序章 刀剣世界
日下部慎吾は図書館でとある本を探していた。彼の通う谷崖高校では、社会の夏休みの課題として「身近な言い伝え」や「伝説」について調べてくるよう言われていたのだ。
「……ほんっと、考えたの誰だよ」
あまりにも子供じみている。「言い伝え」ましてや「伝説」など、慎吾の生活とは無縁に思える。
もちろん彼に真面目に取り組む姿勢はなかった。適当な本を見つけたら、適当に帰って、適当に課題を終わらせる。それだけのはずだった。
彼自身が数分後に、「伝説」に直面することになるとは、まだ知らずに。
図書館を出ると真っ直ぐに家へ向かった。
「…………退屈な人生だ」
思わず独り言を呟く。慎吾にとって独り言は、自分の気持ちを落ち着かせる合図であった。
ふと、自分が何者なのか考えてみる。自分という存在はなんなのか――そんなことを考えていると、「世界」に入れることがある。普段客観視できない自分を客観視しているような、「世界」の境界。
信号待ちをしている時間すら退屈に過ごさないために、今日もまたその「世界」を手繰り寄せる。刹那、信号は青に変わり、慎吾は横断歩道に一歩踏み出す。
その時だった。轟音が聞こえてくる。すぐにそれは、信号無視して突進してくるトラックだと気がついた。
「……まずっ――!」
さらにその時。通行人と思わしき人が慎吾の元へ走ってきていた。恐らく助けようとしているのだ。だが――彼も身を滅ぼすことになるだろう。
それは駄目だ。自分のために誰かが死ぬのは駄目だ。自分にはそれほどの価値はない。
慎吾は、慎吾のことを助けようとした通行人を押し飛ばして、ただ鉄の塊を受け入れ、空中に舞った。
目が覚めた時、彼は自分の部屋にいた。
「――あれ?」
痛みは、ない。身体も、動く。だが、記憶はない。
「……夢?」
そんなはずはなかった。だとしたら――タイムリープでもしたのか。命の危機に瀕した時タイムリープをする体質の人がいると、以前本で読んだことがある。
直面し難い事実と向き合うしかない。彼は日付を探ろうと時計を探した。
「……ない」
時計はなかった。スマホもない。時刻を知ることができない。――不気味だ。
カーテンを開けてみた。外は真っ暗だ。
「……夜?」
にしては家族がいないのは不審だ。
思い切って外に出てみた。すると次々異変を目の当たりにした。
「なん……だよ、これ」
電柱がない。近くの公園に至っては、ベンチも街灯も時計も全てがない。ただの空間と成り下がっている。そして月もない。夏だというのに暗すぎる。
異変が起きた。少なくともここは慎吾の暮らしていた「世界」ではない。
「……死後の……?」
一番嫌な可能性が頭によぎる。死ぬことは構わないが――それによってこのような魔空間に幽閉されるのは何よりの恐怖だ。
だがその可能性は案外早く否定された。腹が減るのだ。自分は少なくとも、この世界では「生きている」。
「人……誰か!いませんか!!」
もしかしたら。この世界には時間が存在しないのかもしれない。だが人間の造ったものでさえ無くなっているのは――何故だ。それも中途半端だ。電柱やベンチはなくとも、家や道路は存在している。
「おい」
声がした。自分にかけられている声だ。だがどこにも人の姿はない。
「……誰」
「ここだ、ここ」
足元に小さな猫がいるのに気づいた。この猫が――人間の言葉を話している。
「――化け猫!!」
「何を今更。この世界では猫が喋るよりも摩訶不思議な出来事がたくさん起こるだろう」
「摩訶不思議……」
猫が訝しんでいる。そして、何やら意味ありげな表情をした。
「もしや……君、人間界の者か?」
「え……人間界?」
「やはりそうか。ここはな、人間界ではないのだよ」
ようやく状況が飲み込めてきた。だが脳は依然として受け入れるのを拒否している。
「……君、人間界で死んだだろう」
「……なぜ、それを」
「恐らく人間が人間界で死んだ時、一定の確率でこの世界に召喚されるのだな。今までにも人間界から訪れし者共はいた」
一定の確率と聞くと、ゲームかよ、と突っ込みたくなる。だがそんなこと言ってられない。この世界は本当にゲームの世界なのかもしれない。
「私は愛川千鶴。君の名は何だ?」
「日下部慎吾、です」
「人間界らしい艶のない名前だな」
嘲られているのはわかる。だが苛立っている余裕すらない。
「千鶴――さん。ここは一体どういう世界なんですか」
「どういう世界も何もない。君らの住んでいる人間界と似たようなもんだろう」
似たようなものと言うよりは、酷似し過ぎている。
「ただ違いがあるとすれば、二つだな」
唾を飲んだ。
「一つは時間の存在。この世界は常に夜だ」
最初から時間が存在しないというのなら、なぜ千鶴は時間の存在について言及できるのだろうか。疑問に思ったが、以前人間界からこの世界に転生した者から聞いたのだろうと勝手に納得する。
「もう一つ。この世界には――」
その時、ゴゴゴと大きな地響きがした。それに被さって、千鶴の声が途切れる。
千鶴はそれを察したのか、もう一度言ってくれるようだ。
「――この世界には、化け物が住み着いてる」




