65私ときみとで歓談を。
髪を梳く、その指が心地いい。
――ふ、と
意識が浮上する。
同時に瞼が震える。
すると、それに気付いたのか、ゆっくりと温もりが遠ざかる。
その温もりを惜しむように、瞼を開けて視線を向ける。
「――グレン……?」
「―――ぁ……、」
視線の先には、金色の瞳に驚きを湛えた漆黒の青年が。
――あぁ、帰ってきたのね。
帰ってくるならあと一日早かったらよかったのに、とか
ひとが大変な思いをしているときに何処行ってたのか、とか
こんなに長く不在なら連絡の一つでも寄越してくれたらよかったのに、とか
言いたいことはたくさんあるはずなのに、目の前の彼を見るとまるで言葉が出てこない。
「えーと…、久しぶり、ね」
「あぁ、」
「――突然なのだけれど…どうして、寝室に…?」
当たり障りの無い問いかけに一瞬視線を彷徨わせた彼は、言いにくそうに口を開く。
「――フリアが倒れて…その…、」
「運んでくれたのね?― ―ありがとう」
言われてみれば屋敷の門まで来たことは記憶にあるが、その先が全く思い出せない。
つまり、敷地内で昏倒していた私を、非番明けで様子を見に来てくれたグレンが見つけて寝室まで運んでくれたということだろう。
――まったく、私は本当にグレンに助けてもらってばっかりね…。
苦笑を漏らしつつ起き上がる。
「――まだ、横になっておけば…?」
「もう大丈夫よ。うーん、でもそうね…。――グレン、ちょっと待たせることになってしまうけれど、いいかしら?」
了承の意が返ってきたので、いそいそと湯浴みの準備に取りかかる。
「侍女を呼ぼうか?」
「それだけは…ちょっと…」
私が何をしようとしているのかを察した彼は、寝室を出て顔だけこちらに向けつつ、少し気まずげに視線を逸らしながら問うてくる。
しかし、一連の出来事を思い出して、笑顔が引き攣る。
――湯浴みくらい、自分でしたい。
私の反応になにか納得したのか、グレンがそれ以上侍女を勧めてくることは無かった。
言葉にしなくても、察してくれるのはありがたい。
「――じゃぁ、なるべく早く戻るわね」
「いい。ゆっくりしてきなよ」
定位置に座り自分で飲み物を淹れながら、片手を上げるグレンに背を向けて部屋を出る。
――ぱたん、と扉が閉まる。
一人になった部屋でカップを傾ける。
「―――拒否は…、されなかったな…」
己の手を見詰め、呟く。
先程、寝室で彼女は己がそこに居ることを拒まなかった。
そればかりか、瞼を上げた彼女の視線は間違いなく己の指を追っていた。
――まるで、名残惜しむかのように。
両手の指先を絡めテーブルに両肘を付けて、絡めた指に額を当てる。
――期待しても、いいのだろうか。
――傍に居てもいいと、想ってくれているのだろうか…。
どれ程そうしていたのだろうか。
カップから湯気がのぼらなくなったころ、再び扉が開かれた。
「お待たせ、グレン」
「――もっとゆっくりしてきてよかったのに」
「だって、待たせてたらやっぱり気が急くもの」
本当に急いで支度をしたのだろう。
彼女の髪は未だしっとりと濡れている。
向かい側のソファーに腰掛けた彼女は両手に風を纏わせはじめた。
何をする気かと眺めていると、風を纏わせた両手で己の髪を梳いている。
どうやら髪を乾かしているようだ。
「――ねぇ、それ俺にやらせて?」
「――え…?」
答えを待たずに立ち上がり、彼女の背後に立つ。
風の魔術と炎の魔術を掛け合わせて、温風を纏った手で恐る恐る彼女の髪に触れる。
初めのうちは驚き、固まっていたフリアだが、徐々に肩の力が抜けていくのがわかる。
それに伴い、こちらもぎこちなさが消えていく。
「――熱かったり、しない?」
「えぇ、気持ちいいわ。魔術を掛け合わせて使うなんて、グレンは本当に器用よねぇ」
「フリアは、こうはしないの?」
「えぇ、私は風だけだから、冬はちょっと寒いのよね」
「練習すれば、できそうなものだけど」
「挑戦したことはあるのよ。でも、難しかったから諦めたわ。結局は乾けばそれでいいのだし」
「――そう」
ふ、と二人の姿が窓に反射して映る。
フリアは瞳を閉じて、己に為されるがまま預けてくれている。
さらさらと、徐々に軽くなっていく真紅の髪。
――もう少し、もう少しだけ…
そう思っているうちに、綺麗に全て乾ききってしまった。
「――これで、いい?」
「――ありがとう、グレン」
最後に仕上がりを確認して声を掛けると、フリアが振り返って満面の笑みで答える。
「誰かに髪を乾かしてもらうなんて、何年ぶりかしら」
「誰かの髪を乾かしたのは、フリアが初めて」
「そうなの? それにしては、とてもうまかったわよ?」
「――自分のは乾かすから」
首筋で一纏めにしている漆黒の髪をつまんで答える。
「――あぁ確かに、その長さを乾かすのなら上達しそうね」
納得したのか、彼女は笑う。
「ところで、グレン。髪型を変えたの?」
「――っ! なんで?」
「だって、いつもは腰辺りで緩く結んでいたじゃない? でも、今日は首の辺りでしっかり結んでいるから」
フリアの言葉に、ドキリとする。
腰の辺りで結んでしまうと、“長さの異なる一房”が目立ってしまうのだ。
「――まぁ、たまには。……変?」
「いいえ。私は、そっちの方が似合っていると思うわ。――それに今までの髪型だと、暗がりで見つけても、後ろ姿が殿下と見分けがつかないもの」
「っ!」
「まぁ、そもそも暗がりで殿下と出会うことは無いし、殿下なら暗がりでも白が際立って浮かんでいそうだから、見間違えることは無いでしょうけど」
カップに伸ばしかけていた手が止まる。
「―――…俺は…似てる…?」
恐る恐る問いかける。
彼女の返答によっては、この穏やかな日々が終わりを告げるのかも知れないのだ。
人知れず、鼓動が走る。
「うーん。そうねぇ…。やっぱり、背格好は似ているわよね。あとは…そうね…殿下、たまにグレンみたいな言葉遣いをすることがあるのよ。――そういうときは、似てると思うことが、無くもないわね」
――グレン、殿下の影武者とか出来るんじゃないかしら。
そう朗らかに微笑む彼女に、ホッと胸を撫で下ろしている己がいることに、嫌気が差す。
――いつまで、背を向けているつもりなんだ……!
唇を噛み締めるが、やはり言葉が出てこない。
「――グレン、あのね…」
「…うん? どうかした?」
ス、と姿勢を正した彼女に、つられて背筋が伸びる。
――なにを、言われるのだろう…
――やはり、正体に気付いて…
「――グレン、いつも、ありがとう」
「―――ぇ…?」
フリアの口から出たのは、何の変哲も無い感謝の言葉。
しかし、己に向けられる理由が思いつかない。
「テオ様から聞いたの。私をオズボーン国から連れ出す為に、グレンの魔力が枯渇してしまった、と」
「――――、」
「思い返せばここに来てから、私はグレンに助けてもらってばかりで…。――それなのに私が、グレンの為に出来る事は、何も無いの…」
「そんなことは、無い。――俺も、フリアに助けられている」
眉根を寄せて、辛そうに話す彼女の言葉を遮って、想いを伝える。
「力とか、そういうものばかりじゃ無くて……、ここに来ればフリアが居る。それだけで俺は、…満足だから…。オズボーン国のことも、俺がフリアにここに居て欲しかったから、迎えに行っただけで…。――フリアが、気に病むことは、何も無い」
そう言うが相変わらず表情は暗い。
「でも…グレンに、無理をさせてしまったわ」
「――じゃぁ、逆に聞くけど。もし俺が…。――魔力が足りなくて消えてしまいそうになったら、フリアは、…どうする…?」
「私の魔力をあげるわ。――今、持っている魔力を全て。……それでも足りなければ、私が生成できる限り全ての魔力をグレンにあげる」
真っ直ぐな瞳に射貫かれる。
彼女の言葉が真実、心からの言葉であると裏付けるかのような、揺るぎない瞳。
その強さに気圧されながらも言葉を紡ぐ。
「――それはフリアにとって、負担になるよね?」
「でも…。グレンが居なくなってしまうほうが、嫌だもの」
眉間に皺をよせ、ついには俯いてしまった彼女の隣に立ち、その頭に掌を乗せる。
まるで、幼子をあやす保護者のようだ。
「――つまり、そういうこと。……わかった?」
小さく一つ頷く気配が掌に伝わり、満足する。
――そうか、フリアは、
――俺が消えるのは、嫌、なのか…
ただそれだけの言葉で、こんなにも胸が満ちるのは、何故だろう。