第十七話:色香
学院の図書塔は、午後の光を受けて静かに輝いていた。
石造りの壁に反射した明るさが、棚に並ぶ古書の背表紙を淡く照らす。
その中で――
ルカ・ヴァレンティンは、妙な胸のざわめきを押さえられずにいた。
(……何だ、この感じは? 昼食を抜いたわけでも、徹夜したわけでもないのに)
胸の奥がきゅっと縮むような、じれったい違和感。
理由が分からない。だが、その原因が視界の端にあることだけは、はっきりと分かっていた。
少し離れた机のそばで、アランとリディアが並んで立っている。
アランは穏やかな笑みを向け、リディアは首をかしげながらなにかを説明していた。
二人の距離は近い。肩と肩が触れるほどではないが、息づかいが届きそうなほどには。
(近い……いや、近すぎないか……? いつからあの二人、あんな自然に隣に立ってたっけ)
リディアが何か言うと、アランは小さく笑った。 その表情が、妙に柔らかい。
胸が、ちり、と痛んだ。
(……は?)
痛みの正体が分からない。
いや、分かりたくなかった。
ルカはわざと視線を本に落とした。だが、意識がそこから離れてくれない。
(おかしいだろ。俺はただ、リディアと対等な存在でいたいだけで――)
胸が、もう一度きゅっと縮む。
(……いや、違うな。これは……)
自分の中でなにかが名前を求めて蠢いている。 だが、そこに言葉を与えてしまったら、二度と戻れない気がして。
その時――。
「……ルカ?」
静かな声が、背後から落ちた。
振り向くと、そこにいたのはセラフ・ノア=リュミエールだった。
白金の髪が光を受け、淡い紫の瞳がまっすぐにこちらを見る。
「顔色が悪いですよ。何かありましたか?」
「別に……」
「嘘ですね」
即答だった。
ルカは思わず眉をひそめる。
「……俺の何が分かる、あんたに」
「“色”が変わってる」
「は?」
セラフは、柱にもたれかかり、細い指先を唇に添えた。
どこか愉しむような、しかし観察者の鋭さを含んだ目。
「君の視線。リディアを見る時の目は柔らかい。ですが、先ほどから殿下を見る時は……獣みたいに鋭い」
「……!」
図星だった。心臓が跳ねる。
セラフは肩をすくめる。
「嫉妬、ですね?」
その一言に、呼吸が止まりかけた。
(し、嫉妬……? 俺が……? 誰に? 誰にって……)
答えは、あまりにも単純で。 だからこそ、受け入れがたかった。
「……何でも恋だの愛だのに結びつけるのは、早計だろ」
なんとか絞り出した反論は、我ながら弱々しかった。
セラフは少し目を細める。
「私は恋なんて知りませんが……“奪われたくない”と願う感情に、名前を与えたがる人間を、何人か見てきましたよ
淡い紫の瞳が、ふと遠くを見る。
「羨ましいですね、ルカ。気づける心を持っているのが」
「羨ましい……?」
「私には、“そこまで強く誰かを想ったことがありませんから」
その言葉は、どこかひどく寂しげだった。
ルカは返す言葉を失う。
胸のざわめきは止まらない。むしろ、セラフの言葉で輪郭を与えられていく。
(……やめろよ。そんな風に言われたら、余計に――)
その時だった。
「……二人で何を?」
静かな声が、廊下の入口から届いた。
振り向けば、アランが立っていた。
浅い金髪、灰青の瞳。いつも通り穏やかな微笑み――だが、その目の奥がわずかに鋭い。
(……最悪のタイミングで来たな)
ルカが心の中で天を仰ぐ間に、セラフはあっさりと身を引いた。
「話はここまで。続きは……修羅場のあとで」
「待て、修羅場って何だよ!」
思わず声が出たが、セラフは聞こえなかったふりをして、ひらひらと手を振り去っていった。
残されたのは、ルカとアランだけ。
静かな廊下に、妙な緊張だけが残る。
「……ルカ」
名前を呼ばれ、肩が強張る。
「……んだよ、殿下」
「用というほどのことではないけれど」
アランは一歩近づいた。 距離が縮まり、逃げ道が塞がれる。
「君、最近リディアのことをよく見ているね」
(いや、言い方ァ!!!)
喉が乾く。
ルカは目を逸らした。
「……観察、してるだけだ。アイツが何か、失敗しないか」
「君が? リディアを?」
アランの声は穏やかだった。だが、その穏やかさこそが恐ろしい。
王太子として鍛えられた、静かな追及。
「リディアは優秀だ。心配する必要は、もうないんじゃないか?」
(その言い方!! 俺の心を殴らないでくれ!!)
ルカは言い返そうとする。だが、うまく言葉が出てこない。
アランは、ふと目を細めた。
「……それとも」
その前置きだけで、背筋に冷たいものが走る。
「君は、リディアを“特別に”思っているのかい?」
世界が一瞬、止まったようだった。
胸の奥で暴れていたものが、一気に言葉を持つ気配を見せる。
(言うな。やめろ。その言葉に、これ以上形を与えるな)
そう思うのに――。
「そ、そんなわけ……」
否定の言葉が、ひどく弱く響いた。
アランは、深く息を吐いた。
「……そうか」
優しい声だった。あまりにも優しすぎた。
(やめてくれ。“気づいてほしくない相手”にだけ、そんな顔をされるのは……)
胸が痛む。呼吸が浅くなる。
アランはルカの肩にそっと手を置いた。
「リディアは大切な人だ。……それは君も分かっているだろう」
「……わかってる」
「でも、君も大切な友人だよ。だから――本音を言ってほしい」
逃げ場はなかった。
背中は壁。目の前には、灰青の瞳。
心臓は暴れ馬のように跳ね続ける。
(……あーーーもう!!!)
自分で自分に悪態をつく。
そして、ようやく――。
「……もし、俺が」
喉が掠れる。唇が震える。
「“アイツが他の誰かと仲良くしているのを見たら嫌だ”と……そう思っていたら」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が焼けるようだった。
「それは……、恋、なのか……?」
それは、負けを認めるような声だった。
アランが息を呑む気配がする。
ルカは、視線を上げられなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、アランが静かに口を開いた。
「……ルカ」
「……んだよ」
「それを、私に聞くのは……残酷だよ」
静かな声だった。 けれど、その一言が一番重かった。
(……ああ。本当に、最悪だ)
ルカは、笑うこともできなかった。
◆
ルカの問いが、胸の奥で何度も反響していた。
『それは……、恋、なのか……?』
廊下から離れ、学院の中庭を歩きながら、アランは小さく息を吐く。
(どうして、俺に聞くんだ)
灰青の瞳が、空を仰ぐ。
(君がその言葉を口にした瞬間、誰よりも強く反応したのは、間違いなく俺の心臓なのに)
リディアが笑うたび、息の仕方を忘れそうになる。
紙に向かう横顔。
地図を睨む真剣な瞳。
差し出した書類に、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべる瞬間。
全部、愛おしくて仕方がない。
(……自覚しないふりをするのは、とっくに限界を超えている)
指先がかすかに震える。
(分かっていたさ。リディアは優秀で、努力家で、誰よりも美しい。誰かが好意を抱くのは当然だ)
だが――。
(よりによって、君なのか。ルカ)
胸の奥で、重い熱が渦を巻く。
嫉妬。
焦燥。
そして、名付けるのも苦いほどの劣等感。
自分の感情を押し込めていた理性が、みしりと軋む。
(……私は王太子だ。感情を優先してはいけない。分かっている。
けれど――)
頭では理解していても、心は従ってくれない。
その時だった。
「殿下ー……!」
軽やかな声が聞こえて、アランは振り返った。
「っ……リディア!」
少し息を弾ませて駆け寄ってきたリディアが、両手で大事そうに何かを抱えている。
「どうかなさいましたの? そんなに驚かれると、私が何かやらかしたみたいではありませんか」
「い、いや……君が急に現れたから、驚いただけだよ」
我ながら苦しい言い訳だった。
リディアは首をかしげ、手にしていた紙袋を誇らしげに掲げる。
「学院の購買で、季節限定の桜あんパンが買えましたの! 早く行かないと売り切れると聞きましたので、少し急いでしまいましたわ」
(かわいい……)
思考が、一瞬で砂糖漬けになる。
桜の塩漬けがちょこんと乗った、つぶあんパン。
彼女の頬が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいる。
「殿下もいかがです? とても甘くて、美味しいんですのよ」
パンを差し出す仕草が、無防備すぎる。
(かわいい……!!!) (かわいい……!!!!!!) (……落ち着け、俺!!)
アランは慌てて咳払いした。
「……その、甘いものの摂りすぎには気をつけた方がいいと思うけれど」
「政治の前では、糖分は必要ですわ」
即答だった。
誇らしげに言い切る彼女を見て、思わず笑いが漏れる。
(ああ、そうだ。こういうところも好きなんだ)
その時、ほんの少し離れた柱の陰で、誰かの気配が動いた。
ルカだ。
こちらを見ている。けれど、視線がぶつかると、そっと目を逸らした。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(……ルカ。君の気持ちが恋なら、認めるよ)
ルカが負けず嫌いなのは知っている。 だからこそ、半端な態度では向き合えない。
(けれど――)
アランは、静かに息を吸った。
(負けるつもりも、ない)
灰青の瞳が、静かに燃えた。
王太子としての理性と、ひとりの青年としての感情。
その両方を抱えたまま、彼は笑顔でリディアに言う。
「……じゃあ、ひと口だけ、分けてもらおうかな」
「ええ、もちろんですわ!」
リディアは、嬉しそうにパンをちぎった。
桜の香りが、春の風にふわりと漂う。
学院の中庭に、穏やかな時間が流れている。
――けれど、その足元では、静かに火の手が上がり始めていた。
誰かの恋と誰かの理性が、焼け落ちる前触れのように。




