だらしない探偵に髪を乾かされました。最悪です。
熱風が後頭部に当たる。
大きな手の指先が、ゆっくりと僕の頭皮をかき分けるように撫でる。
心臓がにわかに音を立てて、僕は唾を飲み下した。
──あの後。
濡れた服は、事務所にあった予備の自分のシャツに着替えた。
「相変わらず用意周到だねえ。いつの間に用意したの?」
「橋田さんが寝てる間です」
「そう。ま、それぐらい馴染んでくれてるってことなんだろうけど」
「馴染んでません。これぐらいの準備、普通です」
淡々と返せば、橋田さんは僕の頭に目をやった。
「髪、濡れてんな。乾かしてやるよ」
「……っ、いらないです」
「その足でか?」
ぐ、と声に詰まった。
「足、ドライヤーに関係ないじゃないですか」
「まあまあ、怪我人は大人しくしてろって。ここは俺に任せろ」
反論したかった。でも、さっきの橋田さんの優しい手つきを思い出すと、息が止まった。口を開きかけて、結局、閉じる。
──そんな訳で、今。
僕は橋田さんに、ドライヤーで頭を乾かされている。
熱風が僕の後頭部を通り過ぎ、頭頂部に当たった。
指先が、僕の髪をなぞるように慎重に動かされる。
──怪我の手当ての時と同じだ。
普段適当なくせして、こういうときだけ妙に丁寧だ。
僕は唇を引き結んだ。ドライヤーの熱さのせいなのか、耳が熱を持っている。
ふいに手が頬の端に触れ、僕はびくりと体を震わせた。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃったか?」
「いえ…………」
口から出た声は、ドライヤーにかき消されるぐらいかぼそかった。
ドライヤーが、止まる。静寂に包まれた。
無音になった瞬間、橋田さんと距離が近かったことを思い出して、僕は瞬きした。
橋田さんはなにも言わなかった。ただ、その手をそっと僕から離した。それがなんだか僕の心をきゅっと締めつけて、僕は唇を噛む。
「はい、終わり」
そう言って、橋田さんは僕から離れ、あくびをしながら普段通りソファにだらりと寝転んだ。
うるさい心臓を静められない僕だけを残して。
翌日。
足の調子がだいぶ良くなっていた僕は、少し足を引きずりながら、いつも通り事務所に出勤していた。
目の前には、今回の依頼人。
30代前半だろうか。几帳面そうな顔つきに黒縁の眼鏡をかけて、腰までの長髪を一つ結びにしている。オフィスカジュアルというのだろうか、白いシャツに茶のパンツ、黒のパンプスを履いている。
山本弥生と名乗ったその人は「改めて」と前置きし、話を切り出した。
「実は、母から支配的な行動を受けていて……警察に、ちゃんと動いてもらえるだけの証拠を集めたくて、お願いに来ました」
「支配的な行動、か」
橋田さんが珍しく口を開く。前のめりになって、両膝に両肘をつき、胸の前で手を組んでいる。
「はい。いわゆるモラハラ……というんでしょうか。日常的に暴言を吐かれたり、スマホを勝手に見られたり、外出先まで確認されたりします。通帳も母に取られていて、勝手にお金を引き出されたこともあります」
山本さんは、膝の上で指を握りしめた。
それを見た橋田さんが、一瞬、黙った。気遣うように、そっと。
「一度、警察にも相談したんです。でも、家族間のことだから、今すぐ事件としては動けないと言われて……。録音や出入金の記録みたいな、具体的なものがあれば話が変わるかもしれない、と」
「それで、証拠集めを」
「はい。今回は、母に知られないように、こっそり貯めたお金で来ました」
そこで山本さんは固い表情のまま、口を開いた。
「まあ、大したことないんですけど。慣れっこですし」
言葉とは裏腹に、山本さんの目元が引きつっているのを僕は見た。
橋田さんは無言でお茶を依頼者のもとに押しやった。
「……ありがとう、ございます」
山本さんはお礼は言ったが、お茶に口をつけなかった。
「飲めよ。少しはあったまるぞ」
ぶっきらぼうな口調で、橋田さんは机をトントンと叩いた。
──まただ。あの時と同じだ。
その姿を見たとき、一昨日の自分への怪我に対する手つきを思い出した。胸がざわつく。
その手を見た瞬間、昨日のことが蘇ってきた。 濡れた髪をかき分ける指。妙に熱を持った耳。頬の端に触れたあの指先。何も言わずに、僕の髪を乾かしていた手。
その手が、今は山本さんにお茶を勧めている。僕は唇をぎゅっと噛みしめた。
別に、橋田さんが誰に優しくしようと関係ない。
でも、どうしてか胸のつかえが取れなくてしょうがなかった。
声が喉に詰まる。『お茶、淹れ直しましょうか』言いそびれた。なぜかは分からない。僕はただ、浅く息を繰り返した。
依頼人が帰ったあと。
橋田さんは、僕を見て面白そうに唇を吊り上げた。
「ふうん、ワタル、そういう反応するんだ」
「そういう……って、どういう意味ですか」
「いや、別に。そのままの意味だよ。ワタル、顔に出過ぎ」
慌てて顔を触る。何が面白いのか、橋田さんはにやにやと僕を見つめている。
「何がですか。言ってください」
「その複雑な感情、分かるよ〜」
「は?複雑な感情?ないですけど」
思わず反射的に言い返す。
「適当な橋田さんにイライラしてるだけです」
「イライラね……」
より橋田さんの口元がゆるくなった。
「言ってください」
橋田さんは答えない。
「さあな」
ただ、肩をすくめた。
無性に腹が立ってきて、僕は橋田さんを叩くふりをした。橋田さんは避けもせずに、笑って叩かれた。
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