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何とか更新。
思いのほか長くなった巡察使一行の滞在……その接待続きで生じていた終わりの見えない緊張から解放された村人たちは、久方ぶりの熟睡に身を投じている。
くじ運の悪い遅番以外はみな寝床で寝静まっているだろう静けさの中、ひっそりと起き出したカイは、足音を忍ばせて行動を開始した。
感覚は恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。どんな物陰になっていようと、そこに人がいればたちどころに感知できた。ゆえにカイは誰の目にも触れることなく、女宿舎の中にまで易々と潜入を果たしていた。
そうして予想以上に静かな女宿舎の中を進み、目的の場所であるエルサのいる部屋にまでたどり着く。貴重な灯明があるのは廊下のみで、部屋の中は真っ暗だった。重篤とはいってもいますぐに命の危険があるわけでもないらしいエルサについている看護はいない。
人がいないからこそ分かる、部屋にこもったすえたような生臭いにおい。その顔をしかめたくなるような澱んだにおいが、わずかに焚かれた香木のそれでなんとかごまかされているのが知れる。臭いを誤魔化すという女の細やかさに自然と頭が下がる。
エルサもベッドで静かに身を横たえているようだったが、寝苦しいのか身じろぎしている気配がある。
カイは素早く忍び寄って、その耳元に口を近づけた。
「…エルサ」
「…ッ」
やはり寝ていなかったのか、エルサが反応した。
そうして反射的に悲鳴を上げそうになるのを、さっと手で口をふさいで押しとどめる。
「静かにして。すぐに出てく」
「……カイ?」
「…ごめん。どうしてもエルサと話したかった」
「………」
エルサが身体から力を抜いたのが分かった。
部屋の明かりがまったくついていない、自分の指先さえ見えるかどうか定かでない暗がりが、彼女の『不安』を軽減させたのだろう。さっきまでの強い拒絶は影を潜め、ひしっとしがみついてくるかのような精神的な近さを感じる。
彼女の手が、探るようにカイの身体を触りながら上がってきて、それをおのれの手でそっと捕まえる。絡み合った指先に、ぎゅっと力がこもった。
「…わたし、もうだめ、みたい」
「…オレがどうにかする」
「…わたし、死ぬのはいや」
「オレが助ける」
顔をさすってやりたかったが、彼女の傷が深いのはその顔も含まれていたので、何とか自制する。
エルサのかすかな嗚咽と、震える手。
「…蛙野郎は、オレが殺した」
「…ッ」
カイの告白に、エルサが身震いしたのがわかった。
そして絡めた指に強い力がこもった。
「…そうかな、って思ってた」
「エルサ」
「あんまり、無茶しないで」
まがりなりにも高位の『加護持ち』であるとされていた巡察使を、村の一兵士にしか過ぎないカイが殺したといっているのに、エルサは何の疑問もなく受け入れた。
おのれの選んだ男が『当たり』だと確信している、女性特有の盲目さであったのだろうか。カイは隠し持っていた『神石』をエルサの手に握らせながら、「これが何か、分かるか?」と聞いた。
「…分からないよ」
少しだけおかしそうに笑って、彼女の手が『神石』をまさぐった。触っただけではたしかにただの石と変わるところはないだろう。
カイはゆっくりと、エルサが必要以上に驚かないように告げた。
「これを喰えば、エルサはたぶん治る」
「……?」
「…これは蛙野郎の『神石』だ」
「…ッ」
「こいつの髄を食えば、たぶんエルサは一気に強くなる」
そうしてカイは、戦場で敵の『神石』を食った兵士がどんどんと力をつけている実体験を語る。『神石』を食べたご利益が兵士筆頭のバスコの頑健さのもとであり、少し前までいたオルハ様の加護に比肩するほどの坊さんの強さの種であることを説明していく。そのあたりの理屈について、村の女性はあまり知らないと思われているのだ。
エルサは、渡された『神石』を信じられないというように握っていた。
「『加護持ち』は、エルサの傷ぐらいならすぐに治っちまう。…その髄を食えば、もしかしたらすぐに治るかもしれない」
「………」
「あんなやつでも、おんなじ人族だ。気持ち悪いかもしれないけど…」
「…食べる」
「…わかった」
エルサの決断は早かった。
むしろ迷う必要がどこにあるのかというほどの雰囲気だった。
カイは指先に魔法の剣を発動させると、果物の皮を剥くように上のほうを丁寧に削いだ。
そうして枕元にあった彼女専用のものなのだろう、小さな木匙で髄の小片を掬い取った。それを口元に運んでやると、わずかの躊躇の後、彼女はそれを口に含んだ。
「……うぅぅ」
が、エルサはそれをすぐに吐き出してしまう。
吐き出すばかりか、それが呼び水となって胃のなかのものまで盛大に吐いてしまった。何度もえずいて「嫌、まずい」と苦しそうに言った。
『神石』の髄は基本美味いはずなのだが、彼女の漏らした不評にカイも素直に同調を覚えてしまう。あの蛙野郎の身体の一部だと思うだけで、いつもなら食欲をそそって止まない琥珀色のそれに忌避を覚えるのだ。
やはり無理か、と落胆しそうになったカイであったが、エルサの手が服を掴んで引っ張った。
「…嫌だけど、……食べる」
人間、命が掛かっていればどんなことだって我慢できる。ここで諦めればただ緩慢な死が待っているだけの人生に、彼女は必死で抗おうとしていた。
口に含み、何度もえずきながらも少しずつ喉に送り込んでいく。ほんの匙一杯の量を食べただけだというのに、エルサはおのれの身体に起こりつつある劇的な変化に気付いたようだった。
やがて胸を押さえて悶えはじめる。歯を食いしばって声をかみ殺しているのは、仲間たちの睡眠を妨害しないようにとの気遣いなのか。ぎりぎりと歯を噛みしめて、ベッドの中で静かに苦鳴する。
そうしてカイの見守る中、持ちあがっていた彼女の上体が急にすとんと沈んだ。見れば気絶しているのが一目瞭然だった。
「エルサ」
カイの呼びかけに彼女は反応しない。
その健やかさを取り戻した寝息に、胸がゆっくりと上下しているのを確認して、試みが成功したのだとカイも安堵の息を吐いた。
谷の神様の加護を貰ったときのカイも、瀕死の状況から劇的に回復した。エルサに与えた蛙の『神石』は、取り出してもう日が経っているので神様自体は抜け出していなくなっているだろうと思う。戦場で手に入りやすい亜人種の平兵士よりも少しばかり質の高い、その程度の『神石』だろうと思うので、食べてすぐに全身の傷がふさがるような治り方はしないと踏んでいる。
たぶん、それでも出血程度は止まってくれるだろう。
カイは傷に触らないようにエルサの髪を撫でて、名前を何度も呼んだ。
「誰かいるのかい!?」
突然部屋の外で人の声が起こり、人影が入ってきた。
気を付けていても寝静まった宿舎の中では、やはりそれなりに声が大きかったのだろう。
「…なんだ、エルサの寝言かい」
入ってきた女はエルサの寝息に手を当てて、彼女が深い眠りについていることを確認すると、ふうと大きくため息をついて「やっと寝られたんなら何よりさ」と、はだけていたシーツをかけ直した。
もうそのときには、カイの姿は女と入れ替わりに部屋から抜け出そうとしていた。女は不審者がいたことに全く気付くことなく、寝ているエルサに何事か囁きかけている。
明日には、もしかしたらエルサは本当に元気になっているかもしれない。看護の女がそれに驚くさまを見たいなとカイは思った。
本当は朝まででもずっとここにいたいのに。皆が驚くところに自分も一緒に立っていたいのに……そう痛切に思う。
高ぶる気持ちをこらえるように、カイは手のなかの『神石』を握りしめたのだった。
…そして次の日の朝。
カイの望みは、半分はたしかに叶えられたようだった。
辺りが明るくなるころには女宿舎がそのことで騒然となり、噂は瞬く間に村中に広がった。
巡察使に斬られて寝込んでいた女が、命を取り留めた。
それどころか全身にあった切り傷がもうほとんどふさがっていて、包帯を取り換えるときにそれに気づいた女たちが、奇跡が起こったと泣いて喜んだ。
持ってあと数日だろうと言われていた瀕死の重傷が、一夜で劇的に回復したのだ。たしかに奇跡以外の何ものでもなかったであろう。
その噂に朝の食堂で接したカイは、もくろみ通りだとほくそ笑んだのだが……噂が伝えていたもう半分のほうを耳にして、彼はわが耳を疑ったのだった。
「その女、治ってんのに目ぇ覚まさないんだってな」
生死の境をさまようような大怪我から回復したというのに、エルサは朝になっても目を覚まさなかった。
彼女は昏睡してしまっていたのだ。