第2話 報酬のない仕事
報酬のない仕事に命を懸ける馬鹿は、一人くらいいる。
夜明けに村を出た時、ルカは本気でそう思っていた。
昼前に町へ着き、十七人に断られた頃には、その一人が神話の生き物に思えてきた。
「敵は何人だ?」
「分からない。でも、黒狼騎士団の――」
「次」
一人目は、黒狼の名を聞いただけで話を打ち切った。
「前金は?」
「ない」
「成功報酬は?」
「村を守れたら、食事と寝床は――」
「次」
二人目は、まだ説明の途中だった。
「若い女は何人いる?」
三人目の問いに、ルカは椅子を蹴って立った。殴りかかる前に酒場の主人から首根っこを掴まれ、戸口の外へ放り出された。
石畳へ両手をつく。
腰の短剣が鞘の中で情けなく鳴った。
町は人で溢れていた。
市場には干し肉、布、薬、武具が並び、荷馬車が通るたびに泥水が跳ねる。けれど、活気の半分は戦争が作ったものだった。宿の軒下には故郷を失った家族が眠り、広場の隅では片腕の兵士が古い勲章を売っている。
人が多いから、助けも多いと思っていた。
実際には、人が多いほど、誰か一人の絶望は小さく見えた。
「エルム村を三日だけ守ってほしい!」
ルカは酒場を替え、通りでも叫んだ。
「食料を奪われれば百八十人が冬を越せない! 剣を使える人を探してる!」
足を止める者はいた。
黒狼の名を出すと、皆、先を急いだ。
傭兵らしい男が一人、面白がって訊いた。
「村一つなら、家と畑を担保にすりゃいい。生き残った後で払え」
「畑を渡したら、何を守ったことになるんだ」
「傭兵に哲学を聞くな。相場を聞け」
男は笑い、仲間と去っていった。
その後、一人だけ、最後まで話を聞いた男がいた。左脚を引きずる年嵩の傭兵で、黒狼の名を聞いても逃げなかった。村の人数、子どもの数、井戸の場所まで訊き、しばらく考えた末に首を振った。
「悪いな。俺にも十二になる娘がいる」
「うちにも同じ年の子がいる」
「だから行けないんだ」
男は古びた銅貨を一枚、ルカの掌へ置いた。
「パンを食え。空腹のまま頼むと、断られた恨みだけが残る」
金がないからではなく、守りたい相手がいるから断る者もいる。
それを卑怯とは呼べなかった。呼べないことが、ルカにはつらかった。
相場。
命にも、村にも、春にも値段がある。
エルム村が払える額は、どの棚にも載っていなかった。
◇
日が傾き始めた頃、ルカは最初の酒場へ戻った。
断られた場所へ戻るのは恥ずかしい。だが、町中の酒場を回って分かった。傭兵が最も多いのはここだ。そして、今夜中に誰かを見つけなければ、明朝に村へ向かっても襲来まで一日しか残らない。
戸を開けると、笑い声が上がった。
「無料の英雄様がお帰りだ!」
「村から美人を連れてきたか?」
ルカは奥歯を噛み、掲示板の前へ立った。
羊皮紙の裏へ、炭で依頼を書き直す。
エルム村防衛。
期間、三日。
敵、黒狼騎士団。
報酬――。
手が止まった。
金貨なし、と正直に書けば、誰も読まない。
嘘を書けば、連れて帰った後で逃げられる。
「報酬は、村人百八十人の命」
背後から誰かが読み上げた。
「ずいぶん高価だな」
振り返る。
壁際の暗い席に、一人の男がいた。
声をかけてきた赤鼻の傭兵が、ルカの背負い袋へ手を伸ばした。
「報酬がないなら、持ってる物を売れよ。麦なら酒一杯には――」
次の瞬間、男の手首が卓へ縫いつけられていた。
壁際の男は座ったまま、空になった木杯の底で手の甲を押さえている。力任せには見えない。それでも赤鼻の男は顔を歪め、指一本動かせなかった。
「他人の種に触るな」
静かな声だった。
木杯が離れると、赤鼻の男は悪態を吐きながら退いた。周囲は笑わない。壁際の男が、騒ぎを起こす価値さえないと判断してくれたことを知っているらしい。
二十代の半ばほど。黒髪は無造作に伸び、灰色の外套は雨と泥で色を失っている。腰には長剣が一本。柄巻きは擦り切れ、鍔の近くにあった王国の紋章は、刃物で削り落とされていた。
高価な鎧も、勲章もない。
なのに、男の周りだけ座席が空いていた。
「あなた、傭兵か?」
「今はな」
「剣は使える?」
「その質問をする相手の剣は、たいてい使えない」
男はルカの腰を見た。
図星だった。
「俺は戦うんじゃない。戦える人を――」
「村までの道は?」
唐突な問いだった。
「北門から山道を半日。荷車なら一日」
「入口は何本」
「街道が一本。森の獣道が西に二本。南に小川がある」
「水深」
「今は膝くらい。でも水門を開けば――」
「防柵」
「牛を逃がさない程度の柵しかない」
「戦える人数」
「五十……四人。たぶん」
「弓は」
「狩人が三人。弓は十張りくらい」
「黒狼の兵力」
「分からない」
「襲来まで」
「あと二日」
男は卓上に指で線を引いた。
一本目が街道、二本目が小川、三本目が村の柵なのだと、ルカにも分かった。
「騎兵が二十いれば、外柵は最初の突撃で破れる。歩兵が四十いれば、三方向から火を放てる。黒狼は元王国軍だ。農民五十四人を、五十四人の兵とは数えられない」
「でも、水路と森を使えば――」
「使う訓練に何日かかる」
「二日でやる」
「人は、追い詰められれば急に兵士になると思っているのか?」
「ならないのか」
「ならない。五十四人へ槍を渡せば、最初の怒号で二十人が固まり、十人が逃げ、残った者は逃げた家族を探して隊列を崩す。勇敢な者から前へ出て死ぬ。最後に残るのは、命令を聞ける者ではなく、運のよかった者だ」
まるで実際に見てきたような口調だった。
「それでも、何もしないよりは」
「何かをしたという満足のために、死者を増やすことがある」
声は冷たかったが、嘲笑はなかった。
それが、今日初めてだった。
ルカは男の卓へ近づいた。
「あなたなら、どうする」
「逃がせる者を逃がす。食料は焼く。敵に渡すくらいならな」
「種籾も?」
「村を捨てるなら、春は要らない」
「村を捨てられない人がいる」
「なら死ぬ」
あまりに迷いなく言われて、喉が詰まった。
「名前は」
ルカが訊くと、酒場の別の席から声が飛んだ。
「知らないのか、小僧」
赤鼻の傭兵が、酒杯を掲げる。
「そいつはアルヴァン・レイン。百人を生かすため、味方を置き去りにした敗軍の騎士だ。村一つ捨てる算段なら、そいつほど詳しい奴はいねえ!」
笑いが起きた。
アルヴァンは怒りもしなかった。
酒杯へ口をつける。その手が、ほんのわずかに止まっただけだ。
敗軍の騎士。
村長から聞いた名と一致した。
ルカの背負い袋の中で、種籾と指輪が重くなった。
「探してた」
「人違いだ」
「アルヴァン・レインだろ」
「その名の男は、騎士を辞めた」
「騎士じゃなくてもいい。村を――」
「断る」
「まだ頼んでない」
「今から頼む顔をしている」
アルヴァンは立ち上がった。思ったより背が高い。卓の脇に立てかけていた剣を腰へ差し、銅貨を一枚置く。
「報酬のない仕事は、善意ではなく他人の罪悪感で払う。俺はもう、そういう借金を増やさない」
「百八十人が死んでも?」
「今日、この町の門前には三百人の難民がいる。西の街道では、もっと多くが飢えている。俺が全員のところへ行かなければ、全員を殺したことになるのか」
言い返せない。
けれど、エルム村の百八十人には顔がある。少女が握った一粒の麦がある。ルカにとって、それは遠くの三百人より重かった。そんな自分を正しいと言い切ることもできなかった。
「俺が行かなければ死ぬのか」
「分からない」
「なら、俺が行っても同じだ」
男は戸口へ向かった。
ここで帰せば、次はない。
ルカは背負い袋を下ろし、アルヴァンの前へ回り込んだ。
「金はない」
「知っている」
「名誉もない。王国は助けないし、勝てる保証もない」
「説明が上手くなったな」
「でも、村には春がある」
アルヴァンの目が細くなる。
「未来を人質にする気か」
「違う。これを渡す」
ルカは麻袋を差し出した。
「村で残った、一番いい種だ。報酬には少ない。でも、一粒から何本も穂が出る。守れたら、来年は――」
「馬鹿か」
初めて、アルヴァンの声に怒りが混じった。
「守るための種を、守る者へ食わせてどうする」
「食べるんじゃない。預けるんだ」
「同じだ。未来を差し出して、未来を守れと言っている」
アルヴァンが袋を押し戻す。
結び目が、昼間から何度も開け閉めしたせいで緩んでいた。
袋がルカの腕から滑る。
小麦が床へ散った。
黄金色の粒の間を、銀色の輪が転がっていく。
酒場の灯を一度だけ反射し、アルヴァンの靴先へ当たって止まった。
男の動きが止まる。
笑っていた傭兵たちも、なぜか声を失った。
アルヴァンは膝をつき、指輪を拾った。
折れた剣へ雨が降る、小さな紋章。
内側の文字を確かめる指が震えた。
「どこで、これを」
「七年前、傷ついた兵士が村に持ってきた。種籾を守って死んだって」
「兵士の名は」
「エリアス」
アルヴァンの顔から、血の気が引いた。
「それは――」
握りしめた指輪が、骨へ食い込む。
「七年前に死んだ、俺の弟の指輪だ」




