第百四十一話:間に合わないかもしれない
廊下を、走る。
息が上がる。
それでも、止まらない。
(……今なら)
思う。
はっきりと。
(……言える)
もう、迷わない。
逃げない。
そう決めた。
角を曲がる。
視界が開ける。
その先。
見慣れない人影がある。
複数。
整った立ち姿。
上質な衣装。
そして。
その中心に。
(……)
足が、止まる。
アランが、いた。
正面に立っているのは。
見知らぬ令嬢。
年の頃は、同じくらい。
落ち着いた佇まい。
気品ある所作。
隣には、控える侍女。
少し離れて、見守る家臣。
(……顔合わせ)
頭の中で、言葉が重なる。
さっき聞いたばかりの。
王命。
「……」
動けない。
声も、出ない。
アランが、何かを話している。
表情は、穏やかだ。
王太子として。
完璧な立ち居振る舞い。
隙がない。
迷いがない。
(……違う)
思う。
でも。
遠い。
令嬢が、微笑む。
静かに。
丁寧に。
その距離は。
自然で。
適切で。
何も問題がないように見える。
(……間に合わなかった)
その言葉が、浮かぶ。
ゆっくりと。
確実に。
胸の奥が、冷える。
さっきまでの熱が。
嘘みたいに。
(……遅かった)
もう。
選ばれている。
もう。
決まっている。
視線を、逸らす。
見ていられない。
見たくない。
それでも。
一瞬だけ。
目が、合う。
青灰色。
「……っ」
息が止まる。
アランの目が、見開かれる。
一瞬で。
明らかに。
「……リディア」
声が、届く。
はっきりと。
だが。
足が、動かない。
逃げるべきか。
残るべきか。
分からない。
ただ。
その場に、立ち尽くす。
それしか出来ない。
風が、通る。
静かに。
すべてを、揺らしながら。
足元が崩れる。
力が抜ける。
そのまま、膝が落ちる。
「……っ」
視界が揺れる。
(……遅かった)
その言葉だけが残る。
「……リディア」
声が近づく。
足音が早まる。
アランだ。
「大丈夫か」
すぐ傍まで来る。
手を伸ばしかけて、止まる。
触れていいのか、一瞬迷うように。
「……」
答えられない。
顔を上げられない。
「……殿下」
別の声が入る。
落ち着いた、柔らかな声音。
「その方は……?」
ゆっくりと、視線が向けられる。
侯爵令嬢ギーゼロッテ。
整った微笑み。
崩れない所作。
「お加減が優れないようでしたら、控え室へお連れした方がよろしいのでは?」
一見、気遣い。
「このような場所で、殿下のお時間を取らせるのも、如何なものかと」
丁寧に。
静かに。
線を引く。
「……」
空気が変わる。
アランの視線が動く。
「……問題ない」
低く言う。
「この者は」
一拍。
「私が見る」
迷いはなかった。
「……」
ギーゼロッテの笑みが、ほんの僅かに揺れる。
「――何事だ」
低い声が落ちる。
場が静まる。
国王だった。
状況を一目で把握する視線。
無駄がない。
「……アラン」
「は」
「その令嬢を好いているのか」
逃げ場のない問い。
沈黙は一瞬。
「……はい」
迷いはなかった。
「私の想い人です」
空気が止まる。
「……まだ、返事は貰えていませんが」
続ける。
誤魔化さずに。
「……」
リディアの呼吸が止まる。
その言葉が。
そのまま。
胸の奥に落ちる。
もう。
逃げ場は、なかった。




