28、六月の催しと強い華(アレクサンダーとアニエス)
鬘と異国風のドレスを身に着け本格的なメイクを施されると、お伽噺から抜け出したお姫様が現れた。
皆が一様に目を見開き、一点を見つめる。
……違う。そうじゃない。彼女……彼はアレクサンダーだ。
沈黙のあと、舞台に建つ全員が今度はどよどよと騒がしくする。
けれどアレクサンダーは、そんな視線を無視して、セリフの歌詞と音程の最終調整に入っていた。
嫌々引き受けたことではあるが引き受けた以上。
全力を出して、完璧な仕上がりにしなければ自分の気が済まない。
(こんな役でなければ、本当はお嬢様に一番に見ていただきたかったな。お嬢様……さっきは久しぶりに互いにボコボコとやり合ってしまったが、まさか残るような傷が出来てやしないだろうか……?)
アレクサンダーは調整しながら、そのことがただただ気掛かりだった。
昔は喧嘩でも組み手でも、真剣勝負でも遠慮なく力をぶつけることが出来ていた。
しかし思春期に入り、最近はどのような距離を取ったらよいのかがわからない……。
久々にアレクサンダーが見たアニエスは、前と同じくいぜん少女の形をしていたが、前よりも背が伸び、すらりとした印象が強くなった。
アレクサンダーは彼女がこのまま大人になったら、これまでのように気安く近付けないような気がした。
ふとした瞬間に彼女を傷つけるようなことがあるかもしれない。
そう、それは別の意味においても……。
それは、彼女をアレクサンダーが従者の分もわきまえず、欲しがり過ぎているからだ。
――アレクサンダーが初めてアニエスに出会った時、アニエスはまさに別世界の人物だった。
その時アレクサンダーは、薄汚い乞食のような生活を送っていて、自分を探して男娼として売り飛ばそうとやっきになる親がわりから必死に逃げ、世界の隅っこで息を殺して生きていた。
そんな中、アニエスとアレクサンダーは偶然にも出会ったのである。
「宝石のアレキサンドライトのような瞳だわ。アレキサンドライトは『王の宝石』。貴方のその素晴らしい王者のような心持ちそのまんまです!」
ただ、拾い物をして届けただけだ。
アレクサンダーは例え乞食になっても泥棒になるつもりは無い。
だから届ける。それだけだった。
黒く汚れ、臭いも酷かったであろうアレクサンダーの手を、彼女は手袋を外した手で、ぎゅうっと握りしめる。
「大人でもネコババして盗む者は多いのに……」
彼女がひどく心を打たれている中、アレクサンダーは彼女の瞳を見つめていた。
内側から滲むように七色の光を放つ、かつて見たことのないほど美しい目。
その目を細め、彼女はやさしく――あまりにやさしく、微笑んだ。
豪華な車、完璧なドレス。
光に選ばれた者のように、世界の中心に立つ姿。
けれど、その視線の奥には、他人とは思えぬほどの悲しさと怒り、諦めと、それでも折れぬ反発が沈んでいた。
覚悟と決意のさらに底に、――触れれば崩れてしまいそうな、死の輪郭を隠している。
……だがこれも、いま思うと実に妙な話だ。
幼なかったアレクサンダーが、ひと目見た少女のその瞳にそんな多くの意味を見出すものだろうか……?
これは後に記憶が捻じ曲げられたのではないのかと考えるのが、きっと正しい。
……なのに、あの時のことを思い出すたびに、胸が火で焼けるような冷たくなるような……まるで生々しい火傷みたいな痛みを、アレクサンダーは感じるのだ。
アニエスは、アレクサンダーの親代わりの前に立ち、迷いなく告げた。
――彼と引き換えに、自分のもっとも大切なものを差し出します、と。言葉は、そのまま現実になる。
『ロナ家の秘宝』は彼女の手を離れ、代わりにアレクサンダーが渡された。
さらに彼女は、身に着けていた衣服も、乗ってきた車も、すべて置いていった。
下着姿の裸同然の格好で、土を踏みしめながら運転手とアレクサンダーと手を繋ぎ歩いて帰る。
その姿は、あまりに異様で泥臭く、……笑っちゃうほど。
――美しかった。
というか後になって思えば、本当に正気の沙汰ではない。
だがその時の彼女は、恐ろしいことに何一つ失ったと思わず、未来を信じ切っていたのだ。
それからの彼女は、必要とあれば何一つ惜しまなかった。
信じ、与え、愛し……ついには、金銭的な保証とともに、彼に絶対的な自由さえ差し出そうとする。
けれど、それをアレクサンダーは、今も拒み続けている。
(お嬢様のいない世界なら……僕はいらない)
目を閉じれば、アニエスのかつての言葉がふっと降りた。
「あなたが来て、私の人生は向きを変えたの。……死に近い場所に立っていた私を、常世へ呼び戻してくれたのは、あなたよ。あなたに出会えたこと――それが、私のすべてで、いちばんの幸運だった!」
それならアレクサンダーの方こそそう言いたい。
彼女と出会ってからの日々は……平穏とは程遠かった。
怪我も多く、死を意識した瞬間も、両手両足の指ですらまだ足りない。
――それでも、不思議なことに、振り返ればどれもが、胸を躍らせる楽しかった思い出になっている。
だって、アレクサンダーはその時初めて知ったのだ。
自分がよく笑い、人をからかって、時に嫉妬し、冷静さの奥に熱い炎を宿す人間だったということを。
危うさごと抱えてなお、前に進める――そんなしたたかな強さが、自分の中に存在することを。
アレクサンダーにとって、アニエスはアレクサンダーの心にある……神様に一番近いところに住んでいる。
「アレクサンダー! そろそろスタンバイしてくれー!」
神のごとく崇拝してきた存在に、いつしか本気で恋をしてしまった。
その時、彼がどう振る舞えば正しいのか――そんな答えを持つ者が、この世にいるはずもない。
それでも、踏み出すことだけは、もう選んでしまったのだ。
◇◇
舞台の袖に控え最後に喉の滑りをよくするため、差し入れの水を口に含み、開幕を静かに待つ。
最初はアレクサンダーの相手役の主人公の独唱から始まる流れになっていた。
けれど、その時響いてきた歌声は何度も練習の時に聞いていた声とは別ものだった。
「……本当に王族が舞台に立つ場合は、関係者にもギリギリまで報せないんだな?」
それを耳にしたアレクサンダーはぎょっとして袖から舞台を覗いた。
そこに立つのは……!
「いきなり本番であの声量とビブラート。歌に感情も乗っているし……目の回る忙しさでどう練習時間をやりくりしているんだ? ……王太子殿下は、どんな完璧超人なんだ!?」
袖から覗く舞台演出の生徒の言葉にアレクサンダーはこれが現実だと確信する。
そう、この舞台の主役を演じるのは、セオドリック王太子殿下その人。
アレクサンダーは顔から血の気が引くのを感じ、二階の特別観覧席を覚悟を決めて端から順に見ていく。
暗がりで見えにくいがそこには間違いなくタニア王女殿下が座っていた。
それから、暗がりでも光をよく反射する白金髪を見つけ、その席の隅に彼女が立っているのも哀れにもアレクサンダーは確認してしまう。
…………。
「終わった……」
舞台の照明の明るさに目眩がする。
深い奈落の絶望につき落とされながら、アレクサンダーは崩れそうな震える膝をなんとか持ちこたえた。
こうして舞台の幕は悲劇から始まったのである。




