亡国の天女・上
あるとき、あるところに、精力絶倫な男がおりました。
――と、今回に限っては、男の生い立ちを脇に置くことに致しましょう。それと申しますのも、彼がどのように育ってきたかを語りましても詮無きことだからであります。
*
あるとき、あるところに、一人の女がおりました。
彼女の生まれ育った国は長い戦争によって廃れ、破壊兵器の多用で人間の住めないほど汚れてしまいました。そして彼らは生き残るために、故郷を捨てることを選びました。
石の方舟を沢山作り、それらに乗って天を越え、再び豊かな大地に降り立つことを夢見て眠りに着いたのです。
女の乗った船は星々の海を渡り、多くの時間をかけ、ようやく遠い惑星の岩山に不時着しました。それに続いて船内の冷凍睡眠装置の蓋が開き、女は目を覚まします。
彼女は独りでした。同じ船に乗り込んだ仲間達は装置に何らかの不具合が起きたのでしょうか、ことごとくが枯れ、朽ち果てておったのです。
ですが彼女は嘆きませんでした。
いざとなっても悲観している暇など無いことは覚悟の上であり、そもそもが生きて目覚めることすら一か八かの船出だったのですから。彼女は心の整理もそこそこに、短刀を手にして船を降りました。
外に出た女はまず、呼吸器無しでも美味しい穏やかな空気に感動しました。鼻をくすぐる潮風に心地良さを覚えました。少しだけ歩くと、眼下に広がる海の青さに目を奪われました。
ふと耳に届く甲高い鳴き声に振り向くと、カモメの一団が視界に入ります。
『翼で空を飛ぶ生き物……食べられるのか?』
動いているなら動物だ。
動物ならば肉になる。
星は違えど、生物の組成にさしたる違いはあるまい。
第一、四の五の言っていられる場合ではないのだ。
そう自分に言い聞かせ、女は身を岩陰に潜めながら隙を窺いました。出立時に想定していたよりも時間が経っていたらしく、保存食は既に腐っていたのです。
すると、ひょうっと風を切る音が一瞬。女が狙いを定めていた一羽の首を、彼方より飛んできた矢が貫きました。
射抜かれたカモメは倒れ、他は喚きながら散りぢりになって飛びました。
女は声も上げず冷静に努めて待ちました。そして一人の男が口笛を吹きながら呑気に獲物を取りに来ると、彼に跳びかかり、押し倒して組み伏せ、その喉笛に刃をあてがったのでございます。
彼女は言いました。
『私の言葉が分かるか? 分かるならば首を縦に動かせ』
狩人の男は無言で頷きました。
しかし彼が言葉を発しなかったのは、恐れのためではございません。
簡素な布地を巻いただけのような服装、彼女の煌びやかな金の髪と、あどけなさの残る顔つきに不釣合いな覇気溢れる紺碧の瞳……そして何より、その背から生えている一対の真白い翼に見惚れていたのです。
そんな男の心情など意に介さず、女は訊ねました。
『ここはどこだ。惑星エアリスか? お前はエアリス人か?』
エアリスとは、女の船が目標としていた青い星の名であります。しかし男には、何が何やらさっぱりでした。
それもそのはず、彼は自分の足元にある大地が丸い形をしているなど知る由もありません。夜空に瞬く星々でさえ、ご先祖の魂が見守って照らしてくれているものだと信じている程度の天文知識なのですから。
『とりあえず、お前の家に連れて行け。もっと訊きたいことがある。それに……お腹が空いた』
時間をかけねば情報を得られぬと判断した女は、食料の確保も兼ねて男に案内を求めました。
男の住処は岩山の麓、人里から離れた平原にありました。土焼きの小屋に二人も入れば手狭に感じられましょう。
そこで女はいくつかの質問をしました。
雨季と乾期が繰り返されるのにどのくらいの時間があるのか。衛星の満ち欠けはおよそ何日周期なのか。一日の長さはどれほどか。集落にいる他の人間はどんな暮らしをしているのか。男が手にしている生き物は食べられるのか。
それで分かったことは、やはりここが彼女の望んでいた惑星エアリスであるらしいということ。そして、その割には予想していたよりもずっと科学文明が遅れているということです。
『ところで、きみはどこから来たの? どうして羽が生えているの? あれ、さっきまで生えていたのに、なんで今は無くなっているの?』
捕れたてのカモメの毛をむしりながら、今度は男が訊ねました。女は順に答えます。
『私は惑星リクルスから来た。空の向こう、遠い遠い場所からだ。この翼は例えるならば、触角みたいなものだな。辺りの様子を感知できるし、他にもいろいろと用途はある。でも出し続けていると疲れるから、普段は身体の中に隠しているんだ』
『空から降りてきたの? それじゃあ、きみは天女だね!』
暖炉でカモメが丸々と焼き上がると、その香りに女は喉を鳴らします。はじめは鳥を食することに不気味さを感じていた女も、男が美味しそうに頬張っているのを見れば空腹には逆らえません。
『そんな大層なものじゃない。……そう言えば、ここに住んでいるのはお前だけか?』
『そうだよ。僕が独りで暮らしてる』
腹を満たした女は身の振り方について考え、おもむろに立ち上がりました。
『そうか。分かった、もう結構だ』
『え、どうしたの? どこか行く当てがあるの?』
もちろん当てなどあるはずがございません。しかし彼女は、まだ男を信用してなどおりません。
男に家族でもいれば、それを人質にとって言うことを聞かせることも出来るでしょう。しかし独りであれば、いつ裏切られて他の人間を呼ばれるとも限りません。
それでいて、この星についての知識など貴重な情報源を簡単に殺すわけにも参りません。
故に、今は距離をとって観察することが望ましい。そう判断した女は、男の制止を振り切って、船が墜ちた岩山へと戻り姿を隠したのでございます。
それから天女は、洞穴を見付けて寝床と決めました。
幾日か過ぎ、少しずつ行動範囲を広げていったときのことであります。森でキノコ採りに励み、足元にばかり集中していた天女は、すぐ近くに迫っていたものの存在に気付くのが遅れました。
熊です。
初めて見る巨獣に怯えた天女は、咄嗟に翼を広げて威嚇をしてしまいました。
すると熊のほうも見慣れぬ相手に驚き、前後不覚となって女に襲いかかりました。大きな爪が彼女の肩口を抉ります。そして血を流して倒れる彼女に、のしかかって追い打ちまでかけようとするのです。
あわや、彼女の首根が噛み砕かれんとした刹那、熊は動きを止めました。そして辺りを見回し、指笛を吹きつつ歩いてくる狩人の姿を認めるなり、慌てて逃げ去ってゆきました。
『大丈夫かい。この時期の熊は、食べ物を求めて沢山歩き回るから、注意が必要なんだ』
男は優しく、天女に微笑みます。
『う、うるさい。誰が助けてくれと言った? あんな図体だけの生き物など、分かってさえいれば遅れはとらなかった。今日はたまたま油断していただけだ。それより早く、血止めに使える薬草が生えている場所を教えろ』
天女はぶっきらぼうに言いながら、男の後に続きました。