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-《ゲノム・グレース》-

「まあ、今となっては逆に彼らには感謝しているよ。あの裏切りがなければ、僕は人族たちに余計な《感情》を持たせたまま計画を進めていた。僕の下で動いていた照も、最も重要な局面で寝返ったぐらいだ。不確実な要素を残すのはやはり好ましくない。だから、僕は脅威となる力を持ちつつ、《感情》を持たない者を造ろうと思った。そこで目を付けたのが《覚醒》だ」


 竜人に大きな心理的負荷がかかった時、それが発現することは自身も理解していた。わずかでも力の行使に迷いがあれば、すぐにコントロールが効かなくなる恐れが今もある。それほどまでに人の情緒と密接に結びついているものを、楼玄が放っておくはずがない。


「その仕組みを紐解いたところ、《覚醒》状態の竜人は遺伝子情報がより凶暴性の強いものに切り替わるという事実が分かった。それを踏まえ、僕は大きな力の引き金が引かれた時、理性が優先されるように遺伝子の改良を重ねた。そこで生まれたのが、人族が一定以上の戦意を持った場合にそれを自動的に喪失する遺伝子――《ゲノム・グレース》だ」

「……貴様がノーバディで行っていた研究の目的は、単に竜人を《覚醒》させて戦力を得ることではなく、人族の感情を失わせることだったのか」

「その通り。従来とは違った形で《覚醒》を制御できる個体は、《ゲノム・グレース》を人族に適合させる術を生み出す研究の“副産物”でしかない。ここでの研究においても、被験体の中心は魔力を持たない人族だった。ただ、興味深い発見もあってね。実は《ゲノム・グレース》を得た人族が、後天的に付与された魔力を使う際、《覚醒》した時と同様に《感情》が希薄化するという結果が出たんだ」


 不意に天音から聞いた話が脳裏に蘇る。確か、彼女は「澪が魔法を発動させる度にずっとおかしな音がする」と言っていた。それに言及された澪が大きな反応を見せたことも記憶にある。もし彼女が特定の遺伝子を持つ個体を識別できると気付かれれば、真っ先に始末される。澪は既にその情報を楼玄に伝えたのだろうか。青ざめる自分を前に、楼玄が続けた。


「ここで生み出された個体は僕の理想に適していると判断した。さすがに力量は輝月や大佐にこそ劣るが、《ゲノム・グレース》による制御可能な《覚醒》を得た個体――《粛清者》を複数投入すれば、各武力組織の制圧もそう難しくない。争いの中で力を使い果たした者は自我を失っていく。最後には戦う理由すら持てなくなるゆえ、どれだけ力を有していたとしても、自ら武力を発揮しようとは思わなくなるだろう」

「……貴様はそれで満足かもしれない。だが、その理想のために望まない力を与えられた挙句、人の心を失っていく澪のような者は世界から見放される。それを誰が救ってやれるというんだ!」

「勘違いしないでほしいが、感情の喪失は段階的なものだよ。通常なら力を使い過ぎなければ人としての情緒を完全に失うことはない。これはあくまで武力に通じる衝動を得た際に、自制させるための仕組みだ。もちろん、それができなければ強制的に感情を奪い、被害拡大を防止する機能は持たせているが」

「澪は完全に影響を受けている。あれだけの力を行使すれば、今に感情を失ってもおかしくない」

「まあ、感情の喪失は不可逆的なものだからね。ただ、僕が彼を無理矢理に引き込んだ訳ではない。本人が『《心》を持っている方が辛い』と訴えてきたから、望み通りに死を遠ざけるための力と、不要な物を引き換えにしてやっただけだ。他の被験体と同じく、無力ゆえに全てを失った彼にとって、苦しみだけを生む《感情》を無くしていくことは、救いそのものなのさ」


 牙雲は力なく首を横に振った。本部で衝突した時、彼は常に焦燥に駆られているように見えた。独房で話した時は、戦争が終わらない限り、怯えて生きるしかないのだとも言っていた。そうして理不尽に突きつけられた選択は、彼が本当に望んだ物だったのだろうか。


「《ゲノム・グレース》の定着は、竜人と人間での成功事例が確認できている。他の人族でも遠くないうちに実現できるだろう。それらを別の人族と交配させたり、効率的に肉体へ埋め込む仕組みが整えば、短期間で全ての人族にその遺伝子を広められる。特に争いを知る前の子供は徹底的に保護し、武力は他や己を滅ぼすものだという“教育”を早期に施さなければならない。後は武力に関する知識をすべて破棄すれば、力の行使は選択肢にも挙がらなくなる。そうして“争い”という概念そのものが排除された世界――そんな理想郷があと少しで実現するんだ!」


 彼の中では既にこの世界を、人族そのものの在り方を作り変える算段が立っている。争いを止めるためだけに人が持つ一切を破壊するなど、種の淘汰と何が違うのか。しかも、気味が悪いのは彼が支配や蹂躙を目的としている訳ではないことだ。この苦難に満ちた世界を救うため、彼はその慈悲深さからある種の狂気めいた浄化策を推し進めようとしている。


「貴殿にもやっと世界の真実が見えてきただろう? まだ水神家の使者は部屋に残している。ここで貴殿が僕たちの提案を受け入れてくれれば、家に帰してあげるよ。ただし、軍と確実に手を切ってもらうため、貴殿にも《ゲノム・グレース》を埋め込んでもらう」

「それで俺の意思を制御し、水神家の血筋も染めるつもりだな」

「どうせ争いには関わらないから問題ないだろう? 当面は貴殿らの自治も認めるし、何かあれば我々が戦闘を担う。必要なら周辺の民間人に限って水資源の提供も許そう。交渉の答えを改めるのなら、これが最後の機会だ」


 牙雲はゆっくりと顔を上げた。差し伸べられた手に思う。相手の言う通り、水神家を二度と戦火へ巻き込まずに済むのならば、自分自身の目的は達成できるだろう。“争いの火種”を守るために戦うという二律背反の役割からも解放される。しかし。



『そろそろ自分の身は守れるようになってきたんで。今度は少佐の背中を任せてください』



 相手の右耳にある黒環があの約束を蘇らせた。反射的に目の前にある手を振り払うと、楼玄が翠の瞳をすっと細めた。


「そう、か。貴殿の口添えがあれば、彼らとも良い関係を築けると思っていたのだが」

「……貴様の話も理解できる部分はあった。軍の上層部に後ろ暗い過去があったことも、全て偽りだと断じ切ることはできない。だが、俺が自分自身を失えば、俺の気持ちを理解して送り出してくれた郷の者や、軍で支えてくれた皆を裏切ることになる。そして、この生き方に憐みを抱くのは、貴様の勝手でしかない」


 武力では何も解決しないという楼玄の思想は、確かに正しいのだろう。しかし、彼の言う世界が本当に実現すれば、人族は自我を抑圧しながら一生を過ごすことになる。心を失う恐怖を無理矢理に植え付けられた人族が、本当の平穏を手にできるとは思えない。抗えもしないままに自分の想いが消えていくのは、紅葉や他の者も望まないだろう。この戦いは、もはや水神家のためだけではなくなった。


「彼らが託してくれた想いの全てが、今の俺にとっての生きる意味だ。だからこそ、俺は自らの手でやるべきことを果たす」


 握り締めた拳と共に睨んだ仇の顔は、存外穏やかなものだった。

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