暗い森の女王・下
狼は口の端を歪ませるや、その近くに生っていた柘榴の木に飛びついて実を噛み取りました。傷だらけでぶよぶよだったその果実は、狼の口が触れた途端に、なんと瑞々しく膨らみ張ったのです。
男は柘榴を食べました。
すると不可思議なことではありますが、男はその実を呑み込むなり、瞬く間に強健な身体と活力を取り戻しました。そして彼は狼から、鹿、山猫、梟の三匹を借り受け、疾風の如く村へと駆け戻ったのでございます。
月夜にも怒号と土煙を上げながら向かってくる男の姿は、さぞ目立つものでありましょう。村の若人衆はそれぞれが石槍を手にし、列をなして迎撃の体勢を整えました。
しかし男には暗い森の、禁地の力が後ろにあるのです。どうして貧弱な武器と結束で止められるでしょうか。男を乗せた鹿は、若人集の頭上をひょうと跳び越しました。
その勢いに乗り、男は大きな土焼きの家に押し入ります。そこは村長の家であり、彼の子を身ごもった少女の家でもあります。男の後ろに乗っていた山猫が、家人にひゅうと掛かって押し倒しました。
『行こう。迎えに来た』
そう言って男は奥の部屋に分け入り、少女に手を差し伸べました。彼女も喜びに涙し、その手を取りました。少女は鹿の背にまたがり、男に身体を預け、ぎゅっと抱き締めます。
後は森へと戻るだけ。
そう思い外へ出た男の前に、見覚えある人影が立ちはだかりました。
唇を強く噛み、すがるような目で制止を訴えてくるその女は、かつて男が将来を誓い合った元の妻でございます。
『こんなことをしてどうなるの? 今ならまだやり直せるわ。もう一度、村に戻れるように皆に掛け合ってあげるから。馬鹿な真似はよしてちょうだい』
男はかぶりを振りました。
『どうして? このわたしよりも、そんな小娘のほうがいいの? そんな……そんな醜い女のほうがいいの?』
そうなのです。申し上げる機会を損なっておりましたが、村長の孫娘は不細工なのです。
年がら年中、頬や顎には吹き出物があり、目蓋は腫れぼったく、鼻の軟骨も歪んでいる。眉は極端に細く、肌や髪は当然のように荒れ放題。
性格だけは良いと評判なのが救いでしょうか。
『俺はもう、見た目の美しいとか醜いとかにこだわるのは、やめたんだよ』
男は、元の妻を見据えて答えます。
『お前は素敵な女だ。器量がよくて、働き者で、俺なんかには勿体ない、いい女だよ。お前は何も悪くない。ただ一つだけ、相性が悪かっただけなんだ。俺は……子供を作りたかったんだよ。だから……悪い夢を見たと思って忘れて、他の男と幸せになってくれ』
彼の肩に留まっていた梟が、ほうほうと鳴きました。すると元の妻は途端に目を閉じ、眠りに落ちて膝から崩れます。
男はそれ以上、何も言わず立ち去ったのでありました。
若人衆は男を追いかけはしましたが、少女の連れ去られた先が暗い森だと知れると、誰もが追及の手を止めたのでございます。
男はその晩、朝日を待つこともなく事切れました。
残された少女が男の亡骸に寄り添いむせび泣いておりますと、そこに音も無く現れたるは件の黒狼でございます。
『お前が、その男の種子を身に宿している女か』
『お、狼が喋った? どういうこと? あなた、何なの?』
困惑する少女を、狼は優しげな言葉で諭しました。
『私は獣の……暗い森の女王だ。お前が丈夫な子を産めるようにと男から頼まれ、約束した』
少女は初めのうちこそ疑いましたが、新鮮で豊富な食べ物に囲まれ、そこが安全な場所だと分かると、狼を全面的に信頼致しました。
やがて月日は経ち、臨月を迎えます。
その時期、その地には大きな嵐が訪れていたのですが、暗い森の中に限っては至って静かなものでした。少女は外的なあらゆる危険から保護された森の深奥で、母となるべく股を開きました。
産まれたのは、産声強かな男子でございます。
そして少女は我が子を胸に抱いたまま、息を引き取りました。彼女の身体では負担が大き過ぎたのでしょう。
たしかに狼は約束の通り、子供の生命は救ったのです。
狼は赤子に張り付いていた羊膜を丁寧に舐め取ると、やおら身を震わせました。すると黒毛が次第に収縮し、徐々に輪郭を明らかにしてゆきます。
『それでは、この子は私が貰っていくぞ。健やかに、父親と同じく元気な男になりそうだ。おっとと、坊や、そんなに暴れては嫌だよ』
狼は耳と尾を具えた、黒髪の美女へと姿を変えました。そして赤子を抱き上げると、慣れぬ手つきであやしながら、暗い森のさらに深みへと歩いてゆきました。
『さっそく、お腹が減っているのかな? 私に乳は出せないか? 無理ならば、熊が最近、子供を産んだはずだから、ついでに頼むとしようか。ふふふ、久しぶりに忙しくなりそうだ』
暗い森の女王は、はたはたと尾を振り、心底から嬉しそうに笑うのでした。




