第1話 最後の種籾
春に撒くはずだった種を、王国兵は今日の昼飯として袋へ詰めた。
「じゃあ、春は?」
荷車のそばで、六つか七つの少女が訊いた。
誰も答えなかった。
答えられるはずがない。穀倉の床に広げてあった黄金色の粒は、冬を越すための食料であると同時に、来年の畑を生む種だった。それを灰色の軍服を着た兵士たちが、革靴で踏み、木の升で量り、王国印の袋へ移している。
戦時特別徴税。
そう書かれた羊皮紙を掲げれば、略奪は法律になるらしい。
徴税隊長が命令を読み上げようとした時、風を裂く音がした。
黒い矢が、穀倉の扉へ突き刺さった。
兵士たちが一斉に盾を上げる。矢羽根は鴉のように黒く、軸には獣脂を染み込ませた紙が巻かれていた。紙を留める封蝋には、牙を剥いた狼の横顔が刻まれている。
徴税隊長の顔色が変わった。
「黒狼……」
その名だけは、山あいの小村にも届いていた。
王国軍から離反し、各地の村から穀物を奪って回る精鋭騎士団。逆らった村は焼かれ、逃げた者は冬の街道で凍る。だが、気まぐれに人を殺す盗賊とは違い、収穫を渡した村には手を出さないとも聞く。
だからこそ、恐ろしかった。
彼らは怒りで奪うのではない。必要だから奪う。
村人が泣こうが、子どもが飢えようが、必要な量を正確に持っていく。
隊長が紙を剥がし、目を走らせた。
「何と書いてある」
村長が問う。
隊長は答えず、紙を丸めて懐へ入れた。
だが、ルカは見た。
大きく書かれた文字を、三つだけ読めた。
三日後。
残り全部。
種籾まで。
「収穫量の半分だ。畑ごとの申告に不足があれば、家畜で補う」
徴税隊長が読み上げた。
村の広場には、収穫祭のために結んだ赤い布がまだ揺れていた。焼きかけの平パンの匂いも残っている。ほんの半刻前まで、今年はどうにか冬を越せると、皆が笑っていたのだ。
ルカ・ベルンは、その笑い声が遠い昔のものに思えた。
「待ってくれ」
ハーゲン村長が、杖をついて兵士の前へ出た。
「税は納める。だが、その袋は種籾だ。あれまで持っていかれたら、来春に撒くものがなくなる」
「来春?」
徴税隊長は、ひどく面白い冗談を聞いたように口元を曲げた。
「王国が残っていれば、春も来る。お前たちの種は、前線の兵を今日生かす。兵が生きれば、王国が明日を守る。順番を間違えるな、村長」
「その王国は、今ここで村を殺している!」
叫んだのはルカだった。
広場の空気が凍る。
母親たちが子どもの肩を抱き寄せた。村長が制止するより早く、兵士の一人がルカの胸を槍の石突きで突いた。
息が潰れ、背中から土へ落ちる。
「王国への反逆か?」
兵士は笑っていた。槍先ではなく石突きを使ったことを、慈悲だと思っている顔だった。
ルカは咳き込みながら立ち上がった。
鍛冶屋に頼んで作ってもらった短い剣が腰にある。騎士になる日のために、毎晩、納屋の裏で振ってきた剣だ。
柄へ手を伸ばす。
けれど、指が触れる前に村長の杖が腕を叩いた。
「抜くな」
「でも――」
「一人斬れば、村が焼かれる」
低い声だった。
ルカにも分かっていた。分かっているから、なおさら悔しかった。
正しいことをするには力がいる。
力がない者は、正しい怒りさえ選べない。
「おい」
ルカは荷車の前へ立った。
「黒狼が来るなら、あんたたちは残るんだろ。王国の兵なんだ。村を守るのが――」
「出発する!」
隊長が怒鳴った。
兵士たちは返事もせず、袋を積み終える。さっきまで威張っていた男たちが、森の影を恐れるように周囲を見回していた。
「待て! 残りの麦を取られたら、俺たちは――」
「管轄外だ」
隊長は馬へ乗りながら言った。
「黒狼は王国の正規軍ではない。討伐要請は代官所を通せ。返答にはひと月ほどかかる」
「三日しかない!」
「なら、二十七日待たずに済むな」
笑い声を残し、徴税隊は村を出ていった。
荷車の轍から、踏み潰された小麦がこぼれていた。
少女が一粒ずつ拾い始める。
誰も止めなかった。
やがてルカも膝をついた。土に埋もれた粒を指先で拾い、少女の小さな掌へ戻す。
「これ、撒けば麦になる?」
「ああ。一粒から、たくさん穂が出る」
「じゃあ、春はある?」
昼間と同じ問いだった。
少女の母親が、謝るように娘の肩を引いた。夫は二年前に徴兵され、戻っていない。母娘が耕す畑は狭いが、今年はよく実った。徴税隊は畑の持ち主など確かめず、同じ升で全部を量っていった。
ルカは少女の掌を閉じさせた。
「なくさないでくれ。春まで」
「うん」
約束を口にする勇気はなかった。
それでも少女は、一粒の麦を宝石のように握りしめた。
◇
夕刻、広場の鐘が鳴った。
祝いの鐘ではない。火事や狼を知らせる、低く濁った音だった。
人口百八十人のエルム村で、槍を持って立てる者は五十人ほどしかいない。その五十人も、兵士ではない。土を掘る腕はあっても、人を刺したことのある者はほとんどいなかった。
「森へ逃げよう」
「年寄りと赤子を連れてか?」
「南の村へ行けば――」
「先月焼かれた。北の宿場は難民を門前で追い返している」
「麦を渡せば殺されないんだろう」
「麦がなければ冬に死ぬ」
「ここで戦えば今日死ぬ!」
礼拝堂の前で、声がぶつかり合う。
村長は穀倉番から受け取った帳面を開いた。
「徴税で半分を持っていかれた。残った量を切り詰めても、全員で冬を越せるかは怪しい。黒狼へ渡せば、十日分も残らん。種籾を失えば、春を迎えても畑は空だ」
「では、どうする」
誰かが問うた。
村長は答えなかった。
沈黙の向こうで、子どもが泣き始めた。
ルカは腰の剣を握った。昼間、抜けなかった剣だ。
騎士なら、こんな時に何をするのだろう。
王都から白馬で駆けつけ、悪党を斬り、村人へ「もう大丈夫だ」と告げる。幼い頃に聞いた物語では、いつもそうだった。
父が徴兵される前、ルカへ一本だけ木剣を削ってくれたことがある。「騎士は剣が強い者じゃない。皆が逃げる時に、一歩だけ前へ出る者だ」と言った。父は前へ出たまま帰らなかった。だからルカは、その言葉が正しかったのか、今も分からない。
だが現実の騎士は、種籾を袋へ詰めて去った。
ならば、物語の続きは誰が作る。
「町へ行く」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
皆がルカを見る。
「傭兵を探す。黒狼と戦える奴を連れてくる」
「何を払う」
粉挽きの老人が、責めるのではなく確かめるように訊いた。
「金貨は徴税のたびに消えた。麦を報酬にすれば、守る意味がなくなる」
「それでも探す」
「報酬のない仕事に、命を懸ける馬鹿がいるものか」
「一人くらいいるかもしれない」
「いなかったら?」
ルカは答えに詰まった。
いなかったら、自分が戦う。
そう言いかけて、昼の光景が蘇った。槍の石突き一つで息もできなくなった自分が、百人を超える精鋭へ何をできる。
英雄になりたい、という願いと、英雄ではない、という事実が胸の中で噛み合わない。
それでも黙れば、三日後が来る。
「いなかったら、いないと分かった上で戻る」
ルカは言った。
「逃げるにしても、渡すにしても、戦うにしても。何もしないまま三日を食われるのだけは嫌だ」
村長が、長く息を吐いた。
「夜明けに出ろ。町まで半日、探す時間を入れれば、戻れるのは明日の夜だ」
「分かった」
「ついてこい。渡す物がある」
◇
村長が連れていったのは、徴税隊が荒らした穀倉だった。
床には小麦の粉と泥の足跡が残っている。村長は一番奥の壁板を外し、小さな麻袋を取り出した。
「これだけは隠した。畑一枚にも足りんが、絶やしてはならん種だ」
「傭兵への報酬にするのか?」
「馬鹿を言え」
村長は袋の口を開き、指を差し入れた。
小麦の中から現れたのは、くすんだ銀の指輪だった。
宝石はない。表面には、折れた剣へ斜めの雨が落ちるような、小さな紋章が彫られている。内側には細い文字で、名前が刻まれていた。
ELIAS。
「七年前、ひどい傷を負った若い兵がこの村へ辿り着いた」
村長は指輪を掌に載せた。
「追ってきた脱走兵から、この穀倉と種籾を守って死んだ。最期に、兄へ返してほしいと頼まれた」
「兄の名は?」
「アルヴァン・レイン。元王国騎士だ。今は北の町を流れていると、先月の行商人から聞いた」
元騎士。
その言葉だけで、胸の奥に小さな火が灯った。
「その人なら、黒狼に勝てるのか」
「知らん」
村長は即答した。
「立派な人間かどうかも知らん。弟を死なせた男だと、あの兵は言っていた」
灯った火が揺れる。
「そんな奴を、どうして」
「立派な人間が来てくれるなら、そちらを探せ」
村長は指輪を種籾の袋へ戻し、口を固く結んだ。
「だが、金のない村へ来るには、金ではない理由が要る」
袋をルカへ押しつける。
手の中で、種と指輪が小さく鳴った。
「この紋章の男を探せ。村を救えるかは分からん」
村長は、空になりかけた穀倉を見回した。
「だが、ここへ来る理由はある」




