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11/15 改稿しました。
「…あなたの神格に通じるのかどうか不安でしたが……大僧正様からお預かりした『密具』は何とか通じるようですね」
真理探究官ナーダは、カイの命をその手に掴んだことを確信したように呼吸を震わせた。
そしてその呼気が、引き攣れたひそみ笑いへと変化していく。
「気に入りの小人族の女が血まみれだったのには驚いたでしょう。感情が激しく揺さぶられると、神の護りが薄くなることがときおりあるのですよ。ラクシャ会派に伝わる神殺しの秘伝です」
胸から突き出ている刃先は、硬質な輝きはあるものの、よくある鉄や青銅のものではなかった。何か角か骨のようなものから研ぎだされたような、乳白色の切っ先がカイの血で染まっている。
噴き出しはじめた血がその刃を伝ってびちゃびちゃと落ちていく。
僧院に伝わる『加護持ち』殺しの武器なのか。
「あの変装の衣装を見て、拠点は小人族と取引のある西のほうと踏んではいましたが……密かに異形どもと通じて、まさか国造りまではじめているとは驚きました。栄誉ある貴族への誘いに乗らなかったのも頷けますね」
その得体の知れない白い刃を、傷口を広げるようにぐりぐりとこじられる。
もはや痛みとしても知覚できない灼熱だけが脳天を突き上げてくる。ナーダがおのれの心臓を念入りに破壊しようとしているのが分かった。
『加護持ち』の異常なまでの回復力を知っていれば、それは当然の処置であったろう。
「…《僧会》の高僧たちが危惧されていた通りに、処置を優先したのは正解でした」
「…うぅ、あ」
「新参の『加護持ち』は土地の呪いに抗いがたいものなのですが、良くそれに耐えて隙を見せませんでした。あなたは無教養など田舎の村人のくせに、分不相応な知恵がよく見え隠れする。あなたを油断させるために野に身を潜め、いつ墓所に参るのかずっと見張り続けていたのですよ? …恋人が死んでようやくたがが外れましたね」
広げられた背中の傷から、何かが強引にねじ込まれてくる。それがナーダ自身の手であることが体内でうごめく指の感触で分かった。そしてその手がカイのなかで何かを掴み取り、一気に引き抜かれた。
おのれの大切な何かを他者に奪われる屈辱と喪失感。とたんに意識が引き裂かれるように視界が二重映しになり、そのすぐあとに一方が剥がれ落ちていくように薄くなっていく。谷の神様の声が急速に遠のいていく。
焦点の定まらなくなったカイの目が、ナーダの手のなかにある白い塊を見る。
「『加護持ち』の息の根を止めるにはこうするのが一番手っ取り早いので」
「………」
「これがあなたの神石ですよ。《象形紋》まで顕した者の貴重な石です、めったに見られるものではありませんよ」
カイにそれを見せ付けるようにした後、ナーダはその狂おしい光をたたえた眼差しを虚空へと向け、いままでの鬱屈をすべて解き放つかのようについにけたたましく笑い出した。普段の理知的な様子とはまさに真逆の狂態であった。
「…由緒ある家に生を受け、血を吐く思いで研鑽に励んでも、後継に選ばれなければ家伝の御柱を受け継ぐことができない……カイ、あなたには想像できますか? …都にはおのれの命と引き換えにしても『空きの神』を欲する者がごまんと溢れているのですよ」
笑い声を収めてもその口もとは愉悦をたたえたまま、ナーダは勝ち誇るようにカイの死相の浮かんだ顔を見、まるで死者に手向けるように聖句を唱えた。
「『神』を与えられなかった名家子弟の大半は、おのれの血の誇りを取り戻すために、一縷の望みを託して僧院の門を叩くのです。かつてのわたしも、僧正様に拾い上げられねばいまごろどうなっていたことか…」
勝者の傲慢さで路傍の石くれでも見るようにしていたナーダの顔が、ややして離れていく。
もはや精気も抜けかけたカイの様子に、その死が揺るがしがたいことを確信したのだろう。
カイが禁足地としたために、谷底にはカイとナーダ、そして瀕死のアルゥエの三人しかいない。いまならばカイの死を待って、墓所近くに待機しているだけで次代の谷の神としてナーダは恩寵を得ることができる。
墓碑と対面するようにナーダは胡座をかいて、聖句を唱え始めた。それは神に帰依する信心深い高徳の僧侶の姿だった。
カイが死に、谷の神の恩寵がその身に下されることを、修養の中で待つつもりなのだろう。
カイは薄らいでいく視界に、おのれのすべてを奪おうとしている男の姿を捉え続けていた。別にそうしたかったわけでもなく、もう首も動かないのだ。
あれが、次代の谷の主になるのか…。
カイが死に、アルゥエも死に、谷縁の小人族たちも亜人種を受け入れぬこの男に殺されるのだろう。考えの足りない愚か者に帰依などしたばかりに、結局は豚人ではなく人族の腐れ坊主の手に掛かることになってしまうのだろう。
鹿人の女のことも思い出す。あいつは運がいい。うまくすれば腐れ坊主の目を逃れて生き残れるだろう。
諦観が全身の緊張を弛緩させていく。大切な女を自らの手で殺してしまった報いだと思えばそうなのかもしれない。エルサはじきに死ぬ。ならば自分もここで死んでも構わないか。辺土の人間の命はあまりに安い。生き続けたところで何かいいことがありそうならばもう少しあがく気にもなるのに、幸せというものが何も具体的に思い浮かばない。
血が抜けたせいか、おのれが恐ろしく空腹であったことを思い出す。
そういえばエルサの付き添いに意地になって、もう三日も何も口にしていなかった。
(やっぱ『おにぎり』は喰えずに死ぬのか…)
脳裡に浮かんだその黒い塊は、麦をそのまま蒸したような粒が端っこに露出して艶々と輝いている。おいしい食べ物なら、エルサにも食べさせてやりたかったと思った。
《カイ》
誰かが名を呼んだ。
指ひとつ動かせないぐらいに疲れ果てているのに、そのときカイは不思議な浮遊感に包まれていて、いとも易々と声のしたほうを見ることができた。
もうそのときには世界はうつつの姿を失い、底の見通せない深い暗闇に覆われている。おのれの手指さえも目には見えないその漆黒の闇の向こうで、か細い声が起こる。
あまりの暗闇にカイが探しあぐねている間に、また名前を呼ばれた。
《カイ…》
さびしげなその声が、エルサのものだとなぜだか確信する。
遠くで不安そうに呼び続けているその声を聞き、カイは護ってやらねばと思う。そうしていまおのれが、彼女を護るべき肉体を失おうとしている現実にはたと意識が立ち戻った。
すすり泣く声が聞こえた。
行ってやらねばと思った。
生きねば。
カイの意識が奇跡的に賦活する。
横たわり、身動きひとつままならなくなっているおのれを再確認する。
もうほとんど無意識に全身から手繰り寄せたなけなしの霊力を束ねて、そのありったけをおのれの身体に穿たれた『穴』に注ぎ込む。寸前まで『加護持ち』であったよすがか、『穴』は恩寵の残滓で半ばふさがりかかっているようだった。
死に掛けているというのに霊力が思った以上に集まってくる。おのれの『神石』はすでに奪われていたが、『加護持ち』として直前まで豊富な霊力に浴していたことでそれなりに残りカスがあったのだろう。
カイという人間のしぶとさをナーダはいまだ知らずにいる。カイは谷の神の加護を得たことで飛躍的に強くなったが、その器である肉体もそれ以後に口にした多量かつ高品質な髄によって、ずいぶんと強靭さを増していたのだ。
(動け)
急場で穴をふさいだ心臓が、どくりと鼓動を再開する。
全身に熱が廻り始める。
カイは実地の経験としてひとつの真理を知る。
(…『神石』自体はなくても生きていられる)
特に生命維持活動に寄与しているわけではないあの丸い骨は、魂そのものを抉り取られるような巨大な喪失感をもたらしたものの、肉体が生存を続けるうえで絶対に必要なものではないと分かる。あれはこの世界の『仕様』に準拠した『魔法器官』でしかないのだと、カイのなかで誰かが声高に主張する。
『神石』とは、その持ち主の心のありようを受肉させた『精神器官』であるのかもしれない。次がもしもあるのなら、『神石』を奪った後であっても、首を刎ねておくことにしよう。そうカイは思った。
ナーダはもう完全にカイに対する興味を失い、墓所に祈りを捧げることに集中している。谷の神様におのれがいかに信心の篤い人間であるかを必死に証明しようとしているかのようだった。
カイは物音を立てずに小屋のなかで身体を起こし、いまにも息絶えそうになっているアルゥエのそばにまで這いずっていった。加害者が一緒であるからなのか、アルゥエも胸を一突きにされていた。
その傷口に手を当てて、『治癒魔法』を注ぎ込む。残り少なかった霊力がさすがに枯渇しかかって、心臓が不安定にバクついたが、どうにかアルゥエの肺腑に開いた裂傷をふさぐことに成功する。幸運にも彼女の心臓は無傷で、肺からの出血で命を落しかけていたのだ。
(…治れ)
呼吸を困難にさせている気道の血を、最後の霊力を振り絞って、念じて押し出してやる。
アルゥエの呼吸がすぐには戻らない。
(起きろ)
カイは無言の叱咤とともにその頬を叩いた。
アルゥエがびくりと動いた。
そうしてその薄い胸が呼吸にゆっくりと上下し始める。その呼吸が続くことを確認した後に、カイはゆっくりと立ち上がった。
アルゥエもそうだが、残り少なかった霊力では完全な治癒は望めず、臓器への致命傷を修復しただけで体皮そのものの『大穴』は開いたまである。胸から背中へと、すうすうと風が抜けて行くようなおかしな感覚があった。
半分死人のようなていで立っているおのれのひどい姿に、カイはいまの状況がそう長くもないことを理解していた。身体に異常な頑健さで持っているだけで、しばらくも掛からずおのれが完全に死ぬだろうと感じた。
目的さえ果たせたなら、もう後のことはいい。
あの坊主を、殺す。
(殺せ!)
谷の神様の声が聞こえた気がした。
収まらなかった…。
よくあることです。