51、宿屋とお姫様の初アルバイト(その1)
「……よーし!」
動きやすい服に着替え、服のフードを被り、靴ひもを結んでアニエスは朝四時の別荘を飛び出した。
本来の日課としていたワークアウトをこなすためである。
王宮宮廷行儀見習いに入ってからは、そんな暇はなく、やり繰りやり繰り鍛錬を続けていたが……自分のホームベースでの長期休みは思いっきりしたいことに時間を割けた。
取りあえず軽い気持ちで、軽くない距離二十四.八五マイル(約四十キロ)を走る。
このカサンドラは坂の多い街で、それが変化ある街並みを作り、魅力ではあるのだが、街歩きする者たちを苦しめもする。
だから、この街では車夫は結構それなりに稼げる仕事らしい。
しかし、アニエスは平坦な道より変化のある道を走る方が退屈でないため、むしろ走っていて心地良いとさえ感じていた。
夜の名残を残す早朝も早朝、この時間は広い道路も街も人がまだ一人もおらず…………その前向きな静けさと、まるで自分だけがこの街を使っているような贅沢感をアニエスは一人、心行くまで楽しむ。
縫うように走って街の端まで来るとようやく折り返し地点。
アニエスは近くの宿で、炭酸入りの水を買って飲みたいとドアに手をかけた。
宿は中に入るといきなり食堂という造りで、働いている音はしても、まだアニエス以外の客は来ていない。
「ごめんください。炭酸入りの水をもらえますか?」
「あ、はーいい……! ……そうは言っても、そんなんじゃ営業できないよ!!」
中からは、返事とともに愚痴のようなものが聞こえた。
「はい、どうぞ! 毎日走って精が出ますねぇ!」
「ありがとうございます。……何かあったんですか?」
「えーと実は、うちに働きに来てる子達が、ぎっくり腰と夏風邪と二日酔いで来られなくなったんだ。本当にこっちはいい迷惑さ!!」
まさか目の前にいるのが身分違いのご領主様のご令嬢とは露知らず、宿屋の女将さんは砕けた話し方でアニエスに思わず愚痴る。
それを聞いていたアニエスは最初、へえ、それは大変困りましたねえ~。と、世間話として流すつもりでいた。
しかしその時、ふと、ある良い考えがアニエスの頭に浮かんでくる。
「あの……もし宜しかったらーーー」
アニエスはその考えをすぐにこの女将に持ち掛けた。
◇◇
「タニア様! 今日は別のところにお出かけすることになりました」
出かける準備で夏用のドレスを選ぶタニアを前に、アニエスは宣言する。
「あら、ではお買い物には行かないの?」
「そうですね。行けたら行きますが、きっとタニア様は気に入ると思います!」
タニアはアニエスの自信ある様に黒曜石の瞳を輝かせた。
「まあ、アニエスがそう言うと期待してしまうわ。何かしら?」
「それは、行ってからのお楽しみ! とさせてください!」
アニエスがニッと笑う。
アニエスはそのあと急いで階下へと降りて行き、下の食堂で朝食をとる面々にも話をしに行った。
「おはようございます!」
ドアを開けアニエスが元気に挨拶する。
「朝から、大声で耳が痛くなります……」
そう言い、小猫の餌のような量の朝食を口に運び、アニエスをチラりと見るのは、濃い紺色の髪にラピスラズリの星空の瞳を持つ美少女でアニエスの王宮宮廷行儀見習い後輩(※性格かなりきつめ)のマリオンだ。
「珍しく遅かったなアニエス?」
そういうのは亜麻色の髪にグリーンの瞳(※本当の姿は黒髪と灰色の瞳。変身体質あり)の王太子セオドリック。
そのまた隣で「おはようございます。アニエス嬢」と優しく爽やかな笑顔で挨拶するのが、セオドリックの側近ノートンである。
「義姉さんも今朝の新聞読む?」
既に朝食を済ませてお茶を飲んでいるのが、烏の濡れ羽色の艶やかな黒髪とタンザナイトのような青紫の輝く賢き瞳の美少年。アニエスの義理の弟エース。
「お嬢様、そろそろお見えする頃かと朝食の準備は今しがたテーブルの上にご用意しました」
締めは主人の動向を完璧に読み解き、実行に移す。
従者のかがみで、銀色の髪にアレクサンドライトのような赤にも碧にも輝く瞳の絶世の美少年アレクサンダーが勢揃いとなっていた。
アニエスはそんな面々に返事を返す。
「……朝一番の挨拶は元気が基本なのよマリオン? セオドリック様、タニア様に先に挨拶しておりまして、今朝は遅くなりました。ノートン様ごきげんよう!
エース、新聞は部屋でもう読んだから大丈夫よ。アレクサンダーいつもありがとう! 卵は?」
「本日は、黒コショウの利いたスクランブルエッグでしょう?」
「完璧だわ!」
そうしてそれぞれに応えた。
「実は先程タニア様にはお話ししたのですが、本日ショッピングの予定だったのを変更にしようかと思いまして……」
それにセオドリックは食後のお茶の片手間に聞く。
「ふうん? まあ、まだ日はあるから買い物はいつでも出来るだろうし、別にどちらでもいいんじゃないか?」
だから特に何の疑問も無く受け入れる。
けれど、マリオンはというと……。
「必要なものはこっちで揃えようと思っていたのに、ころころと予定を変更されるのですね? 人の迷惑を一切、顧みずに?」
「えーと……マリオンの荷物は大の大人が入れるサイズのスーツケース九十九個届いているけれど、この一ケ月で別に家を建てるわけでは無いのだし、何かあればこちらですぐにご用意いたします。…………それに提案はするけど特に行動に制限は無いのだから、買い物に行きたいのなら別行動をとっても、全然、構わないのよマリオン?」
「まあ! 少し年下に言われたくらいで目くじらをたてて、怖い怖い!!」
(ぎりりっ、我慢よアニエス。こうして返事をまともに返すだけでも王宮での態度より、ずっとマシなのだから!)
「で、どこに行く予定なの?」
エースがアニエスに尋ねた。
「街のはずれにある老舗の宿屋よ!」
アニエスは笑顔で答える。
「……別荘に来ているのに?」
なんで宿屋? と、他の面々も頭にクエスチョンマークを飛ばす。
そのもっともな疑問にアニエスはニヤリとして答えた。
「別に泊まるわけじゃないわ。……社会科見学? というより、今日はそこに職業体験に行くの!」
そう宣言した!
セオドリックはその答えに、更に不可解そうに眉根を寄せる。
「……職業体験? どういう話かちゃんと説明をしてくれないか?」
「はい、もちろん! セオドリック様は先日、訪問したカサンドラのレストランテでのことを覚えてらっしゃいますか?」
それはこういう話だ。
食事を終えて一段落し、最後のデザートを待っていた際、タニアが実に熱心にお会計の方を見つめていた。
「タニア様……お会計の点で何かご心配がございますか?」
アニエスが思わず尋ねるとタニアは首を振る。
「違うの、ただ少し……あのレジスターというものに憧れを持っているの。やっぱりおかしいかしら? いえ、レジ係だけで無く……こういう風に働いてみるというのも少しやってみたいなと思ってしまうのよ。私の働き方とはだいぶ違うから、本当に興味深いわ……まあ、敵わない夢でしょうけど……」
そういい、小さな子供が憧れのおもちゃで遊んでいる隣の子供を見つめるような瞳で、タニアはデザートが届くまでレジの方を見続けていた。
「一国の王女が、市井の人々の生活を知るのは、王族としてもとても意義があると思うのです……! その目線でないと見えないものや気付かないことも多いですから。だから是非体験していただく、ご協力をしたいなと思って!」
だがセオドリックは、それに難しい顔になる。
「しかしタニアは本当にお姫様育ちで、あのように動作だってゆっくりなのだが……果たしてせわしない市井で、働けるだろうか? 先方に余計な負担をかけるのではないか?」
そう心配した。
アニエスはその不安をもともと予想していたようで頷き答える。
「そこは私が様子を伺って全力でサポートさせていただきます。セオドリック様どうかこの件、お許しいただけませんか?」
セオドリックはタニアの兄。
つまりここでのタニアの保護者ということになる。
許しが無ければそもそもこの計画の遂行は難しいだろう。
「いや、タニア本人もやりたがるだろうし、別に私は反対はしない。少し心配だけどな……」
「ではセオドリック様も一緒に働いてみませんか? あ、でもセオドリック様こそ王太子ですもの……そんな風に働くのは難しくてらっしゃいますよね……?」
「ウェイターの仕事ならしたことはあるぞ?」
あまりに意外な答えにアニエスが驚く。
「えっ! なんでまた?」
「それこそ学校の授業でみっちり二ケ月、現場でのリーダー性を身につける目的で様々な仕事の体験授業、あるいは奉仕活動があるんだ。私はそこでどちらかというと接客向きかな? と思い、あるレストランでウェイターをさせてもらったんだ。これでもなかなかの働き手だったんだぞ?」
そうなのですか? と、アニエスはノートンの方を見た。
「はい、そうゆう授業は確かにございました。午前中は普通の授業を受け、午後はみっちり職業体験にあてられるんですよ?」
流石は、多種多様で多彩な授業でも知られる王立でもっとも歴史ある寄宿舎学校エールロードである。
「だから私も働く。そうすれば私もタニアをそばで見てやれるからな」
「セオドリック様は、普段はセクハラ&多淫王太子ですが、お兄様としては本当に妹思いのいい兄君でらっしゃいますね……」
「褒めるのなら、その枕詞はいらなくはないかな?」
「今後セクハラを止めと頂けれは、すぐにでも取り外します!」
普段その言動の一番の被害者であるアニエスは、きっぱりと申し上げた。
「僕も面白そうだし、もちろん参加で!」
フットワークが軽く、好奇心も旺盛なエースが手を上げる。
「主人を働かせて、自分が働かない選択肢は僕にはありません。何かあればお嬢様のサポートは僕が全力でいたします」
またアレクサンダーも当然のことと思い、参加を表明した。
「私もアレクサンダーと右に同じです。自分の主人だけ働かせるわけにはまいりません!」
ノートンもにっこり笑って賛同する。
アニエスは、ここで皆をぐるりと見まわした。
「では、マリオン以外は参加ということで……」
アニエスがそう締めくくろうとしたその時、異を唱える声が上がった。
「待ってください……誰もやらないとは言っていないでしょう?」
アニエスはその言葉にびっくりして、マリオンの方を振り返った。
「……え!? でも、たぶん下働きのような事をすると思われますよ??」
マリオンはアレクサンダーの方をチラりと見る。
「……参加するなら、私もします」
アニエスはそれこそ驚きはしたが、その答えにすぐに笑顔になった。
「……先方には、『素人ばかりだからお給料はいらない』と言ってあるし、人数が増える分には全然問題ないと思いますよ? ……では、全員参加という事ですね? わかりました!」
大きく頷き、アニエスは満面の笑顔になる。
こうして、『王侯貴族様ご一行様、庶民一般職業体験』が開催される運びとなったのだった。
以下、次回!!
宿屋を当日欠勤した三人は実は一緒に遊びに出かけています。おいっ、とも思いますが、常夏南国な土地はそこらへんおおらかです。




