暗い森の女王・上
あるとき、あるところに、精力絶倫な男がおりました。
この男がどれだけ絶倫かと申し上げますと、これが実に凄い。
一度は若くして所帯を持ちながらも浮気を繰り返し、人妻に手を出したところで三行半を叩きつけられ、親族郎党から縁を断たれ、それでも懲りずに村長の孫をたぶらかし、まだ成人前の娘子を孕ませたとして私刑を加えられ、ナニをチョン切られた挙句に、自らの生まれ育った共同体を身一つで追い出された経歴の持ち主でございます。
男の生まれたこの時代、人はとても脆弱でありました。
流行り病のようなものが全天全地に渡り、多くの者が心を蝕まれ生命を失いました。僅かに残った者達が身を寄せ、少ない知恵を出し合い、どうにか細々と生き永らえておったのです。
田畑を作る術さえ既におぼろげで、腹を満たすのは専ら野生の果実や鳥獣をもってしておるご時勢。糸を織る技も失い、毛皮で寒風を防ぐ始末でありました。
そこで独り村を追放されるということは即ち、遠回しな死刑宣告を意味しておったのです。
男は始めのうち、草を食み、泥水をすすって飢えを凌ぎました。
ただそれもすぐに限界を迎えます。さりとて、まともに食せるものを探せば村の近くへ戻るか、さもなくば危険な場所へ進むしかありません。
彼が思いつき向かった先は、森でした。
ですが、ただの森ではございません。昼間でもろくに光が差さず、人食いの化け物が跋扈しており、もし足を踏み入れれば二度と戻れなくなる――そこは「暗い森」の名で恐れられている禁足地でございます。
それでも男は山野に分け入りました。
しかし暗い森に生る果実はことごとく傷んでおり、とても食べられるものではありません。鳥や獣は警戒心が強くて近寄れません。
やがて疲れて足は棒になり、喉も渇いておりますが、彼は歩きます。
むせかえる瘴気にあてられ、枝葉で切った傷口が膿み広がっても、彼は這い進みました。
そのうち気も失いがちになり、夢も現も分からぬところまで落ちて、男は一匹の狼と出会いました。
長い黒毛が周りの闇との境目無く溶け込み、実際の身体の大きさは測りかねます。そして浮かび上がる鬼灯色の瞳は、じぃっと値踏みするように男を見下ろしておりました。
『人間が、これほど深い場所にまで来るとはな。途中で一度でも引き返そうとは思わなかったのか』
狼は口を開きました。
獣が人の言葉を扱うことに対して男は、これはきっと今わの際に見る幻と覚えました。尋常の心であればおののき逃げるか、愚かにも打ち倒そうとするかのいずれかでありましょう。
しかし達観した男は半ばやけっぱちに、己の身の上を語りました。
『……だから俺にはもう、帰るところが無いんだ。命がけで暗い森に逃げ込んではみたが、やっぱりここは人間の住むべきところじゃないらしい。俺はもうすぐ死ぬから、このまま放っておいてくれないか?』
『お前は変わった人間だな。わざわざ敵を作るとはご苦労なことだ。人間は助け合って生きるものなのではないのか? 詳しくは知らないが』
狼が鼻を鳴らすと、男は息を荒げました。
『こんな世の中だからこそ、だ。飢えて死ぬかもしれない。寒くて死ぬかもしれない。俺達だって、いつあの流行り病で狂ってしまうかも分からない。だったらせめて、俺が死んでも残る何かが欲しかった。でも俺は不器用だし、頭も悪いから、子供を作るくらいしか思いつかなかった』
『……お前達はあれを、病気か何かだと信じているのか?』
『どういうことだ?』
『いや、こちらの話だ。説明をしても、決してお前達には理解出来まい』
狼は意味深に呟き、どこか遠くを見やったかと思うと、また男に向き直りました。
『それにしても、自分が種無しになっては世話が無いな』
『はは、そうだな。でも……いいんだ。村には俺の子を身ごもった女がいる。そいつが丈夫な子供を産んで育ててくれれば、俺の人生は無駄じゃなかったんだって思えるんだ』
男の自嘲を込めて笑います。
そこへ一羽の烏が、バサバサと忙しく飛んで参りました。
烏は男と狼の間に降りると、狼の鼻先に口ばしを二度三度とすり寄せて、再び彼方へと飛び立ってゆきました。
虚ろな目をした男がその様子を眺めておりますと、狼は浮ついた声で言い下しました。
『わるい報せだ。お前の子供、もうすぐ死ぬぞ』
男は己が耳を疑いました。皮肉にも、切れかけていた意識がまた繋がります。
『正しく言えば、殺される。産まれる前にな。父親は咎人であるし、何より母体があの細さでは危険だということだろう。まあ、妥当な判断だ』
『そんな……それじゃあ俺は……』
『無駄死にだな。さあ、お前と喋るのも飽きたから、望み通りに放っておいてやろう』
狼は楽しそうに鼻で笑うと、振り返って森の奥へと姿を消そうと致しました。藁にもすがりたい男がとっさに伸ばした腕は、尾の先をかすります。
『た、頼む。俺の代わりに、その子を助けてくれ』
『断る。義理が無い。私は人間が嫌いだし、半端に生き残るよりはいっそ清々しく滅びてしまえばよいと思っている』
背を向けたままそこまで言って狼は、首だけ回して男をねめつけました。
『だが今、少しだけ考えを変えた。子を残す……か、その手もあったな。私の父は私を愛してくれなかったが、子供なら、あるいは……』
狼は何故だか嬉しそうに喋るのです。
『ひとつ試してみたい。条件次第では力を貸してやってもよいぞ。子供の生命は救ってやる』
その様はまるで、暗い森の深さを体現しているようでもありました。
『一つ――私はこの森からは出ない。お供を付けてやるから、女を奪い取るのはお前自身が行け。
二つ――望みが叶っても、お前は直に死ぬ。これは覆らない。
三つ――産まれた赤子が男子であった場合、私が引き取る』
それでもよいか、と問われた男は迷うことなく頷きました。