第10話 白塩事業
並塩の初荷が届いたのは、朝の五ツ前だった。
俵が十五、浜の空き家に積み上げられた。一俵の並塩はざらりと粗く、色も薄茶でひどく汚れている。市場に出せば買い手がつかない等級だ。
それでいい。
これにろ過をかける。品質は要らない。塩さえ入っていれば十分だ。安い方がいい。
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平手が連れてきた職人は、炉職人だけではなかった。
釜を見る者。
水を運ぶ者。
桶と布を扱う者。
薪をくべる者。
白塩づくりを、今日から人の手で回すための者たちだ。
平手は彼らを並べ、静かに言った。
「この白塩づくりは、尾張で初めての仕事である」
職人たちの顔が上がった。
「ただ塩を煮るのではない。汚れた並塩を、武家や寺社に出せる白塩へ変える。できれば、尾張の名物になる」
平手は一人ずつ顔を見た。
「失敗すれば、ただの若様の遊びで終わる。だが、成功すれば、そなたらは尾張で初めて白塩を作った職人になる」
空気が変わった。
銭のために来た者の顔から、仕事を見に来た者の顔へ変わっていく。
平手はそこで、お鈴を前に出した。
「ただし、炉と釜は違う。火の道は職人が見る。だが、塩水の扱いと仕上げは、今日はこの者に習え」
職人の一人が、お鈴を見た。
お鈴は頭を下げなかった。
媚びもしなかった。
ただ、桶の前に立った。
「お鈴は台所を仕切る者だ。普段この工房に入るわけではない。今日、そなたらに最初の手順を覚えさせるために呼んだ」
平手の声は硬かった。
「三日も四日も頼るな。今日、覚えよ」
職人たちは黙って頷いた。
俺は少し離れて見ていた。
悪くない。
俺が命じれば、職人は俺の顔を見る。
平手が命じれば、職人は仕事を見る。
お鈴は並塩の俵を一目見て、眉を寄せた。
「……これが、材料ですか」
「これでよい」
俺が答えると、お鈴は短く頷いた。
「では、湯を張ってください。塩は一度に入れない。溶ける分から入れます」
職人が桶に湯を張った。
お鈴は並塩を少しずつ入れさせた。
粗い塩が湯に溶け、砂と泥が底へ沈む。
「底は触らない。上だけ移します。欲張れば濁ります」
職人の手が止まった。
お鈴は布を取ると、桶の口に張った。
「布の端を垂らさない。そこから濁りが戻ります」
口調は台所と同じだった。
無駄がない。
手順が短い。
失敗する場所だけを先に潰す。
職人が上澄みを移した。
麻布を通った塩水は、最初の桶より明らかに澄んでいる。
砂と泥と細かい不純物が布に残った。
お鈴は布の端を直し、職人にもう一度やらせた。
「今のは遅いです。湯が冷めれば、次が遅れます」
職人の眉が少し動いた。
だが、言い返さなかった。
お鈴は職人の顔ではなく、桶の濁りを見ていた。
相手が誰かではなく、仕事がどうかだけを見ている。
それが分かったのだろう。
次の桶では、職人の手が少し速くなった。
「これでよいですか」
「まだ濁っています。底を触りましたね」
お鈴は即座に言った。
職人は一瞬黙り、桶を見直した。
「……はい。触りました」
「なら、次は触らない」
それだけだった。
叱るためではない。
覚えさせるために言っている。
職人たちも、それを理解し始めていた。
炉は職人が作る。
火の道も、灰の逃げ場も、煙突の引きも、彼らの仕事だ。
だが、釜の中身を見る目は別だ。
湯の濁り。
布の目。
沈殿を待つ時間。
煮詰まり方。
苦みの残り方。
これは台所の腕に近い。
お鈴はこの工房の人間ではない。
毎日ここに立つわけでもない。
だからこそ、今日のうちに職人へ渡さねばならない。
俺は口を挟まなかった。
この場で必要なのは、俺の説明ではない。
職人が、お鈴の目を借りられるようになることだ。
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炉に火が入ったのは、四ツ(10時頃)を少し過ぎた頃だ。
一番目の釜に漉した塩水。
二番目に薄い塩水。
奥の予熱部に次の水。
煙は迷わず煙突へ上がった。
職人たちは火口と煙を見ている。
お鈴は釜を見ていた。
この炉を見るのは、お鈴も初めてだ。
火の道も、煙道の仕組みも、詳しく知っているわけではない。
だが、釜の中身は見て分かる。
しばらくして、お鈴が仕上げ釜を指した。
「火が強いです。湯が暴れています」
炉職人が俺を見た。
俺は何も言わず、平手を見た。
平手が頷いた。
「今日は、お鈴の言う通りにせよ」
火が少し落とされた。
二番目の釜も、奥の予熱部も、それにつられて少し弱くなる。
だが、それでいい。
この炉の仕事は、まず一番目の釜で白塩を仕上げることだ。
二番目以降は、捨てるはずの熱を使って、次の塩水を温めるためのものにすぎない。
一番目が荒れれば、全部が崩れる。
釜の沸き方が落ち着いた。
お鈴は職人に向けて言った。
「白く残すなら、強く煮ればよいわけではありません。湯が暴れると、濁りも苦みも戻ります。まず、この釜の中を見てください」
職人は火口から釜へ目を移した。
さっきまで火を見ていた目が、湯の動きを追い始める。
少しして、炉職人の一人が低く言った。
「……火口ではなく、釜を見るのですな」
お鈴は頷いた。
「仕上げは、釜を見ます」
それだけだった。
長い説明はない。
だが、職人には伝わった。
この女は炉を知らない。
だが、煮えるものを見る目は持っている。
職人が認めるには、それで足りた。
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頭の中で、数を追う。
今回の設備費と初期仕入れで、投資の合計は **10貫**(10,000文)になった。炉の建設と大型釜、ろ過設備、並塩の初期在庫、それに場所の改修費が重なった。
日々の費えは:
並塩 30斤 × 3文 = **90文**
薪 20束 × 2文 = **40文**
人件費 5人 × 4文 = **20文**
その他(布・消耗品)= **約70文**
一日の費用 合計 **約220文**。
安い粗塩は水気を含み、砂や泥も多い。重さで30斤買っても、ろ過と精製を経て売り物になる白塩は15斤ほどしか残らない。だから安く仕入れる。差額が利になる。
白塩が 15斤 取れれば、売値20文で **300文**。
一日の利が **約80文**。
月に20日動かせば **約1,600文**(1.6貫)。
10貫を回収するには、**約6ヶ月**。
年に換算すれば、**約19,200文(19貫余)**。
数字は紙の上ではきれいだ。あとは現場が数字通りに動くかどうかだ。
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夕七ツ(16時頃)、炉の火を絞った。
白塩を量った。
15斤2分。
合っている。
お鈴が職人に覚えさせた塩水は濁りが少なく、仕上げで捨てる苦い汁も見分けやすかった。目標の15斤が、初日から取れた。
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片付けの間、お鈴は職人に仕上げ釜の火の落とし方をもう一度話していた。
俺が言ったより、少し具体的だった。
湯が暴れる時。
塩が鍋肌に残り始める時。
火を落とす時。
職人が頷いた。
俺は口を挟まなかった。
この工房を、お鈴が毎日見るわけではない。
だから今日のうちに覚えさせる。
炉は職人が見る。
だが、釜の中身を見る目は、まだ職人には足りない。
お鈴はその足りない目を、職人に渡していた。
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平手が来たのは日暮れ前だ。
俺は板に棒で数字を刻んだ。今日の費えと、今日の収量と、今日の利。それに回収の見通し。
「初期投資 10貫。月利 1.5〜2貫。回収 約半年。年利益 18〜24貫」
平手はしばらく数字を見ていた。
「半年で、10貫が戻る」
「早ければ5ヶ月。遅くとも7ヶ月。炉の出来次第で変わる」
平手は顎に手を当てた。計算を確かめているのではない。この数字を誰に、どう見せるかを考えている顔だ。
「白塩の買い手は」
「那古野の武家か、寺社か。まず高く買う者を近くで探す。量が増えれば遠くへ出せる。今は先走らない」
「……承知しました」
それだけ言って、平手は数字をもう一度見た。
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帰り道、犬千代が俵を積み直していた。
誰も頼んでいない。ただ崩れかけていたから直したのだろう。
俺が歩き出すと、すぐについてきた。
「犬千代、今日の白塩を舐めてみろ」
犬千代は少し考えてから、仕上がった白塩を指で取った。舌に乗せて、目を細めた。
「苦くない」
「それが20文だ」
犬千代は何も言わなかった。ただ、もう一度だけ桶を見た。
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炉は動く。
数字は合う。
職人は炉を押さえた。
お鈴は職人に仕上げを教えた。
平手は外を押さえる。
俺は、その横で少しだけ口を出せばいい。
あとはこの仕組みを壊さずに、半年間回し続けるだけだ。
問題は半年先ではない。
この事業が軌道に乗ったとき、誰かが目をつける。
平手は今日の数字を信秀へ上げる。それが筋だ。俺が隠すことではない。ただ、報告はあくまで平手の口から出る。吉法師がどこまで手を動かしているかは、しばらく見えないままでいい。
俺は六歳だ。白塩1斤20文。月 1,600文。年 19貫余——職人20人を養える銭だ。
今はまだ、小さい火でいい。




