第十五話・後編:罠は静かに笑う
夜の帳が、王都の路地を包み込む。
霧が灯火を曇らせ、遠くで鐘の音が一度だけ鳴った。
宰相府の執務室では、静寂が紙の音で破られていた。
「……“餌”は放たれたようです」
報告したのは近衛のレオン。
低く落ち着いた声に、アラン・セリーヌは視線を上げた。
「リディアの仕掛けか」
「はい。偽の帳簿を“黎明派の密偵”に流したとのこと。すでに向こうが動いた形跡があります」
「早いな」
「彼女らしいでしょう」
アランは手にした書簡を見つめた。
封蝋には王城の紋章――だが、その筆跡は彼女のものだった。
“現実を使うべきです”
たった一行の書き出しに、彼は思わず息を呑む。
(本当に、恐ろしいほどに冷静だ)
彼女は正義を語らない。
だが、盤上の駒をわずかに動かすだけで、王国の流れを変えてみせる。
誰よりも強く、誰よりも繊細に。
「殿下。彼女を止められるのは――」
レオンの声が僅かに震えた。
「止めるつもりはない」
アランは静かに首を横に振った。
「ただ……見届ける。
あの光が、どこまで届くのかを」
その横顔は、炎に照らされて金に光った。
彼の眼差しには、王族の理想ではなく、一人の少女への敬意が宿っていた。
政治という盤上の果てで、彼は気づき始めていた。
――彼女の決意を、もう誰も止められないのだと。
◇
一方その頃。
王都の裏通りは、昼とは別の顔を見せていた。
雨上がりの石畳は鈍く濡れ、足音を吸い込む。
リディア・アルヴェーヌは黒い外套のフードを深く被り、
小さな灯を頼りに進んでいた。
心臓の鼓動が早い。
恐怖ではなく、緊張のせいだ。
わずかな失敗が、全てを崩す。
その綱の上を歩くような感覚が、かえって彼女の心を研ぎ澄ませた。
(怖れてはいけない。恐れた瞬間、政治は感情に飲まれる)
角を曲がった先に、影が立っていた。
情報屋――エルデン。
闇を背に、片目を覆う髪の隙間から銀の瞳が光る。
「本当にやるとはね、お嬢様」
「取引の条件は変わらないはずよ」
「ええ。ただ……あなたが本気だとは思っていなかった」
エルデンの声には笑みが混じる。だが、そこに侮りはなかった。
リディアは革袋を差し出す。
中には“黎明派の偽の帳簿”。
帳簿の表紙に、わずかに付けられた傷――それが、罠の“印”だった。
「渡すだけでは足りません。あなたには“噂”を流してもらう」
「ほう、どういう筋書きで?」
「真実よりも、“信じたい虚構”を」
エルデンが息を呑む。
リディアの銀の瞳は、まっすぐに彼を射抜いていた。
「理想という言葉は、いつだって――人の心を麻痺させるの」
風が吹く。霧がわずかに晴れ、
遠くの塔の鐘が静かに鳴った。
その音が合図だったかのように、エルデンが口角を上げる。
「……承知しました。取引成立ですね、宰相候補殿」
その言葉に、リディアはわずかに瞳を細めた。
彼女の姿が闇に溶ける。
残された足跡だけが、濡れた石畳に淡く光った。
その夜、王都の闇は静かにざわめき始めた。
理想を掲げる者たちが、己の欲を“信念”と呼び始めた瞬間――
盤上の戦いは、すでに始まっていた。
◇◇◇
To be continued.
【後書き】
お読みいただきありがとうございます!
今回はリディアとアラン、そして新登場の情報屋エルデンが登場しました。
静かな会話と駆け引きの中に、少しずつ“盤上の火種”が見え始めています。
リディアにとって政治は戦場であり、理想を飼い慣らす術でもあります。
一方でアランは――彼女を見守ることで、自らの「王としての覚悟」を見つめ直していく段階に。
この二人の立場と想いのズレが、後々の展開でどう響くか……お楽しみに。
次回は少し緊張が緩む閑話予定。
(紅茶論争の裏で、密かに動く誰かの“本音”も……?)
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