よく考えたら、なんで俺がお前の世話をせんといかんが!」
「熱っぽくて、頭がぼやぼやするなー。誰かさんが、うちをあんな寒いとこへ置いてけぼりにしたせいかもなー」
「くっ、だからさっさと帰れって言うたが」
仕方なしに勇助は粥をすくい、彼女の口へと運んでやりました。
「あーん、あふっ、はふっ。んくっ。ごめんなー、でもここで帰ったら、勇助さんのお嫁さんになられへん」
「お前、そんなに親父に怒られたくないんか」
彼には絹子がここまで一途になる理由、信念とも言うべきものが理解できません。
命を救われたことへの感謝だとか、恩返しの家訓だとか、たしかにそういった一通りの説明は昨夜のうちに聞き及んでおります。しかしそれは、死にそうな目に遭わされてもなお成し遂げねばならぬことなのか、勇助には甚だ疑問でございました。
絹子は粥を飲み下し、今にも閉じられそうに落ちてくる目蓋の重さを堪えつつ答えます。
「おとんは怖いし、恩返しは大事やけどな。それだけとちゃうねん」
「じゃあなんだ」
「どっから話したもんかな。えっと……うちは物怪の輩や」
「まあ、化け狸じゃからな。見りゃ分かるが」
丸みを帯びた三角耳が、ぴょんと動きました。
「物怪はもともと、人間の感情が凝り固まって産まれてきたものって言われとる。例えば有名な物怪のほとんどが夜行性なんは、昔の人が夜を怖がっとった現れやねん。言うてみれば物怪の身体のいくらかは、人の想いで出来とんのや」
「それも、なんとなくは分かる」
勇助は白狐のお守りと、それをくれた父親のことを思い出しました。
「ちなみに頭痛薬で、半分が優しさで出来とるってのも、理屈は同じやね」
「身体が悪いときに、いらんボケを挟むな」
「まあ冗談やけど。とにかくな、うちらは人間がおらんければ発生しとらん。人間の感情に触れてないと、健康には生きていかれへん。そんな、本質的っていうん? そういうところは、龍とか鬼とか、えらい物怪でもあんまり変わらへんのよ」
勇助は腕を組み、口を結んだまま耳を傾けました。その先の言葉こそ肝要に違いないと感じたからであります。
「せやけどな、強く暗い感情が元になった物怪は、殖えるのは早いけど減るのも早いねん。長続きせんのよ。よっぽどの大物やないと、すぐに自滅してしまう。濁った水とか腐ったご飯でお腹を膨らましとるようなもんやからな。実際、昔の本とか巻物とかに描かれとったのはほとんど絶滅してしまっとる。せやから人間に愛されたい思うんは、平成に生きる物怪の本能みたいなもんや」
絹子は虚空を掴むように手を伸ばして続けました。
「でもそれがなかなか難しいねん。好かれるんと嫌われるんは紙一重やからな。適当に付き合いするだけやったらまだ別に大事でもないねんけど、その先ともなるとそうもいかん。家族付き合いもあるからな。例えば娘の旦那さんが狼とか、父親の再婚相手が亀とか、普通は嫌がるやろ? 人間との結婚を考えとる物怪が一番気ぃ使うのはそこやねん」
そこへ、むしろ先方から嫁に来てくれと言われたらどうでしょう。最初から外堀が埋まっているのですから、これほど絶好の条件はございません。
「うちらはな、物怪と分かったうえで好いてくれる人にはめっぽう弱いねん」
これは裏を返せば、正体を知られて拒絶されることが致命的だということでもありました。現に昔語りの異種婚奇譚において、その多くが約束の反故や正体の露見と共に別れてしまうのは、最悪の事態を避けるためにとった苦渋の決断であります。
「ちょっと待て。それじゃあ結局、俺の意思とかは関係ねえじゃねえが。俺の親父に言われたから、これ幸いとばかりに来ただけじゃろ。別に俺じゃなくてもよかったんじゃろ!?」
ところが勇助は、それが気に食わない。眉をひそめ、悔しそうに拳を固めました。彼にとっては相手が人間であろうと物怪であろうと、実のところは委細関係ございません。
「そんな拗ねんといて。うちはほんまに……って、ごめんな。よう考えたら、勇助さんの言う通りかもしれん」
絹子にもいろいろと言い分はあるのでしょう。過程はどうあれ目の前にいる母木勇助という男は、自分を化け狸と見破った上でなお、こうして看病をしてくれているのですから。
ですが、彼に指摘されたような企みが全く無いとも言い切れませんでした。何を申し開いても説得力に欠けると悟った彼女は、しゅんと耳を伏せ、弱々しく毛布の端を握ります。
「勇助さんの気持ちも考えんと、ほんまにごめん。治ったらちゃんと……」
そして言葉は途中で消え入り、絹子の視線はぼんやり宙を泳ぎました。すると突然、ポフッと湿り気のある音が鳴るや、彼女の姿もまた見えなくなってしまったのです。
慌てて勇助が毛布をめくるとそこにいたのは、脱げたシャツの中ですやすやと寝息を立ててうずくまっている一匹の狸でございます。
おそらくは人間に化けているだけの気力も使い果たしてしまったのでしょう。その寝姿は実に無防備で、試しに頬の辺りをつついてみますと、くすぐったそうに身を縮めるのでありました。
「謝るな。俺が惨めになるが」
一方で勇助も、分かってはいるのです――自分が単に臆病なだけであることを。向けられる好意を素直に受け止めるのが怖いだけだということを。そして目の前で眠りこけている狸娘もまた同じく、否定されたり裏切られたりすることを極端に恐れているのだと。
彼はため息を一つ吐くなり、今夜も薄手の夏物布団で我慢しなければならないのかと、穏やかな顔で呟いたのでございます。
翌朝、絹子は本調子とまではゆかぬまでも大分に回復したようで、勇助が目を覚ます頃にはちゃっかり人間の姿に戻っておりました。元が狸なので、戻って、というのもおかしな表現ではございますが。
「短い間やったけど、お世話になりました」
突然に押しかけて迷惑かけたことを詫びて、絹子は家を出ようと致しました。
「まあ、待て」
そこへ、勇助は彼女を呼び止めます。
「このままだと、俺が無理やり追い出したみたいで気分が悪いが」
みたいも何も、まさにその通りなのですが、ここではさて置きましょう。
「とりあえず、俺の親父に言われたことは忘れろ。お前にどんな恩返ししてもらうかは、俺が後で考える」
「ってことは……まだここにおってもええのん?」
ここで気の利いた返しを出来ない勇助は、無言をもって肯定しました。すると、絹子の顔が花咲いたように明るくなります。
「おおきに!! やっぱり勇助さんは、ええ人やわ」
「こら、抱きつくな! やっぱりってどういうことじゃ」
「いやほら、昨日はうちのこと心配してくれたし」
「気のせいじゃろ」
「またまたー。そうでなかったら、うちの熱がこんなに早く引くはずないやないの。それに、うちのことを『絹子』って名前で呼んでくれたやん」
「言うとらんが。どうせ変な夢でも見とったんじゃろ」
絹子を引っぺがし、目を逸らしつつも勇助は頭の中で、布団や食器をもう一人分揃えるのにいくら必要かと勘定しておりました。
二人の同棲が始まって一週間ほど経ちました。お揃いの湯のみで夕食後の茶を味わっていたところで、勇助は言いました。
「そろそろ建設的な話をしようが」
すると絹子は、わずかに頬を染めて答えます。
「建設的って……ああ、うん、そうやね。出来れば二人は欲しいなあ。最初は女の子がええって聞くけど、勇助さんはどっちがええ?」
「なんでそっち方面に話題が飛ぶんじゃ! いろんな過程を無視しとるが! そうじゃねえ。お前の恩返しのことじゃ。何をしてもらうか決めるにしても、何が出来るんか分からん」
絹子は落胆の表情を浮かべつつも、どうにか勇助の言わんとしているところを読み取って返します。
「せやなあ……うちら狸は人間に化けるんが得意やけど、それは必要最低限のことやし、今の時代じゃ珍しくもなんともないからなあ」
「狸ならでは、ってのはねえのか?」
「うーん、あ、魂抜きはうちらの十八番や!」
「たまぬき?」
聞き慣れぬ単語に、勇助は眉をひそめます。
「文字通り、生き物の魂を肉体から抜き出すねん。まあ、無理やり幽体離脱させるみたいなもんやな。これはなかなか、他の物怪には真似出来へんで。なんせ狸の語源は、この魂抜きから来とるくらいやからな」
「それ、本当がか?」
「知らん。けど、おとんはそう言い張っとる」
ちなみに本当の狸の語源としては、もちろん諸説ありますが、その皮が手貫という防具の素材としてよく使われたからだというのが有力であります。
「幽体離脱か、そりゃ面白そうだな」
「あ、あかんわ。ごめん、勇助さん。やっぱ魂抜きはナシや」
勇助が期待で目を輝かせると、絹子は思い出したように声を上げました。
「忘れるところやったわ。魂を抜くのは得意やけど、戻すのは出来へんのよ」
「抜きっぱなしか」
「抜きっぱなしやねー。肉体は魂が無いと死んでしまうし、魂も肉体に守られてないとだんだん崩れていくから、ダメや。抜けた魂を戻すのは、狐が得意やねん」
「なんじゃ、そのおかしな分業制は」
「ずっと昔に流行った人面犬とか、口裂け女とかは悪い狐の仕業やねん。後先考えずに、興味本位で幽体離脱したがるアホな子供が多かったんもあるけどな。これ豆知識な」
「そんなんはどうでもええ。他には無いんか?」
「葉っぱをお金に変えるんも定番やけど、あれはただの幻覚やから自販機とかには効かん。それに軽々しく使うたらあかんって、おとんから釘刺されとる」
「なんじゃ、使えん」
「失礼なこと言いなや。これでも地元じゃ優等生やっちゅーねん」
「しかしな……そうじゃ、お前、動物と喋ったりは出来るんか?」
「動物?」
不意に悪どい顔をした勇助に、絹子はきょとんと目を丸くしました。
「まあ、大体のとは出来るけど」
「そうか。じゃあ今度の日曜日に出かけるぞ」
「え、それってデート? 動物園にでも行くん? きゃー、嬉しいわあ! なに着ていこ? あ、勇助さん。もう空っぽやねんな。お茶のお代わり持ってくるわ」
「いや、別にそういうんじゃねえ……って、聞いとらんが」
絹子は一人で早合点をして身をよじらせ、バタバタと台所まで走っていってしまいます。まあ勘違いでもさせておけばいいか、と勇助は楽観しつつ、戻ってきた彼女の淹れた茶を口に致しました。
すると今度は、絹子のほうから問いかけました。それも、先ほどまでとは打って変わって神妙な面持ちであります。
「あ、そういや勇助さん。うちも訊きたいことがあんねんけど」
「なんじゃ?」
「勇助さんって、ホモなん?」
突拍子も無い質問に、思わず彼は茶を吹きこぼしてむせました。
「い、いきなり何を言い出すんじゃ!」
「あ、ごめん。訊き方間違えた。勇助さんって、ゲイなん?」
「同じじゃ! 違うわ!」
いきり立つ勇助に、絹子はさしたる娯楽も無い部屋を見回してから言います。
「せやけどここ、ご飯食べてお風呂に入ったら、後はもう寝るくらいしかないやないの。それでもちっとも手ぇ出して来んってのは、ひょっとして、そういうことなんかなあって。でなかったらいよいよ秘伝の薬を使うか……あ、もしかして熟女好き?」
「それも違うわ! 俺は……その……」
珍しく勇助は、何かを言おうとして口ごもっております。それでも絹子が首を傾げて目を覗き込もうとしてくると、彼は諦めたように言葉を紡ぎました。
「女と深く関わるんが怖いんじゃ」
勇助は少しずつ、身を切り崩すように語ります。
*
昔から女運が悪かった。惚れた女の子には、必ずと言っていいほど他に仲のいい男がいた。誰かを好きになって、首尾よくいった試しが無い。
イケメンの芸能人が「何度でも繰り返しアタックすれば女はいつか落ちる」などと無責任に吹聴していたが、それを鵜呑みにして警察を呼ばれそうになったのは苦い思い出だ。
大学時代に一度、学年で五本の指に入るほどの美女に誘われた。夢心地で彼女の家に付いて行ったら、そこには怖い職業らしきお兄さんが何人も待ち構えていた。その場の金だけで済んだのは不幸中の幸いだった。
また、たしかに一時期、恋人と呼べる相手もいた。その娘は友達付き合いが少なく何事にも控えめだったのに、俺に対してだけは積極的に話しかけてくれた。しかしデート帰りの俺の手元にはいつも、何故か自己啓発セミナーのパンフレットが大量に抱えられていた。
社会人になってからまた恋をした。交友関係の広い派手な女性だった。これが最後の恋だと信じていた。たとえ彼女にとって自分が、何股もかけて数居る男の一人に過ぎないとしても構わないと思っていた。
思い込もうとしていたのかもしれない。
ブランド物のバッグをねだられたら、借金をしてでもプレゼントした。半ば騙されているのではないかと思いつつも喜んで買った。
そんなある日、そのバッグが沢山詰まった紙袋を持って質屋に入る彼女の姿を偶然に見た。自分が一人の男としてではなく、一つの財布として扱われている事実を目の当たりにして、急速に想いが冷めた。
何もかもがどうでもよくなって、期待するのを止めた。
*
「もう人を好きになるのが面倒くさくなったんじゃ……って、なんでお前にこんなこと話さにゃいかん。おい、いま聞いたことは忘れ……」
ずっと俯いていた勇助が頭を上げると、いつの間にやら絹子はすぐ傍におりました。
「勇助さん。ずっと、辛かったんやね」
丸っこい顔に慈愛を湛え、絹子はゆるりと手を伸ばしました。柔っこく温かい手のひらが、勇助の両頬に添えるかたちとなります。
「絹子……」
「勇助さん……」
互いの鼻先が近づいた刹那、彼女の笑みがふっとイタズラっぽいもの変わりました。
絹子は、なんと、彼に頭突きをしたのでございます。
「だぁ痛たたっ! いきなり何するんじゃ!」
「キス、すると思うた?」
悔しそうにわななく勇助の口元は、無言でその質問を肯定致しました。一方、絹子は額を赤らめ涙目になりつつも毅然としております。
「残念、うっとこは貸し借りに厳しいねん。こないだのお返しや。それに期待を裏切るみたいで悪いけど、そんな色仕掛けみたいなことしたら、ブランドバッグ女と大して変わらへんやないの。うちは勇助さんに、そんなふうに思われるんは嫌や」
だからと言って頭突き返しは如何なものか、と指摘するのは無粋でありましょうか。
しかして勇助の過去を振り返るに、女は逃げるものか騙すものかのどちらかでありました。真っ向からぶつかってくる絹子に込み上げるものを感じるのも無理からぬことでございましょう。
その夜はいつものように布団を離しておりながら、なかなか寝付けずにおったのでございます。




