閑話Ⅱ 学院騒動録・目薬事件
王立政治学院・医務室。
午後の光が薄く差し込み、薬瓶がかすかに揺れていた。
宰相候補リディア・アルヴェーヌは、書きかけの報告書にため息を落とした。
机の上には紙の山。
朝から政治論文と数値整理で目を酷使していたのだ。
「お嬢様、もう目が真っ赤ですわ!」
ミリエルがタオルを持って慌てて駆け寄る。
リディアはわずかに眉を寄せながら、ペンを置いた。
「……少し霞むだけよ。これくらい、どうってことないわ」
「前にもそうおっしゃって、一晩で五つの書類を書き直されたでしょう?」
「……記憶にないわ」
ミリエルが盛大にため息をつく。
「忘れたことにしてますわね!」
そんな言い合いの最中、扉を叩く音が響いた。
「失礼する」
穏やかな声と共に入ってきたのは、王太子アラン・セリーヌ。
その手には小さな瓶が握られていた。
制服姿でもどこか威厳が漂うが、表情には心配の色が浮かんでいる。
「君の“平気”は信用できない。医務官からこれを預かった」
瓶を差し出され、リディアの瞳が怯えの色を帯びた。
「……それ、まさか」
「目薬だ」
瞬間、リディアの肩が跳ねた。
「けっこうです! わたくし、ああいうものは苦手でして!」
「苦手?」
「だって……痛いんですもの!」
ちょうどその時、廊下を通りかかったルカが足を止めた。
眉をひそめて呟く。
「……痛い? 何の話だ?」
すぐ後ろを歩いていたレオンが淡々と告げた。
「聞くな。命を落とすぞ」
アランは静かに近づき、優しく笑んだ。
「怖がらなくていい。優しくするから」
「なっ!? 殿下!!?」
リディアの悲鳴が医務室に響く。
廊下の外で、ペンを落とす音がした。
興味を引かれたのか、扉の隙間から数人の影。
エリオルが顎に指を当て、興味深げに言葉を零す。
「ふむ……観察対象として実に面白い反応だ」
隣でセラフが小首を傾げた。
「……これは愛の儀式なのですか?」
ルカが両手を振って絶叫する。
「違ぇぇぇぇぇぇ!!!」
アランは小瓶を軽く傾け、真剣な声で続けた。
「入れた瞬間は痛いかもしれないが、入ってしまえば気持ちいいから」
リディアの顔が一瞬で真っ赤になる。
「そ、そんなこと言われても心の準備が!!」
ミリエルが頭を抱えた。
「殿下! その言い方は誤解されますぅぅ!!」
アランが困ったように眉を下げる。
「暴れないでくれ。……入らない」
「な、なにが入らないんですかっ!?」
廊下の向こうで誰かが盛大に咳き込む。
ルカが顔を真っ赤にして叫んだ。
「ちょっ……おい、今“入らない”って!!」
レオンが淡々と突っ込む。
「落ち着け。目薬だ。目薬以外ありえん」
アランは息を整え、集中したように視線を落とす。
「もう少し奥まで……いや、違う、奥を見るんだ!」
「~~~~~~~~!!!」
リディアは椅子の上で固まり、ルカが頭を抱える。
「奥ってどこの奥だよおおお!!!」
セラフが淡々と答えた。
「瞳孔の奥、では?」
「お前が一番やばいこと言ってんだよ!!!」
混乱の渦の中、ミリエルが勇ましく前に出た。
「もう結構です! わたくしが差します!」
小瓶を取り上げ、素早くリディアの目に数滴。
リディアはきゅっと目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……あぁ……終わった……」
アランが微笑む。
「どうだ。痛くはなかっただろう?」
リディアは頬を染め、むくれたように言い返した。
「……殿下が怖かっただけです」
外で誰かが盛大に吹き出した。
* * *
翌朝、学院の掲示板に一枚の紙が貼られていた。
> 【告示】
> 医務室利用時の騒音は控えること。
> (特に王太子殿下およびリディア・アルヴェーヌ嬢)
その下には、誰かの落書きが残されていた。
> “学院史上最大の誤解事件”
* * *
ここまで読んでくださってありがとうございます!
今回は完全なるギャグ回でした。
リディアが真面目に「政治とは理想と現実の狭間である」とか言ってる裏で、
医務室では「目薬一つで国家規模の誤解」が起こってました(合掌)。
ちなみにリディアは甘党で、目薬と粉薬が大の苦手。
一方でアラン殿下はそんな彼女を心配してただけなのに、
結果的に学院中に“何かが起きた”と思われるという悲劇……。
この事件の後、学院内ではしばらく
「優しくするから」が流行語になったとかならなかったとか。
次回からは再びシリアス路線に戻ります。
……たぶん。
(作者の理性が生きていれば)




