82、後悔と仲直り
アニエスは、その日がむしゃらに働く。
それは誰にも話しかけられないためだった。
王宮内で一時として止まらず、休まず。
王宮の業務と行儀見習いの稽古を、年中無休で回し続ける“無限機関”だと普段から噂されている彼女。
だが、今日のアニエスは、そのさらに三倍の速さで城内を駆け巡っていた。
周囲が錯覚かと目を疑うほどの働きぶり。
だがそれは、胸にこびりついた黒い靄を断ち切るため。
赤く腫れた双眸を見られぬため。
――ただ、仕事に身を沈めているだけなのだ。
アニエスだって分かっている。
ああして怒ってしまっても、多くの場合、非は自分にあるのだと。怒るだけの正当な理由が、きっと相手にはあるのだと。
けれど――その理由が、自分にはどうしても掴めない。
そういう時、何だか全ての世界に爪弾きにされたような鋭い孤独感に襲われた。
自分でも本質が分からないのだから、他人に分かるはずがない。
そんな思い込みが、知らず知らずのうちに彼女の中で根を張って、無意識に理解されることを諦めているのかもしれなかった。
(私は本当に脳の病気か何かなのかもしれない……)
ふとそう思い、アニエスはただでさえ『魔力無し』なのに、その上に脳の病気……。
そう考えたら、引っ込んだ涙がまた零れそうになった。
手や肩や背中に荷物をうずたかく積んで過積載な状態で、二階から四階へ階段二段とばしで運び、そんな風に自分を嘆きながらも、その一方であの後のアレクサンダーの様子が気掛かりだった。
(お昼は誰がアレクサンダーの世話をしたのだろう?女官長に申し伝えはしたが、その女官長から言付かった行儀見習いが忘れたりしたら……アレクサンダーはお昼を食べそこねるのでは……?)
そんな風に暇さえあれば心配してしまっている。
こっそり見に行ってみようか? ……いやいや、でもしかし、と何度も……。
結局、アニエスは夕餉の時間にはこっそりバスケットに食事の準備をして、地下三階に向かっていた。
(……誰かがいたら、こっそり離れれば誰にもバレないよね?)
だが……。
「お嬢様?」
何故かバレる。足音は忍ばせたのに、そのわずかな足音だけで……。
(アサシンなの? アレクサンダーは?)
「…………」
バレたため。そのまま去るのもバツが悪くなり、収容所番号三三〇五号室前に立つ。
「どうぞ、入ってきてください」
アレクサンダーがアニエスを励ますときに出す、ひと際、優しい声で、入り口の外にいるア二エスに向け声を掛ける。
「…………」
「謝りたいんです。お嬢様」
「…………」
「お嬢様のお顔が見たい」
そこまで言われたら流石に立ち去ることが出来ず、三つの鍵の十五桁の開錠番号をそれぞれを入れて中へと入った。
「……どうして、わかったの?」
まず聞いたのはそのことだった。
「人の歩く音って意外と癖がありますよね」
「そう、今度、直さなきゃ……」
「お嬢様の歩く音はリズムと音程が整っているので、歪みも無く、姿勢も良いのだと思います。だから直さない方が宜しいかと」
「相変わらず、耳が良いね」
アニエスはアレクサンダーの前の床にじかに座り、アレクサンダーを見上げた。そして……。
「ごめんなさい! 勝手に怒って投げ出したりして……!」
そう言い頭を床につきそうなほど下げた。というか一瞬ほんとに床にゴンッと触れる。
「…………」
「分かっているの、大抵ああいう場合……皆が怒っている言い分の方が正しいんだって……でも、やり場のない感情が抑えきれなくて」
そういうと、椅子に座っていたアレクサンダーは手枷足枷のまま床にヒョイっと降り、アニエスの前に座った。
「泣かせたのは僕等の方なのに……傷ついたのはお嬢様なのに……なんで謝るんですか?」
アレクサンダーは優しくアニエスに語りかける。
「それは、勝手に私がしたことだもん……!」
そう言うとアレクサンダーはアニエスの手を握った。
「僕にとってはどんな理由があろうと、お嬢様を泣かせるのは絶対的『悪』です。悪いのはやはり間違いなく僕等だ。……ごめんなさい。本当に申し訳ありませんでした」
アニエスはそこでようやく顔を上げる。
「ああ……やっと、お嬢様の顔が見れた!!」
アレクサンダーはその時、普段そのほとんどが無表情だというのが信じられない、優しい柔らかな微笑みを浮かべていた。
「アレク……いくらなんでも、そんなのは私に都合が良すぎるよ」
それに、アレクサンダーは悪びれもせずに答える。
「いいんです。僕の世界とこの星はお嬢様を軸に回っているんですから」
そう、今度はいたずらっぽく笑った。
「アレクってば……おかしい」
「僕をおかしくするのは大抵お嬢様なのですが、ご自覚はございますか?」
アレクサンダーの瞳はどこまでも優しい。
「……アレク」
「はい」
「アレクの言葉で、私一人ぼっちじゃなくなったよ……さっきまで、世界に自分しかいないような心地だったの」
「……あり得ません。貴女を一人になんて絶対にしない! だって僕にとって、貴女は無くてはならない存在だから」
アニエスはまた目頭が熱くなる気がした。
アレクサンダーを見ると、アレクサンダーはただアニエスを真っすぐに見つめていた。
碧と赤の不思議な輝きのアレクサンドライトのようなその深い瞳……。
アニエスは何だか吸い込まれるようだった。
そして……。
気付いたら二人は唇を重ねていた。どちらからそうしたのかは分からない。
だが、気付いた時にはそうなっていた。
唇から先に、互いの体温が交換される。
平熱はアニエスの方がずっと高いはずなのに、なぜかアレクサンダーから受け取った熱の方が高い気がした。
静かな独房……収容室内は、定期的な機械音の様なものと、水が少し漏れて、ぴちゃんと跳ねる音以外何も聞こえない。
まるで、世界に二人っきりだった。
「…………は……っ…………」
唇が離れてまた互いを見つめる。
「……好きです」
「えっ?」
不意打ちに、アレクサンダーははっきりと、澄んだ声で呟いた。
「でも、いまは理解はしなくていい。胸に溢れて口にせずにはいられなかった。それだけだから」
「………………」
そう言いアレクサンダーは瞳をまた閉じると、アニエスも自然と応えるように目を閉じた。
もう一度アニエスの唇にアレクサンダーの唇が重なる。
息が……鼓動が……重なる。
先程より、アレクサンダーの熱が高くて……。
……融けてしまいそうだった。
◇◇
「アレクサンダーごめんね。お昼は誰か来てくれた?」
「セオドリック様が」
「えっ?! セオドリック様が?」
「はい」
「え、食事は?」
「……セオドリック様の手で……頂きました」
わあお、それは、何という……。
「前にタニア様が貸して下さった本みたい……」
「それは、どういう本なのですか?」
「必ず『少年愛』とタイトルにあるの!」
「……………」
「後学のために、アニエスも読んだ方が良いと言われて」
「……そんな後学は身に着けないでください!」
タニアもなんてもの貸してるんだろうか!?
「お嬢様、そう言えば聞きました。だいぶ危険な手紙を受け取っていたとか……」
「聞いたんですね。うん、まあ少し……怖くはあったけど、タニア様が助けて下さったから」
「今後そういう手紙が一つでも貰ったら教えください。どんなことをしてでも阻止いたします!」
「でも、アレクたちは勉強があるでしょう?」
「お嬢様に何かあったら、勉強の意味がなくなりますよ」
「……あまり大事には、したくないのだけど」
「そう言って隠すと、あとで取り返しがつかなくなります。小さいうちに全力で潰しておくのが最善でしょう?」
「一理ある……」
「お嬢様が弱いと思っているわけでも侮っているわけでもありません。ですが、人間というのは結局一人でやれることはたかが知れている。……例え魔法が使えたとしても!」
「今のアレクが言うと説得力があるね」
二人は、一緒にクスリと笑った。
「ねえアレク」
「はい、何ですか?」
「やっぱり私、貴方のをしごいた方が良いんじゃなくて?」
ぶっは!! 突然の思わぬ攻撃に、アレクサンダーは盛大に噴出し咳き込んだ。
「ああ言っていたけど……やはり辛いものなのじゃないかと思って?」
「い、いや……その……」
「やはり私でも恥ずかしい?」
「……それも……ありますが!」
アレクサンダーは赤くなった顔をできるだけ隠しつつ、アニエスをチラりと見る。
「……まだ……大丈夫です」
そう言う、アレクサンダーにアニエスは小首を傾げる。
「では、いつか必要なの?」
「……将来、お互いの気持ちが通じ合った時に……。ですからそうなった時は、お願いしても僕を許して下さいますか?」
「……? もちろん!!」
そう言い二人は夕餉を済ませる。
そんな二人のやり取りを扉のそばでセオドリックとノートンが立ち聞きしていた。
アレクサンダーの夕餉の準備を持って……。
「あの、ムッツリ!!」
「どうやら、アニエス嬢から折れてくれたご様子ですね?」
「せっかくこうして食事を持ってきてやったのに!」
「むしろ、この上ない邪魔ですよね。我々……」
「上等じゃないか!」
「……今はやめておときましょう。せっかくアニエス嬢の精神が安定してきたのですから!」
セオドリックは面白くなくて最高潮に不機嫌だ。
「帰るぞノートン。長居は無用だ」
「見守らなくてよろしいので?」
「これ以上、進展するようならあいつは最下層送りだ!!」
「……職権乱用ですよ?」
「上等だ! 使えるものは何でも使ってやる!!」
「やれやれ……」
そう言い二人はその場を後にした。
去り際、セオドリックは扉のわずかな格子の隙間からチラリとアニエスの様子を伺う。
朗らかに笑う姿が見えた。
……それにセオドリックは、ほっとする。
彼女が泣く姿はこれ以上見たくなかった。
元気な姿が見れただけでも、ここに来て良かったのだろう。
そうして、二人は出来るだけ音を立てずに、そのまま地下三階を出たのであった。




