52、宿屋とお姫様の初アルバイト(その2) ☆※タニア&アニエスNEW挿絵あり
宿屋は街はずれの小高い丘に建ち、海を一望できる心地よい場所にあった。
爽やかな潮風が頬を撫で、老舗らしい落ち着いた佇まいが御一行に好印象を与える。
「……と、いうわけでして総勢七名の大所帯なのですが、ご迷惑だったでしょうか?」
「確かに全員、素人だからその点が少し気になりはするが……聞けば体験者もいるし、こっちは遠慮なくビシビシ行かせてもらうから構わないよ! ありがたいねえ!」
身分を隠しながらアニエスは全員を紹介し、宿屋の女将はニコニコ顔でOKをだす。
王族であるタニアとセオドリックの護衛や従者は、現在は身を潜めている。
食堂の営業時間になれば客を装って来店し、さりげなく護衛に当たる手はずだ。
「それにしても、あんたたちは……歌手の卵か或いは役者かなんかかい!? 恐ろしくびっくりするような綺麗どころばかりじゃないか!?」
女将は顔を赤くし、男性陣へまるで人気絶頂のアイドルを見るような、陶然とした目を向けた。
無理もない。不自然なほど整った美貌が、そこに揃いすぎているのだ。
だが理由は単純。
彼らは王侯貴族であり、しかもアニエス以外は規格外の魔力を宿す者ばかりだ。
「まあ(※公式以外めったにお目にかかれないという点で)似たようなものですかね……?」
「だから、あんたあんなに鍛えてるんだねえ! 努力を怠らず偉いねえ!」
「あははは、まあ確かに日課になってますが……」
自分に魔力がないことは百も承知。ましてや美形の頭数に入っているなど、これっぽっちも思っていない。
きっとこの華やかな面子に混ざっているから、どこかの劇団員とでも思われたのだろう。
そう解釈して、アニエスは適当に相槌を打つ。
「じゃあ、さっそく着替えてもらおうかね!」
そう言って制服を渡され、一度みんなが着替えることになった。
着替えは大抵、男子の方が早いものである。
男性の制服はギャルソンのような格好で実にスマートだ。
「いやー、ハンサムは何を着ても様になちゃうね!!」
「いい男!!」
「ほんとに素敵!! ああ~こんなことなら旦那と結婚するんじゃなかった!」
と、女将や住み込みの女中がみんな大絶賛だ。
そして……。
「お待たせしました」
タニア(レジ係)
アニエス(ホール係)
現れた三人娘の衣装は、ウェイトレスとメイドの中間のようなデザインで、愛らしいヘッドドレスが可憐さを際立たせた。
普段の高貴な装いとの落差が大きく、男たちの心臓を静かにズキュンと打ち抜いてしまう。
そして、こういう時に真っ先に動くのは、やはりセオドリックだった。
さっと歩み寄ると、ごく自然な仕草でアニエスの腰を引き寄せた。
「似合っていて可愛いよアニエス……試しに『ご主人様』と言ってごらん?」
「……嫌です。お放し下さい!」
だがアニエスはそっけなく、セオドリックの肩をぐいっと押し退ける。
「セオドリック様お放しを……お嬢様がお困りです」
ぐしゃり、と骨がきしみそうな握力で、アレクサンダーはにこやかな笑みのままセオドリックの肩を掴んだ。
「いたたたたたた! いや、マジで痛いぞ!? 放せ貴様!」
ようやく解放されると、セオドリックは肩を押さえながら、青い顔で小声にぼやく。
「どんだけの馬鹿力なんだ? 全く、闘犬か狂犬のような番犬だな」
アレクサンダーを睨むセオドリックに、アニエスは眉尻を下げた。
「セオドリック様。しかも、その番犬は飼い主の言うこともまず聞きません!」
「え……躾、ちゃんとしてもらえる?」
そうして、全員が戦闘配備に……!
「どうして、私が給仕などしなければならないのですか……!?」
……まだ、着けてない様子である。
「え、マリオン……だって宿屋で働くってお話ししたじゃない?」
アニエスが言うとマリオンはキッと睨み上げ。
「働くにしても、このようなことをするとは聞いておりません!」
それに対して困ったな。ではどうしようか……? とアニエスは頭をひねっていると。
「ですが、……もし宜しければ歌なら歌ってもかまいません」
「え!? そ、それこそ良いの!?」
国軍のトップ歌姫なのに!?
宿屋の食堂の昼営業サービスで果たして歌ってよいのだろうか?
「でも、一人は嫌です……」
マリオンはチラりとアレクサンダーを見る。それに気付いたアニエスが言った。
「……アレク一緒に歌える?」
「人前でいきなり歌うのは少し……でも、伴奏なら」
「ではマリオンと一緒に出て、そこのピアノを弾いてくれる?」
「承知しました」
アニエスはくるりと女将側を振り返る。
「……すみません。まことに勝手なのですが……」
「やっぱり歌手なんだね! 昼から歌を聞けたらお客も喜ぶよー!」
そう、おおらかに笑ってくれた。
さて、いよいよ昼営業に向け大忙しである。
タニアは、女中からタイプ式のレジスターの使い方を習い。
マリオンとアレクサンダーは音合わせに入る。
セオドリック、エース、ノートンは、レストランのメニューと席番と店の決まりを主人から習っていた。
中でも一番の活躍は……。
「誰だい! こんなにトイレをピッカピカのド新品みたいに磨いてくれたのは!?」
「……恐れ入ります私です。手が空いていたもので勝手をいたしました」
「! いやあ、ありがとう。臭くて汚かったろう?!昨日も酔っ払いが汚したから……」
「いいえ、それはぜんぜん平気ですよ」
それに驚いたのはエースとアレクサンダーだ。
「お嬢様!! 言って下さればそのようなことは僕がいたしますから!」
「綺麗になるなら誰がしても同じでしょう?」
「しかし……!!」
そこで、また女将が叫ぶ!
「あら? 納品は来てないの!?」
「それならさっき聞きながら、私が済ませました。……賞味期限順に先入先出しで合っていましたか? 一応確認していただけますと、嬉しいのですが……間違っていたらすぐに直させて頂きます」
言われて女将が確認する。彼女は唸り声を上げた。
「いやぁ、完璧だよ……重い粉類もぜんぶ運んでくれたのかい? まーまー……そんな小枝みたいな細っこい腕で……」
「いえ、あれくらいの重さなら全くノープロブレム! むしろついでに鍛えられて超ラッキーでした」
その時、厨房から怒声のような声が響いた。
「おおーーーーいい!! 仕込みが間に合ってないぞ!? こっちを手伝ってくれ!」
女将は苛立たしげに答える。
「こっちも手がいっぱいなんだよ! 行けるもんか!?」
そう怒鳴り返す。
そこでまたしてもアニエス手を上げた。
「差し出がましいかもしれませんが、……よければ私が行きましょうか?」
「ええ!? でもメニューや席順は……!?」
「一応、毎日通っていたので、もう覚えてしまいました」
「みじん切りとか、千切りとか、皮むきとか、かつらむきとか……」
「できます!」
アニエスはささっと厨房に入っていくと、恐ろしく丁寧かつ素早い動き。それに手際の良さで、あっという間に厨房スタッフと残りの仕込みを終わらせてしまった。
「……ひええっ、あの子はいったい何者なんだい? 実家が宿屋とか?!」
いやいやいやこっちが聞きたい。一応公爵令嬢のはずである……。
「タニア様、パパイヤをもらったの切ってまいりましたー! おひとついかがですか?」
「まあ! 美味しそうね、ありがとう!」
さ、一休みしたところで、いよいよ宿屋の昼のレストランがオープンである。
まずやってきたのが、地元のお年寄りの方々だ。
「あれ? 見ない顔だね、新人かのう?」
「はい! 今日だけ臨時で働かせてもらっております」
「はあ、こりゃあ……まためんごいごと……」
「なにさ食べたら、こーんな、べっぴんさんになるんじゃろかの~?!」
本気で驚いた様子の老人を見て、アニエスは、自分はきっと孫のように映っているのだろうなと微笑む。
その温かな視線に和みながら、素直に礼を返した。
注文を聞き出し厨房にオーダーを通すと、その間にも次々とお客さんが入ってきた。
地元の仕事帰りの客やカップル、主婦同士の来店で、店内はあっという間に満席になった。
その間を縫うように、アニエス、エース、セオドリック、ノートンが走り回る。オーダーを取り、水を注ぎ、料理を運び、テーブルを片付ける――息つく暇もない。
中でもセオドリックは、本人が言っていた通り非常に優秀で、並んだ客を次々と手際よくさばいていった。
生粋のお坊ちゃま育ちのエースは、当初こそ勝手が分からず戸惑っていた。だが、地頭の良さと愛嬌で瞬く間に順応し、すでに頼れる戦力になっている。
一方ノートンは、もともとの経験を生かし、静かに確実に動く。爽やかな笑顔の裏で、その所作には一切の無駄がなかった。
アニエスはくるくると舞うように、誰よりも軽やかに動き回った。
ホールの端から端までを、まるで風のように、埃ひとつ立てず駆け抜ける。
そんな混雑を極めるホールに、突然ピアノが鳴り響いた。
誰もが知る、あの流行歌。
次の瞬間、空気を震わせる歌声が重なる。
圧倒的な響きに、談笑は途切れ、視線が一斉にステージへと集まった。
「す、ごい!!」
その歌声に、人の三倍速で動き回っていたアニエスでさえ、一瞬ぴたりと足を止めた。
――これが、国軍最高峰の歌姫の実力。
圧倒的な声量と安定感。
伴奏のピアノもまた主役に劣らぬ腕前で、二人の音は見事に溶け合っていた。
一方、レジに立つタニアは、少しゆっくりながらも確実にキーを打ち、お客様を丁寧にさばいている。
おおらかな南の土地なのがまた良かったようだ。
誰もタニアを急かさずに、優しく見守ってくれた。
「ご来店ありがとうございました!」
そう言ってお会計を済ませ、お客様を見送るその姿は充実していて、顔は明るく頬を紅く染める。
やがて、少し客足が落ち着いてきた頃。
アニエスは、スッとタニアのもとに行き声をかけた。
「タニア様、ずっと気を張っていらしたでしょう? 喉もお乾きではありませんか。少しの間、私がレジに入りますので、どうぞお飲み物を召し上がってください。ホールは今、三人で十分回せますので……」
指摘されて初めて、タニアは喉の渇きを自覚したらしい。
少し赤くなった頬をふうふうとさせたまま、こくりと頷く。
奥へ下がると、冷えたレモネードを両手で持ち、夢中でごくごくと飲み干した。
ほうっ! とそこで、ようやく大きな息を吐く。
そうして十五時になり、怒涛の宿屋のレストランの昼営業が終了した。
七人はそこで、遅めのランチを取る。
「ご苦労様!! いやーーー! 皆いい働きぶりで感心したよ! まかないだけど……沢山食べておくれ!!」
そう言い、女将はお昼に地元の名物を色々と出してくれた。
「……なぜ、スプーンとフォークが一つずつしかないのですか?」
マリオンが訝し気にカトラリーを取る。
それにアニエスが答えた。
「忙しいから、ゆっくり食事をしていられないのでしょう。だから食器も簡素なのだと思います。でも、こういう方が気取らずに、食事そのものを味わえる気がします!」
貴族は自領から上がる税や家賃などで普通一生涯、働かなくていい。
そのためゆっくり食事をし、料理を生かすカトラリーがそれぞれ用意される。
でも毎日あくせく働かなくてはならない一般庶民はそうはいかない。
だから、カトラリーも少ない方が良いのだ。
「流石は……何のこだわりも無いんですね? それでよく、王宮宮廷行儀見習いが務まりますこと!!」
その時、チリーンとグラスをスプーンで鳴らす、まるで鈴のような音が響く。
皆がその音に振り替えると、グラスを鳴らしていたのはタニアだった。
いつも柔らかな笑みを浮かべている彼女の顔から、表情が抜け落ちている。
その表情は、明らかに怒りを帯びていた。
そして――
「食事中なのに、ごめんなさい。……でも私はこれ以上とても黙っていられません」
タニアはマリオンをキッと睨んだ。
「マリオン。貴女の態度はあまりに酷過ぎます。これ以上看過できないわ……アニエスは、それこそ現在いる王宮宮廷行儀見習いの中で最も稀にみる優秀な行儀見習いです。…………でもそれは、彼女の地位によるものでも、王太子殿下の贔屓によるものでもなく…………ひとえに、彼女のたゆまぬ努力が実を結んだ結果です」
タニアは一語一句をハッキリと発音し、一語も聞き漏らさせないようにしているようだった。
「……そもそもそんなものが通用するのなら、王宮宮廷行儀見習いは、今現在いただいているような高い評価を得たりは決してしていないでしょう。…………アニエスは、それこそ多い時にはお辞儀の動作一つに千回だってやり直しをさせられて、首や腰に炎症を起こしたこともあるくらい努力し続け……誰よりも実力が認められています。だから、異例ともいえる二年目で個人授業も任されたのですよ?」
タニアは一度も瞬きせず、マリオンの目を見続ける。
「それなのに彼女のそんな姿勢も知ろうとせずに、授業をボイコットし、現在のような態度を続けるのであれば……私はこのローゼナタリア王女の強権を以て、貴女の王宮宮廷行儀見習いの解雇を言い渡します!」
その言葉に場がしいんと静まり返る。
マリオンは血の気が引いた顔で、ブルブルと震えた。
それもそうだろう。
タニアのこの時の、その威厳たるや……まさに王女そのものであり、誰をも震撼させるものだったのだから。
「……アニエス」
「はひ!!」
突然、名前を呼ばれて空気に気圧されていたアニエスは思わず返事を噛んだ……。
「マリオンに第一のお辞儀を見せて差し上げなさい」
そう言って、目線でアニエスに起立を命じる。
「マリオン……これが最初あるいは最後の授業になるかは貴方次第です。……アニエスのお辞儀を見て、それでも納得がいかないのなら私が解雇しようとしまいと……それはきっと、貴方に必要が無いモノだということなの。だから無理に王宮宮廷行儀見習いに縛られる必要も無いでしょう…………それに、それだけが絶対の縁結びの方法でもないですしね?」
王宮宮廷行儀見習いは王族との婚約。
または王宮高等女官を目指す手段の側面もある。
だけどタニアはそんなのが無くても道はあることを示して、マリオンに選択の自由を与えた。
「た、タニア様……私これが初授業なのですが……だだ大丈夫でしょうか?」
緊張感ある場面で、急に指名されアニエスはかなりテンパり気味である……。
……本当に大丈夫なのか? とタニア以外の全員が心配する中。
「貴女なら大丈夫よ……だって、アニエスだもの!」
と、タニアだけは、真っすぐにアニエスに信頼の視線を向けた。
「……かしこまりました」
アニエスも覚悟を決めると、皆が見える位置に移動した。
「……では、始めさせて頂きます」
アニエスは宣言すると、先程まで慌てふためき青くなっていた顔がすっと冷静なものになる。
二拍置いて背筋をすっと伸ばし、顔に柔らかな微笑みを浮かべ、足先を九十度に開き、手をスカートに添えると……ゆっくりとお辞儀をした。
ただ、ただそれだけだった。
……ただそれだけの動きなのに、そこには静と動の美が凝縮されている。
無駄な所作は、細部に至るまで徹底的に削ぎ落とされていた。
動きを止めた際の、反動のわずかな微動の震えすら消え失せ……動きのしなやかな滑らかさは、まるで音楽の主旋律の調べのよう。
お辞儀という物語が今まさに流れている。
こんなことがあるだなんて……!
「「「…………………」」」
「あ、あの……」
最初に動いたのは、無反応に痺れを切らしたアニエスだった。
無反応というか……あまりのことに皆、絶句していただけなのだ。
「……噂以上だな。歴代でも指折りかもしれない」
ようやく口を開いたのはセオドリックだった。
「ただの一礼のはずなのに……まるで別次元だ。今、何を見せられたの?」
エースも息を呑んで続ける。
「宮廷行儀作法とは、ここまで極められるものなのですか?」
アレクサンダーも、まるで狐につままれたような顔をしている。
「改めて思いますが……本当に見事です」
すでに何度もその所作を見ているはずのノートンでさえ、あらためて息をついた。
それぞれの声が落ち着くのを待って、タニアは静かに口を開いた。
「ではマリオン、続けてやってごらんなさい?」
「!!」
そうマリオンにアニエスに続いて、お辞儀をするよう要求した。
「………………」
「さ、アニエスは席に戻って」
アニエスは命じられるまま席へ戻った。
マリオンはしばし動かず、わずかな抵抗を見せたのち、ゆっくりと立ち上がる。
言われた通り第一のお辞儀をする。
正直それは、公開処刑に等しかった。
あまりにも歴然とした差。
淑女を辱めるのは紳士の恥。けれど、ここで慰めの言葉をかけることは、むしろ彼女の自尊心を踏みにじることになりそうで……。
マリオンも自分でわかっているようで、顔を真っ赤にして目の端が光っていた。
「……恥をかかせたのは私ですか? それともこれまでの貴女の行いですか?」
タニアは無慈悲にマリオンに言葉を投げかける。
しかし、そのお辞儀を肯定的に見つめていた者が、ただ一人だけ存在した。
「……確かに、まだ伸びしろはありますが……。やはり予想通り、マリオンは筋が良いですね、タニア様!?」
それは、他の誰でもないアニエスである。
「軸が安定しているのは、内側の筋肉が強いからでしょうか!? 発声で腹筋を使う習慣が活きているのかもしれません……! お辞儀は意外と体幹が要るのですよ。だから多くのご令嬢は、まず腹筋と背筋の強化から始めないとなりません!」
うんうん。と、久々に筋肉馬鹿ぶりを披露しながらひとり納得し頷いている。
「下手なお世辞はお止しになって……!!」
マリオンが震える声で言う。
「何をおっしゃっているのですか!? 私は筋肉に関する嘘は一切申し上げません!」
アニエスが鼻息荒く宣言する。
……いったいお前は何を言っているんだ?
「でも……貴女とは比べようもないレベルです!!」
自覚してマリオンは言う。それにアニエスは……。
「そんな……最初から上手にできたら誰も苦労しません! 教える方も教わる方も。……だけど、始めることさえできればどんなことでも全てが変わります」
言葉は優しく、でもそこに嘘偽りは無い。
「もし、マリオンが嫌でなければ、王宮で一緒にレッスンをいたしませんか? ……私はマリオンにはその素晴らしい歌声以外にも、その内側に光るものがある気がして、出来ればそれを一緒に見てみたいのです!」
そう最後に優しく微笑みかけた。
その、姿にタニアも厳しい顔から一変、同じく優しい顔になっている。
「やっぱりアニエスはすごいわ。いつも自分を苦しめる者にさえ、手を差し伸べることが厭わず出来てしまうのだから……。あなたの懐はまるでこの海のようにどこまでも深くて澄んでいますね。アニエス」
タニアの言葉にアニエスは首を振った。
「? 私は別に基本的にはお気楽な平和主義者なだけで、まさかそこまで深くは考えてはおりませんよ。買いかぶり過ぎですわ。タニア様!」
あはは! とアニエスは明るく笑う。
「まあまだ夏の休暇はこれからだし……。ゆっくり今後どうしようかを、考えればよいのではないでしょうか?」
そう締め括り、食事を再開した。
アレクサンダーは、誇らしさを隠そうともせず、愛おしげにアニエスを見つめている。
それに気付いたマリオンは、またしても激しく打ちのめされた。
(やっぱり、アレクサンダー様は……!!)
「わかりました。よく考えます。……ですが、どうか勘違いしないでください」
「うん?」
「私は貴女がやっぱり大大大嫌いです。今もこれからも未来永劫!!」
キッとマリオンが涙目でアニエスを睨む。
「……………ねえエース。どうして私はこんなに同年代の女の子に嫌われるのだと思う?」
普通あそこまでしたら、少しは心開いたりするもんじゃあないんだろうか?
アニエスの疑問に、エースはマリオンを見て、アレクサンダーを見て、アニエスに視線を戻す。
「……それはある意味、義姉さんが魅力的なせいだと思うよ」
エースはごく正直な意見を述べた。その返事に納得のいかないアニエスこそ涙目で訴える。
「なんで魅力的なのに嫌われるのよ? そんなの真逆じゃないの!?」
それでヤケクソ気味にサラダをはんだ。
午後は宿屋の裏方の仕事だ。
洗濯物を運び、床を磨き、ゴミを片づける。
その合間に、アニエスはタニアと一緒にシーツを干しながら、かくれんぼをしたりして時々少しだけふざけた。
そうして、ようやく長かった一日も終わり夕方に本日の『王侯貴族の職業体験』は終了した。
「「「ありがとうございました」」」
全員が宿屋の女将に礼を述べる。
「何を言ってるの!? こちらこそだよ!! 本当に今日はありがとう。じゃあこれね?」
そう言い全員に封筒を渡した。
「え、でも、無理を言ったのはこちらですので!」
アニエスが慌てて辞退しようとする。しかし……。
「お客さんたちがね、“あの子たちに渡しておくれ”って、チップを山ほど置いていったんだよ。うちからはささやかだけど、それも合わせて持っていきな。みんなの気持ちだからさ!」
「……わかりました。本当にありがとう存じます」
それならと全員ありがたく受け取る。
アニエスはこっそりタニアに耳打ちした。
「……初給料ですね? タニア様!」
「本当に、まるで夢みたいだわ!」
二人は目を合わせ小さく微笑み合う。
さあ帰ろうとしたその時、アニエスは宿屋の女将に呼び止められた。
「ねえ、あんた……うちで本気で働かないかい? 給料は弾むから!」
と真剣に口説かれる。
「申し訳ございません。一ヶ月後には、王都に帰らなければならないのです」
「そうかもしれないけど、住み込みの部屋は空いているし。カサンドラはいい街だよ? 一度真剣に考えてみないかい? ……うちには息子がいるんだけど、歳もあんたと良い頃合いだし、何だったら嫁に来たっていいよ!?」
アニエスがもう一度断ろうと口を開いた途端、二本の腕がすっと伸びた。
腕を引かれ、気づけば肩まで抱き込まれている。
「申し訳ないのですが、アニエスは王宮に、もはやなくてはならない存在なのです。ですからお渡しは出来ません!」
「そうゆうことです。いずれ、第八妃にせよ何にせよ……私の隣が定位置となる予定です。だから未来もお渡しするのは不可能かと?」
女将に断ったのはタニアと、セオドリックだった。
女将は、慌てて聞き返す。
「え、王宮!? あれ、そう言えばその顔どこかで……」
「ご想像にお任せいたしますわ!」
薔薇の微笑みでタニアが答えた。
「タニア様はわかるとして、……セオドリック様のこれは何なんです?」
アニエスの言葉に、セオドリックは整った唇をそっと彼女の耳元へ寄せ、低く囁いた。
「さあ、何だろう? それこそ想像すればいいんじゃないか?」
アレクサンダーがそれに淡々と異を唱える。
「ご心配には及びません。デビュタントの頃にはお嬢様はロナ家へお戻りになります。……それよりも、まだ婚約もされていないのに、あまりに気安いのでは? 事故が起きて……へし折られますよ?」
そう、その肩を抱いたセオドリックの手を迷いなく払う。
「……アニエス、あの獣は放し飼いのままか?」
「今さら首輪を付けても遅いでしょう? 少しくらい噛みつかれても、私は困りません」
先に行こうとしていたエースは、何気なく振り返る。
そこには、四人を鋭く見つめるマリオンの姿があった。彼は事情を察したように、ひとつ息を吐く。
「だから言っただろう義姉さん?『魅力的だからだよ』って」
そうエースはひとり、呆れて呟くのだった。




