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第6話 信秀の査定


 三度目の試みは、静かに始まった。


 俺とお鈴は台所の隅で向き合った。

 鍋、灰汁、麻布。道具は前と同じだ。

 違うのは、お鈴の目だ。


 前回は「見ておきたい」という目だった。

 今日は「完成させる」という目だ。


「火は私が見ます」


 お鈴が言った。


「任せる」


 市場の並塩を二合ほど、いったん水に溶かす。

 砂や濁りを沈め、上澄みだけを別の鍋に移す。

 そこへ灰汁を少しずつ加え、さらに麻布で漉した。


 澄んだ塩水だけを鍋に移し、弱い火で温める。


 お鈴は鍋から目を離さなかった。

 俺も離さなかった。


(前の二回は、ここで読み違えた)


 鍋の底から、白いものが固まり始めた。

 みぞれ状だ。

 水分は残っている。苦みのある液も、まだ落とせる。


(今だ)


「止めろ」


 お鈴はすでに火を引いていた。

 俺より早かった。


 麻布で漉す。

 苦みを含んだ液が、音もなく落ちていく。

 布の上に残ったものを、明かりにかざした。


 白かった。


 完全な雪のよう、とはまだ言えない。

 だが市場の並塩とは明らかに違う。


 茶碗に移すと、小さな山ができた。

 二合の並塩から、これだけの白塩が取れた。


 舌に乗せた。


 苦みが薄い。

 雑味が消えている。

 塩だけが、まっすぐ来る。


(できた)


 お鈴が隣で、小さく息を吐いた。

 それだけだった。

 ふたりとも、何も言わなかった。


――――――――――――――――――――――――


「いいか」


 俺はお鈴に言った。


「俺の名前は伏せろ。お前の工夫として、親父の膳に出せ」


 お鈴は少し考えてから頷いた。


「わかりました。ただし、料理はこちらで決めます」


「任せる」


 お鈴はもう一度頷いた。

 それから、少しだけ口の端が上がった。


(共犯者め)


 俺も、少しだけ笑った。


――――――――――――――――――――――――


 その夜、信秀は重臣たちと夕餉の席にいた。


 焼き魚が出た。

 白い塩が、薄く振られていた。


 信秀は箸をつけた。


 止まった。


(……ん?)


 もう一度、口に含んだ。

 塩の雑みがない。

 魚の脂の甘みだけが広がる。


 重臣たちは気づいていない。

 信秀は黙って吸い物の椀を手に取った。


 一口、飲んだ。


 目が動いた。


 出汁の香りが、いつもより澄んでいる。

 雑味が消え、椀の味がまっすぐ来る。


 信秀はしばらく椀を見ていた。

 それから静かに言った。


「……お鈴を呼べ」


 重臣たちが顔を上げた。

 信秀が食事の途中で台所の者を呼ぶことは、めったにない。


――――――――――――――――――――――――


 広間に呼ばれたお鈴は、重臣たちの視線の中で頭を下げた。


「見事な塩加減であった。何か工夫をしたか」


「はい。市場の塩を……少し整えまして」


「整えた、とは」


「灰汁を使ったものでございます。詳しくは、なかなか」


 重臣の一人が口を挟んだ。


「して、そのやり方は」


 信秀は手を上げてそれを制した。


「よい。下がれ」


 お鈴は深く礼をして下がった。


 廊下に出たところで、信秀の小姓が追いかけてきた。


「お鈴殿、少しよろしいか」


――――――――――――――――――――――――


 小姓に連れられた先は、人払いのされた一室だった。


 お鈴が先に通されて待っていると、しばらくして引き戸が開いた。

 信秀が一人で入ってきた。


 お鈴は平伏した。

 信秀は無言で座った。


 しばらく、何も言わなかった。


「誰の工夫だ」


 信秀が言った。


「厨房での工夫にございます」


「誰の、と聞いた」


 お鈴は平伏したまま、少しだけ間を置いた。


「あの塩は、吉法師様が厨房でお作りになられたものにございます」


 信秀は、動かなかった。


 長い沈黙だった。


「……そうか」


 それだけ言って、立ち上がった。


「下がれ」


――――――――――――――――――――――――


 深夜、俺は奥の間に呼ばれた。


 灯りは一本だけ。

 信秀が一人で座っていた。


「座れ」


 俺は座った。

 うつけの顔は、今夜は必要ない。

 父はそれを知っていて呼んでいる。


 信秀がしばらく俺を見た。

 視線が重かった。品定めの目だ。


「あの塩は、お前が作ったか」


「はい」


「材料は」


「市場の並塩、木灰、麻布」


「方法は」


「灰汁と火加減です。あとは目と、舌です」


 信秀は黙って聞いていた。


「それを、六つのお前が考えたか」


「港で、異国の商人から聞いた話をもとにしました」


「全部か」


「……大半は、自分で試しました」


 信秀はまた黙った。


 長い沈黙だった。

 俺は崩さなかった。


「お前は、これを何に使うつもりだ」


 ここからだ。


――――――――――――――――――――――――


「この塩の値打ちは、味だけではありませぬ」


「では、何だ」


「蔵に置けることです」


 信秀の手が止まった。


「市場の並塩には、苦みを持つ液が混じっています。あれが湿気を吸う。蔵に置けば置くほど湿り、溶け、扱いにくくなります」


「それを取り除いたのか」


「完全ではありませぬ。ですが、今の並塩より湿りにくく、長く置けます。兵糧、塩漬け、味噌。長く運ぶ食い物に使えます」


 信秀が体をわずかに前に傾けた。


「さらに、精製の技が尾張だけにあれば、白い塩は尾張の品になります。美濃へも、今川へも売れる。塩は味だけでなく、銭にもなります」


 信秀はしばらく何も言わなかった。


「……六つの子供の口から出る話ではないな」


「港をうろついていると、いろいろ聞こえてきます」


「いくら必要だ」


「銭だけでは足りませぬ」


「ほう」


「浜に近い空き屋を一つ。特注の釜と鍋を一組。並塩、薪、木灰、麻布を買う銭。それと、職人を四人」


「それで何を作る」


「一つの流れを作ります」


「流れ、か」


「はい。塩を溶かす者。漉す者。火を見る者。布で切る者。四人で一組です。まず一組を安定させます」


「それで足りるのか」


「試すには足ります。儲けを見るのは、それからです」


 信秀は灯りを見た。

 長く、見た。


(化け物を見る目だ)


 俺はそれを受け止めた。


「……三日後に来い。その白塩を持ってこい」


――――――――――――――――――――――――


 三日後の深夜、俺は再び奥の間に呼ばれた。


 懐に、茶碗一杯分の白塩を包んだ布がある。


「持ってきたか」


「はい」


 俺は布を開き、信秀の前に置いた。

 灯りに照らされた白は、市場の塩とは明らかに違う。


 信秀はしばらく見た。

 それから指でひとつまみ取り、口に含んだ。


 目が動かなかった。


 長い沈黙だった。


「……承認する。何か助力は必要か」


「私はまだ六つです。そんな幼児の命令で、頑固な職人どもが動くわけがありません」


「では、どうする」


「平手殿に見ていただく形にしてください」


「平手を使うか」


「はい。私は現場でわがままを言います。邪魔をするうつけをします。職人たちは怒るでしょう。ですが、平手殿が見ている仕事なら、勝手には投げ出せませぬ」


 信秀はしばらく黙ってから、小さく笑った。


「平手が気の毒だな」


「それができる方は、平手殿しかいません」


 信秀はまた黙った。

 それから立ち上がった。


「明日、平手に話す。下がれ」


 俺は頭を下げ、立ち上がった。

 部屋を出る前に、信秀が言った。


「一つだけ聞く」


「はい」


「お前は、どこまで考えている」


 俺は振り返らなかった。


「塩の次が、あります」


 それだけ言って、廊下に出た。


――――――――――――――――――――――――


 台所に戻ると、お鈴がまだいた。


「どうでしたか」


「通った」


 お鈴は目を閉じて、小さく頷いた。


「予算も取れた」


「それは……よかった」


「明日から動く」


 お鈴は俺を見た。


「他に、私が知っておくべきことはありますか」


「今はない」


 お鈴は一拍置いて、また頷いた。


「では、薪を使いすぎないでください」


「気をつける」


 台所を出た。

 廊下の暗がりで、俺は一度だけ立ち止まった。


(信秀が承認した。平手が盾になる。あとは現場だ)


 懐の中には、まだ誰にも見せていない紙がある。

 浜の地形と水路の図だ。


 それを出すのは、もう少し後でいい。


――――――――――――――――――――――――


 翌朝、平手政秀は信秀に呼ばれた。


 話の内容を聞いたとき、しばらく黙った。


「……吉法師様が、そのような事を」


「そうだ。お前に頼みたいと、あやつが指名してきた」


「私を」


「矢面に立てということだ。若様のわがままを、しばらく預かれ」


 平手はしばらく何も言わなかった。


「……それがうつけの、策でございますか」


「策かどうかは知らん」


 信秀は窓の外を見た。


「ただ、あれは六つだ」


 それだけ言った。


 平手は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 廊下に出てから、平手は一人で立ち止まった。


(六つの御方が、私を指名された)


 老臣は長く息を吐いた。


(この御方の底が、まだ見えない)


 それは、織田家随一の老臣が初めて抱いた感覚だった。


――――――――――――――――――――――――


挿絵(By みてみん)

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