第26話 大学生の冒険-こっくりさん~こっくりさんより危険な少女「J」~
夏玖微と陸念安の姿は、一瞬で裏世界の廃墟ビルの屋上へと現れた。
その建物は構造の単純な、巨大な箱型のコンクリート建築だった。
外観は、とうに廃業した古びたデパートのようにも見える。
側面には鉄製の梯子が張り付くように設置されており、地上から最上階まで一直線に伸びている。
そして二人は、その建物の頂上に立っていた。
屋上は広く静まり返っていた。
高所ゆえに視界は開けており、周囲一帯の裏世界を見渡すことができる。
黒い霧のようなものが、空気中をゆっくり流れていた。
見渡す限り広がるのは、虚無と荒廃。
崩れかけた建物があちこちに点在し、まるで忘れ去られた遺骸のようだった。
その表面には、不気味な緑色の植物がびっしりと繁殖している。
死んだような世界の中に、歪んだ生命だけが根を張っているようで――
そのせいで、この世界は生きているようで、どこか壊れて見えた。
屋上の中央には、不自然に小さなコンクリート小屋が建っていた。
縦横ともに二メートルにも満たない。
狭く、圧迫感のある空間だった。
――チン。
不意に響いた音が静寂を破る。
灰緑色の鉄扉が、ゆっくりと開いた。
そこから、若い男女数人が姿を現した。
夏玖微はわずかに目を見開く。
その中の数人の女子生徒に見覚えがあった。
――今朝、「探検しよう」と誘ってきた同級生たちだ。
彼らは恐る恐る外へ踏み出し、緊張した表情で周囲を見回していた。
明らかに、この世界が初めてなのだと分かる。
そのうちの一人が、不安げに後ろを振り返る。
だが、先ほどまで通ってきたはずの空間は、今では一人立てる程度の狭いコンクリートの小部屋に変わっていた。
まるで最初から他の出口など存在しなかったかのように。
四人は小声で何かを話し合っている。
声を潜めるように、早口で話していた。
けれど彼らは、気づいていなかった。
少し離れた場所から、静かに自分たちを見つめている夏玖微と陸念安の存在に。
数時間前。
市街地にある焼肉店。
三人の女子大生と四人の男子大学生が、テーブルを囲んで食事をしていた。
「先輩、このあと都市伝説やってみません?」
金髪の女子が、肉を食べながら楽しそうに提案する。
「え? それがお前たちの言ってた用事?」
細フレームの眼鏡をかけた男子が、不思議そうに聞き返した。
「そうだよ? ダメ?」
彼女は大きな目で向かいの先輩を見つめる。
「いいじゃん。一回くらい付き合ってよ。」
他の二人の女子もすぐに乗っかる。
「こいつには期待するなって。こういうのは俺らの出番だろ。」
別の男子たちが笑いながら茶化した。
眼鏡の男子は少し考え込み――やがて小さく頷く。
「……分かった。」
◇
夜の大学キャンパスは、人影も少なく静まり返っていた。
「じゃじゃーん――」
金髪の女子がわざと声を潜め、廊下に不気味な雰囲気を作り出す。
「ここ、うちのサークルの部室なんだ。普段あんまり人来ないから、都市伝説試すにはちょうどいいんだよね」
彼女は、いくつか簡単な“遊び”を紹介していった。
「先輩、一緒にコックリさんやろ?」
そう言って眼鏡の男子の腕を引っ張り、さらに別の男子も呼び寄せる。
「でもコックリさんって日本語で返事するんだろ? 読めるのか?」
眼鏡の男子が少し眉をひそめる。
「だから先輩が必要なんじゃん。日本語できるでしょ?」
彼女は笑いながら彼を見る。
眼鏡の男子は、三人の女子を見た。
――今朝も彼女たちは、「日本語を手伝ってほしい」という理由で自分を呼び出していた。
少しだけ苦笑する。
「……分かった」
「じゃあ残りのみんなは、隣の倉庫で四隅さんやってみてよ」
金髪の女子はそう言いながら、他の二人の女子へ意味ありげな視線を送った。
人の少ない場所。
少し怖い空気。
そういうものは、いつだって人との距離を縮めやすいのだから。
◇
サークル部室の中には、三人だけが残っていた。
彼らは折りたたみ式の机を囲むように座っている。
机の上にはA3サイズほどの紙が広げられていた。
上下には赤ペンで描かれた鳥居のマーク。
中央には「はい」と「いいえ」、そして0から9までの数字。
その周囲を、歪んだ五十音がぐるりと囲んでいる。
眼鏡の男子はそれを一瞥し、わずかに眉をひそめた。
金髪の女子は紙をきれいに広げ、ぱん、と手を叩く。
「よし、じゃあ始めよっか」
彼女は十円玉を取り出し、他の二人に指を軽く乗せるよう促した。
その動作の途中、彼女の指先がさりげなく綾澄に触れる。
三人は目を閉じ、小さな声で呼びかけを唱えた。
「こっくりさん、こっくりさん、どうぞおいでください。いらっしゃいましたら、『はい』へお進みください」
次の瞬間。
硬貨が、わずかに動いた。
そして――「いいえ」へ滑っていく。
三人は目を開けた。
「あ、場所間違えてた」
金髪の女子が少し気まずそうに笑う。
「もう一回ね」
その一言で、場の空気は一気に和らいだ。
三人は再び目を閉じる。
「こっくりさん、こっくりさん、どうぞおいでください。いらっしゃいましたら、『はい』へお進みください」
今度は、硬貨は素直に「はい」へ移動した。
三人は目を開ける。
だが、特に驚いた様子はない。
「こっくりさん、ここで一番かっこいいのは誰ですか?」
金髪の女子が、軽い調子で最初の質問を投げる。
硬貨はわずかに眼鏡の男子の方へ傾き、それから「はい」へ戻った。
「えー、綾澄ってそういうタイプだったんだ?」
もう一人の男子が思わず茶化す。
綾澄は眉を寄せ、どこから力が加わっているのか、頭の中で素早く分析していた。
もし自分も相手も力を入れていないなら、
曉月一人だけで、本当にここまで自然に動かせるのか――?
「もう、からかわないでよ。ただの遊びなんだから」
曉月が笑いながら場を収める。
「次、先輩の番ね」
「……じゃあ、こっくりさん。俺の誕生日は何月何日ですか?」
もう一人の男子が少し考えてから、普通の質問をした。
短い沈黙。
その後、硬貨がゆっくりと動き始める。
0、4――
2、3。
「え? これ、俺の誕生日じゃん」
男子は驚いたように目を見開く。
「なんで知ってるんだ?」
彼は綾澄を見る。
「知らない」
綾澄は淡々と答えた。
男子は特に疑わず、むしろ曉月が自分の誕生日を覚えていてくれたのだと思い、少し嬉しくなる。
次は綾澄の番だった。
「こっくりさん。ヒルベルト空間において、互いに直交する基底ベクトル同士の内積は何になりますか?」
冷静な口調で問いかける。
硬貨は動かない。
しばらく沈黙が続いた。
「こっくりさん、答えられますか?」
その問いに対して、ようやく硬貨がゆっくりと「いいえ」へ動いた。
綾澄はなぜか、少しだけ安堵する。
だが同時に、どこか引っかかる感覚も残っていた。
その後の質問は、雑多で取り留めのないものになっていく。
「こっくりさん、私って可愛い?」
「毎日学校行くのって疲れる?」
「ねえ、曉月って誰が好きなの?」
質問はバラバラで、答えも当たったり外れたり。
それでも、その場にいる誰もが、ただの遊びとして受け取っていた。
「そろそろ終わりにしよっか。あと三問ね」
曉月は時間を確認しながら言った。
「こっくりさん。今日、私たちの中で誰かに何か起こりますか?」
硬貨が小さく揺れ、ゆっくりと数字の「2」へ移動する。
そのあと、「はい」で止まった。
「二回も『はい』って……結構断言してるね」
曉月は笑う。
「でも、どうせ冗談でしょ」
彼女は二人を見回した。
「……あのさ、残り二問、私が続けて聞いてもいい?」
「もちろん」
もう一人の男子がすぐに答える。
綾澄は特に反応を示さなかった。
「こっくりさん。“少女J”って存在しますか?」
硬貨はすぐに「はい」へ移動した。
曉月の目がわずかに輝く。
「じゃあ……私たちに何かあった時、彼女は助けに来てくれますか?」
今度は、硬貨は「はい」にも「いいえ」にも向かわなかった。
代わりに、不規則に震え始める。
そして、一文字ずつ。
何か不安定な力に引かれるように、ゆっくりと五十音の上を移動していく。
最後に止まった文字は――
「ふ、れ、て、は、な、ら、ぬ」
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