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思いとどまれとみなが言った。
なにを言っているのか意味が分からなかった。
大切な仲間がふたりも殺され、さらにはエルサまでも……目の前に身体じゅうを切り刻まれて寝たきりになっている少女さえいるというのに、なぜそれをしでかした犯人を野放しにするのか。
都から来たお役人?
中央のお貴族様?
それが何だって言うのだ。ここは都ではないし、国王様の威令などそよ風程度も届いてこない大田舎だ。何を憚る必要があるというのか。
「…国王様をないがしろにした土地は、滅んでしまうの」
「呪いを受けて枯れて滅んでしまうのよ」
女たちの口から出てくるのは世迷言だらけだった。
村の女がひどい目に合わされたというのに、なぜご当主様たちは怒るどころかさらに腰を低くして暴漢を遇しているのだろう。
怒りで振り切れかけたカイの頭に、そのとき言葉の冷水が浴びせられた。
「国王様がなぜ『王様』であられるのか……それは陛下そのものが『国』であるからです。…国の礎を定められた『王神』の恩寵を、陛下はその身に受けられているのです」
声がした。
部屋の入口から顔を出していたのは、坊さんだった。
「人族の国……それがいまの形に定まったのは千年以上も昔のことです。初代ヤシャダラ王が『王神』へと登り、その麾下にあった12柱の神将が列神として礎されたのが始まりだったといいます。国造りの神話はそのように伝えております。…勘違いされてはいけません、人族の土地を国王様が治めているわけではなく、国王様がおられねばそもそも存在しないのがこの国なのです」
カイはそのまま坊さんの客間まで連れてこられた。
そしてこんこんと短絡的な怒りを捨てるように説諭された。
最初は坊さんが良くやる難しい問答なのかと半ば聞き流していたのだが、そうではなくてそれは『加護持ち』が本来知っているべき知識の伝授をしているのだと分かった。
「…初代王が神将らとともに礎されるまで、人族の土地は恐ろしい悪鬼邪神の荒ぶる、魑魅魍魎の支配する世界であったようです。御伽噺ではありませんよ、これはれっきとした学問……書き残された書物に記されていた大昔の事実なのです」
「………」
「もちろんわたしも含めて、そのような世界を実際に見た者はいまの世には一人もいません。しかしあなたも耳にしたことぐらいはあると思います。…住人がいなくなった村はとたんに寂れ、土地の神は格を落としてしまうという因果……このラグ村を治めるモロク家にも、住人の逃散した村がふたつあり、伝来の土地神の御霊がずいぶんと弱ってしまっているそうですね」
カイも知っているだろう簡単な事実から彼の理解を引き上げようとしてくれる。たしかに人がいなくなったエダ村の土地神は、神格が落ちている。白姫様が墓所の守りを真剣にやっている理由である。
次第に開かれていくカイの目を見て、坊さんも身を乗り出すようにしてくる。
「土地神が力を失うと、土地はみるみる活力を失います。作物の育ちも坂を転がり落ちるように悪くなっていきます。『加護持ち』であるならば必ず知っているべき知識ですが……その逆の事例も世にはたくさんあるのです。この地のご領主、ヴェジン様がその身の鍛錬に熱心であられるのも、おそらくは村の収穫を増やすことがそもそもの目的であられるはずです」
坊さんの強い光を宿す目に吸い込まれていきそうな錯覚に陥る。
「あの問題の多い方をそれでもヴェジン様たちが敬おうとするのは、その後ろに国王陛下の『ご信任』が見えるからなのです。ラグ村がヴェジン様の土地であられるなら、国王陛下の土地はこの統一王国の版図すべてがそうだといえます。ゆえに国王陛下のご勘気は、土地に対する悪影響をたしかに生みかねないのです。村の女性が口にされた『土地への呪い』とは、そういうことです」
「…でも、オレは許せそうにない」
「…あの娘さんは」
「…よく分からない。…でもたぶん、オレのものだ」
「…はぁ、そういうことですか」
小さなため息とともにわずかに思案するそぶりを見せた坊さんであったが、それがずいぶんと芝居掛かったものにカイは感じた。この坊さんは、おのれの味方なのだろうか。それとも敵なのだろうか。
土地神の加護もなしに『神紋』を得るまでになった人間というものに不思議を感じる。『神紋』という言葉に騙されてしまいそうになるが、あの隈取りは神様を宿しているから出るわけではなくて、ただその人の持つ超常力の表れとして出現しているということだ。
どれほどの『神石』を食べ、厳しい鍛錬をしてきたのだろうと思う。それほどまでに『加護持ち』とは常人からかけ離れた力を持っているのだ。
「…あの方をそれでも罰したいというのなら、ひとつ提案させてください」
坊さんがカイを見つめながら口を開いた。
取り繕ってはいるものの、ずっと言いたくて仕方のなかったことをやっと口に出せたというような、喜びの色がその目にはあった。谷の神様の影響なのか、前世の経験の断片がそう感じさせたのかは分からない。
「カイ、あなたが何らかの方法で『加護持ち』になっていることは知っています。ごまかそうとしなくても結構です、この目で……百眼の技をもってしかと見届けたのですから」
カイが無意識に放った殺気にも坊さんは動じなかった。
この坊さんもここで殺すべきなのか。どれほどこの坊さんが得体の知れない武術を身につけていたとしても、谷の神様の加護が圧倒するに違いないと踏んだ。
カイの目とそのわずかな身じろぎで、機微を察したのだろう。
「早まらないでください」と坊さんは少しだけ身を離して、おのれは手出しするつもりなどまったくないと言うように手振りした。
「…だれにも言うつもりはありません。辺土には亜人に敗れて廃された集落がいくつもあると聞いています。そのようなうち捨てられた土地神と出会い、たまたま加護を得たというのならそれはそうなるべくしてなったとしか言わざるを得ません。…あなたはこの国で『領主』となる資格を得たのです」
「………」
「しかるべき手続きを踏み、そして願い出れば……あなたは加護を得た土地神のおわす土地を領地とする貴族になれるということです。そして統合王国では加護を持つ貴族同士は、より高みを目指すために挑み合う権利が古法により認められています。いまでは野蛮な法として忌避され、忘れ去られたようになっていますが、王国の法典にはいまだにしっかりと記載されています。…領する土地への『呪い』を気にしないのであれば、挑むこと自体はまったく問題がありません。…そして挑まれた側は、神格が上手の者は戦いを拒絶することは許されません」
膝を叩いて、さも痛快そうにこちらを覗きこんでくる坊さん。もしかしたらこの坊さんもあのわがまま放題の傲慢な中央貴族が嫌いだったのかもしれない。
いや、その振りをしているだけか。
カイのなかには冷静さが広がっている。
そんなカイの様子を、坊さんは怒りのためと見ているようだった。
「手続きはお任せしていただければわたしが代わりに行って差し上げましょう。なに、手間のかかることではありません。誓紙を血書していただき、それを大僧院から王家へと上げる手続きを踏むだけですから。誓紙の文面はもちろんわたしのほうで…」
「知らない」
カイは思ったままに口にした。
理屈ではなく本能がそう口にさせた。
「……仕返しを望まないのですか?」
「オレはただの村人だ。意味が分からない」
「………」
カイはまだ一言もおのれが『加護持ち』であるという指摘に肯定を示してはいない。坊さんが勝手に話を進めているだけだ。
「カイはわたしの言葉を信じないのですか? あの豚人の巨大な戦士との死闘をこの目でしかと見たといっても、信じられないのですか?」
「何のことか分からない」
「……なるほど、そういうことですか」
カイにはどれほどの考えもなかった。
坊さんはしかし勝手に解釈したようで、どうやらカイが見かけによらず駆け引きに慣れていると思ったらしかった。
「…何もなかったことにしたいと、そういうことにしたいのですね」
「………」
「なぜ力を隠したままでいたいのかは理解ができませんが、何か事情があるのでしょう? 分かりました、これ以上はやめましょう。……そんないますぐにわたしを殺しそうな目で見ないで欲しいですね。了解いたしました。このことについては今後わたしの口からは漏れないことを神に誓わせていただきます。カイとわたしだけの秘密です」
カイの示した明確な殺意に、坊さんはすぐに態度を改めて約束した。
僧侶の誓いがある程度信頼のおけるものであることは常識である。どれほど不便な僻地でも渡り僧は約束すればやってくるし、手渡すと誓った届け物は僧本人が死にでもしない限り必ず相手の手に渡る。嘘偽りのない生き様を神に誓っているのだと聞いている。
《殺せ》
谷の神様ははっきりとそう言っている。
だがこの部屋に坊さんとカイがふたりっきりでいることは大勢が知っている。ここで坊さんを殺せば、カイはもう村にはいられなくなる。
いずれ出ざるを得なくなる日がくることは分かっているが、いまはダメだ。あのひどい状態のエルサも放ってはおけなかった。
「…このままだといつか殺されてしまいそうなので、ひとつ恩を売っておきましょう」
坊さんはカイが闇雲に襲い掛かってこない分別を見せたことで、少し落ち着いたふうに椅子に腰を落とし、小さく息を吐いた。
本気とも冗談ともつかぬ様子で、坊さんは言った。
「…国にまつろわぬ他所の神が、人族の地にやってきてそこの『加護持ち』を殺す。よくある話です」
この坊さんは本当に食わせ物のようである。
恩を押し売りされているのだと分かった。
「人族でない……亜人のふりをしていれば、バレなければおそらく問題はないと思いますよ」
カイは即座に行動を開始した。
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