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第32話 最後の帰路 - モーテル

陸念安はゆっくりと車をモーテルの入口車道へ滑り込ませ、受付前に停車した。


窓を下ろすと、山の空気がわずかな湿気を含んで車内へ入り込んでくる。


「すみません、空き部屋はありますか?」


彼女が顔を出して尋ねると、受付のスタッフは端末を一瞥し、頷いた。


「はい、空室ございます。ご宿泊ですか?」


「はい」


陸念安は即答した。


「四時間ほど休みたいのですが」


スタッフは営業用の笑みを崩さないまま答える。


「申し訳ございません。当館は最短六時間からとなっております」


「カードは使えますか?」


「ご利用いただけます」


差し出されたカードが決済端末を通ると、短い電子音が鳴った。


取引完了。


スタッフは窓越しに、部屋番号の付いた鍵を手渡した。



車はすぐに指定された番号のガレージ前へ移動した。


陸念安はリモコンを押す。


鉄製のシャッターがゆっくりと持ち上がる。


彼女は後退しながら車を入れ、無駄のない動きで正確に駐車した。


完全に収まったのを確認すると、シャッターは再び降りていく。


外界と空間が、完全に遮断された。


二人は車を降りた。


ガレージの脇にある目立たない鉄扉へ向かい、それを押し開ける。


中には、二階へ続く狭い階段があった。


上階は簡素な部屋だった。

小さなバスルームと簡易キッチン、ダブルベッド、それと小さなテーブル。


夏玖微はすぐには座らなかった。


部屋の中をゆっくりと一周する。


しばらくして足を止めると、小さく呟いた。


「とりあえずクリーン」


声は静かだが、確信があった。


窓へ歩み寄り、カーテンを完全に閉め切る。


その瞬間、部屋は外界から切り離された。


――まるで、仮初めの世界のように。



夏玖微はベッドに腰を下ろし、複雑な表情を浮かべていた。


視線を陸念安へ向ける。


「もう、上位層に捕捉されてる」


一拍置く。


「それでも……私と一緒に行くつもり?」


部屋に静寂が落ちる。


陸念安は彼女を見つめ、ふっと笑った。


そして近づき、夏玖微の手を取る。


「私は永遠にあなたのそばにいる」


声は驚くほど穏やかだった。


そのまま、自然な仕草で髪をそっと撫でる。


呼吸と同じくらい当たり前の動作。


夏玖微は視線を落とした。


その一瞬、確かに心が揺れた。


指先に力が入り、そしてゆっくり緩む。


言葉は、あまりにも単純だった。


単純すぎて、否定できない。


「じゃあ手早く終わらせよう」



二人は部屋の中に、わざと“生活の痕跡”を残した。


蛇口を開けては閉め、水滴を洗面台に残す。


ベッドのシーツをわずかに乱し、完全には整えない。


テーブル上の物も、ほんの少しだけ位置をずらす。


「誰かが滞在していた」と錯覚させるには十分な程度。


作業を終えると、二人は素早く下へ降りた。


車へ戻る。


シャッターが再び開く。


誰にも気づかれることはない。


目立たない一台の車が、モーテルを後にする。


そしてそのまま――


山のさらに奥へと、迷いなく進んでいった。



某所。


中年の男がソファに横になり、うたた寝をしていた。


ブー——ブー——ブー——


彼は眉をひそめ、寝返りを打つ。


「うるせぇな……誰だよ……」


スマホを手に取り、画面を見る。


通知はない。


一瞬、空気が静止した。


次の瞬間――


男は完全に目を覚ました。


「……くそ」


勢いよく起き上がり、横に置いてあった特殊通信端末を掴む。


画面が点灯する。


そこに表示された一行。


【蒼白インデックス:第七層】


「半年も休めてねぇのに……」


低く呟く声には、明確な疲労と苛立ちが混じっていた。


「人手不足ってレベルじゃねぇだろ……ガキ一人追跡させるとかよ」


文句を言いながらも、任務データを素早くスクロールする。


内容は驚くほど少ない。


ほとんどが最低限の識別情報だけだった。


そして最後の一行。


【養育者:燼】


指が止まる。


空気が一瞬で凍りついたように感じた。


次の瞬間。


男の表情が完全に変わる。


先ほどまでのだるさは消え失せ、代わりに本能的な警戒が宿る。


三十分も経たないうちに、男は着替えを終えていた。


無駄のない動き。


そのまま一切の躊躇なく、部屋を飛び出す。


――彼はまだ知らない。


その少女の資料を見ていたその瞬間、紫の瞳もまた彼を見返していたことを。



「クレジットカードで位置は割れてる」


夏玖微は助手席に座ったまま、淡々と言った。


「ここからは時間勝負」


ほんの少し前。


誰かが自分たちの情報を読み取った瞬間、彼女もまた“それ”を見返していた。


二人とも理解している。


完璧な偽装とは、決して「完全な隠蔽」ではない。


むしろ――


“合理的に破綻して見えること”だ。


彼女たちはただの普通の人間。


追跡技術も、監視回避能力もない。


旅の目的も単純そのもの。


長距離運転の途中で疲れたから、モーテルで数時間休み、そのまま祖父の家へ向かう。


それだけ。


すべてが“自然”である必要がある。


夏玖微は時計を見て、頭の中で素早く計算する。


あの中年男が動き出してからここまで来る時間――


彼女の目がわずかに細くなる。


「まだ間に合う」


声は小さい。


しかし十分だった。


彼女たちが進むべき距離――


モーテルから祖父の居場所までの単独ルート。


陸念安は何も言わず、アクセルを踏み込んだ。


車の速度が静かに上がる。



それから約一時間後。


前方の道路は臨時に設置されたスパイクで封鎖されていた。


両側には監視ポスト。


二人はその前で車を止める。


――視線の範囲内。


だが、その大きなセダンも、乗っている二人も、誰の目にも入らない。


視線は通過するが、そこに“認識”が発生しない。


存在そのものが認識されていないかのように。


夏玖微は素早く車を裏世界へ収納した。


二人は車を降り、封鎖線を跨ぐ。


動作は無駄なく、静かだった。


次の瞬間。


再び車が現れる。


二人は何事もなかったように乗り込み、そのまま発進する。


すべての工程に、異常は生じなかった。



その後の道中。


夏玖微は時折、森の中に垂れ下がる濃い黒い糸のようなものを見た。


まるで監視網のように張り巡らされている。


その糸を辿ると――


樹影の間に、十数名の特殊部隊員が潜伏していた。


ギリースーツを纏い、気配を完全に殺している。


しかし、それでも。


彼らの視線は何度もその車の上を滑っていく。


止まらない。


認識されない。


まるで――


その車だけが、最初から“見る価値のない存在”であるかのように。

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