第47話:ゼドリエル王家
静かな朝だった。
アルタクレスタの平原での死闘から、早くも六日の月日が流れていた。
この小さな街には、未だにアレッシオ王子の残虐な猛攻による生々しい傷跡が深く残されている。
だが、絶望の淵に立たされた人々は、少しずつ、しかし確実に再び立ち上がり始めていた。
生き残った領民たちは壊された屋根を修復し、柵を建て直し、崩壊した建物の瓦礫を懸命に片付けていく。
アレッシオに対する激しい憎悪の炎は、人々の鋭い眼光の中で今なお燃え盛っていた。
しかし同時に、彼らの心の中にはこれまでになかった全く新しい感情が芽生えつつあった。
それは――『希望』。
どこか奇妙で、信じがたいほどの希望だった。
何と言っても、彼らはこの目で直に目撃したのだ。
自分たちの街を無残に破壊し尽くしたあの無敵の大軍が、ただ一人の少年への底知れぬ恐怖に囚われ、無様に敗走していく姿を。
自分たちを無慈悲に蹂躙したあの処刑人どもは、本物の『魔王』よりも遥かに悍ましく、恐ろしい存在だった。
領民たちは、心の中で静かに問い直していた。本当に恐れるべき化け物は、一体どちらなのか、と。
◆
一方その頃、アルタクレスタの郊外では、カサンドラ王女の陣営が再び息を吹き返し、整然と組織化されつつあった。
日の出とともに、鍛え抜かれた騎士たちの猛特訓が始まる。
――ガキィィン!
――キィィン!
重厚な鎧が激しくぶつかり合い、鋭い鉄の剣が幾度も交差する。
そして、その荒々しい熱気の中に、吉田の姿もあった。
「――まだまだだ! もう一本!」
「はいっ!」
少年は歯を食いしばりながら訓練用の木剣を構え直した。
その刹那、嵐のアルウィンの容赦のない一撃が、目にも留まらぬ速さで襲いかかる。
――ギィィィン!!!
吉田は文字通り骨が軋むような衝撃を受けながら、辛うじてその一撃を受け止めた。
両腕がガタガタと情けなく激しく震える。それを見た老将は、不敵に口元を釣り上げた。
「……ふん、マシになったな」
「う、腕が……まだ、めちゃくちゃ痛いです……」
「それはお前が、まともに身体の使い方を学び始めている証拠だ」
数メートル離れた場所では、若き騎士エリックが腕を組んだまま、冷ややかな視線でその様子を眺めていた。
「ふん。少なくとも、生まれたての小牛のような無様な立ち姿ではなくなったな」
「褒めていただき……ありがとうございます、一応……」
「別に褒めたわけではない」
容赦のない地獄のような特訓は、それからさらに一時間近くも続いた。
ようやく終わりの合図がかかったとき、吉田は文字通り頭から足の先までビショビショに汗をかいていた。全身の筋肉がまるで燃えるように熱く、激痛を訴えている。
しかし、彼は一言も弱音を吐かなかった。
あの戦場で意識を失い、再び目を覚まして戦況の真実を知ったあの日から、彼の中で何かが決定的に変わっていた。
彼自身にはあの時の記憶が一切ない。脳裏に浮かぶ光景もなければ、耳に残る音もない。
だが、周囲の誰もが口を揃えて、全く同じ事実を彼に告げた。
お前が、たった一人で数百人もの屈強な兵士たちを容易く蹂躙し、壊滅させたのだと。
その事実は、吉田を心底恐怖させた。だからこそ、彼は今、必死に剣を振るっている。
もし、あの忌々しい暴走する力が再び目覚めてしまったとき――今度こそ、自分の意志で完璧にコントロールできるように。
二度と、あんな理性を失った化け物にはなりたくないから。
そんな強い決意を胸に秘めながら、吉田はキャンプの中心に設営された、ひと際大きな白い天幕へと足を向けた。
入り口に立つ衛兵たちは、少年の姿を見るなり、敬意を込めて即座に道を譲る。
天幕に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように、そこは静謐な空気に包まれていた。
鼻腔をくすぐるのは、独特で濃厚な薬草の香り。
数人の治癒魔導士たちが、中央のベッドを囲んで深刻そうに話し合っていたが、吉田の姿に気づくと、互いに意味深な視線を交わし合った。
「……また、彼が来たわ」
「ええ、本当に毎日欠かさずね」
「随分と心配そうな顔をして……」
吉田はその微かな囁き声を無視した。
どうやら、この数日間のうちに、彼は自分でも気づかないうちにこの世界の『人間の言語』を、ある程度自然に聞き取れるようになってきているようだった。
少年の視線は、周囲の雑音を弾き飛ばし、真っ直ぐにベッドへと注がれる。
そこには、黒髪の少女ローズが静かに眠っていた。
その顔立ちは未だにどこか痛々しく青白い。
シェイリー・ニンティネルが放ったあの無数の矢による致命的な傷は、確実に塞がりつつあるものの、彼女の肉体には未だに絶対的な安静が必要だった。
医師の一人が状況を察して小さく息をついた。
「……私たちは席を外しましょう。彼らに静寂を」
他の魔導士たちも静かに頷き、足音を立てないようにゆっくりと天幕を出ていった。
室内が二人きりになると、吉田は一歩一歩、吸い寄せられるようにベッドへ近づいた。
その傍らに静かに腰掛け、そっと手を伸ばす。
彼の温かい手のひらが、ローズの滑らかな額に優しく触れた。
「……まだ、かなり熱いな……」
吉田は心配そうにぽつりと呟いた。彼女は未だに、激しい高熱にうなされている。
ふと、彼の視線が、無意識のうちに少しだけ下へと向いた。
ローズが着用していたあの見慣れた学校の制服は、傷口の治療を円滑に行うため、胸元が大きくはだけられている。
白い肌を覆う薄い布地の隙間から、何重にも痛々しく巻かれた包帯が見え隠れしていた。
ゴクリ、と吉田は喉を鳴らした。
途端に顔が熱くなり、弾かれたように素早く視線を逸らす。
「……今のは、なんか変な感じだ……」
心臓の鼓動が妙に速くなるのを感じながら、彼は再び彼女の寝顔を見つめた。
眠っている時のローズは、驚くほど可憐で、静かだった。
いつも自分と口論し、すぐに怒って、すべての問題をその手に持つ剣だけで強引に解決しようとする、あの男勝りな少女とはまるで別人のようだ。
吉田は深く考えることもなく、彼女の顔にかかっていた一房の美しい黒髪を、指先でそっと優しく払いのけた。
彼の指先が、彼女の柔らかい頬に、微かに触れる。
――その、まさに次の瞬間だった。
ローズの深い、美しい紅蓮の瞳が、不意にパチリと開いた。
「……え?」
「わっ、ローズ!?」
吉田は心臓が飛び出るほど驚いて思わず飛び退いた。
彼女は何度か眠たげに瞬きを繰り返し、自分がどこにいるのか分からず、しばらく呆然と視線を彷徨いさせている。
やがて、その焦点が真っ直ぐに定まり、目の前にいる吉田の顔を捉えた。
数秒の間、天幕の中を、気まずくも愛おしい沈黙が支配する。
沈黙を破ったのは、ローズの掠れた声だった。
「……おはよう……」
「ローズ! 目が覚めたんだね!」
「……その、みたいね……」
その声は未だに酷くか細く、弱々しかった。
だが、彼女は確かに、生きて目覚めてくれた。
吉田の顔に、心の底からの安堵の笑みが広がる。一切の偽りのない、少年の純粋な笑顔。
その眩しい笑顔を見た瞬間、ローズの胸の奥で、心臓がトクンと少しだけ速く脈打った。
「本当に……心配したんだから」
「……私、どれくらい……眠っていたの?」
「丸三日間だよ」
「三日……!?」
ローズは驚愕にその紅蓮の瞳を見開いた。
「そんなに……寝ていたなんて……」
「うん、ずっと起きなかったんだ」
「……身体中が、信じられないくらい痛わ……」
「それはそうだよ。あれだけの怪我をしたんだから、当然だよ」
ローズは、彼の過保護な様子に、ふっと小さく力なく笑った。
そして、重い腕をゆっくりと持ち上げる。その細い手のひらを、吉田の火照った頬へとそっと添えた。
「……汗、凄いわね……」
「あ、これは……さっきまで特訓してたんだ」
「アルウィンと?」
「うん、エリックさんも一緒だよ」
「……ふふ、可哀想に。地獄だったでしょう」
吉田は苦笑いしながら、自然な動作で、自分の頬に触れているローズの手を優しく握りしめた。
彼女はその手を、拒むように引き抜くことはしなかった。
それどころか。
彼女の細い指先が少年の指の間へと滑り込み、互いの手がしっかりと絡み合う。
天幕の中に、再び静寂が訪れた。
それは先ほどとは違う、どこか甘酸っぱく、奇妙で、それでいてひどく心地よく、温かい静寂。
静まり返った空間で、二人は互いの心臓が激しく、そして確かに刻む鼓動の音を、はっきりと耳にしていた。
ローズの白い頬が、じわじわと林檎のように赤く染まっていく。
吉田の顔もまた、どうしようもないほどに熱くなっていた。
互いにこの胸の高鳴りが何を意味するのか、正確には理解していなかった。
それでも、二人はただ、その繋いだ手の温もりを確かめ合うように、数秒の間じっと見つめ合っていた。
――そう、あの『無粋な声』が響き渡るまでは。
「――おやおや」
その冷やかすような声に、二人の身体は一瞬でカチコチに凍りついた。
天幕の入り口の布が大きく捲り上げられる。
そこには、車椅子に静かに腰掛けたカサンドラ王女の姿があった。
首から下の自由を完全に失った彼女の車椅子を、背後から嵐のアルウィンが、無表情のまま静かに押して中へと入ってくる。
カサンドラの下に力なく垂れ下がった両手は、いつも通りその膝の上で微動だにせず重ねられたままだ。
ローズと吉田の二人は、まるで凶悪な犯罪現場を現行犯で押さえられたかのような凄ましじい速度で、弾かれたようにパッと互いの手を離した。
王女は、その美しい紫の瞳ですべてを見透かしたように、視線だけでいたずらっぽく二人を見つめた。
「お熱いところ、お邪魔してしまいましたかしら?」
「なっ、ななな、何でもありません! 私たちは、決して変なことはしていませんっ!!」
ローズは真っ赤になって明らかな動揺を露わにしながら、あまりにも早口でまくしたてた。
カサンドラの口元に浮かぶ笑みが、さらに意地悪く、深く広がっていく。
「ええ、もちろん分かっていますわ」
「本当ですってば!!」
「ええ、分かっていますとも」
ローズは恥ずかしさのあまり今すぐこの場で塵となって消え去りたい衝動に駆られていた。
見かねたアルウィンが、コホンと大裟裟に咳払いをする。
「……ゴホン。何はともあれ、意識が戻ったようで何よりだ、ローズ」
「は、はい……」
アルウィンが静かに車椅子を押し、カサンドラをさらにベッドの傍へと近づけた。
「あなたの無事な姿を見られて、本当に嬉しいわ、ローズ」
「勿体なきお言葉です、カサンドラ王女殿下」
「けれど、認めざるを得ないわね。吉田の手には、何か特別な奇跡の力でもあるのではないかしら? 毎日あんなに甲斐甲斐しく看病されたら、誰だってすぐに目が覚めてしまいますわ」
ローズの顔がさらに限界を超えて真っ赤に沸騰する。
吉田はその言葉の裏にある微かな「大人のからかい」を完全には理解できなかったが、何となく、女性同士にしか分からない特有の話題にのぼっていることだけは直感していた。
恥ずかしさを誤魔化すように、ローズは真剣な表情を作って問いかけた。
「……私が眠っている間、一体何が起きたのですか?」
その問いを聞いた瞬間、カサンドラの美しい顔から、先ほどまでの穏やかな笑みがゆっくりと消え失せていった。
そして、彼女は今この世界で起きている『すべて』を、包み隠さず厳かに説明し始めた。
あの絶望的な戦場での出来事。アレッシオ王子の無様な敗走。
そして――吉田が『魔王』であるという衝撃的な事実の露呈。
それを聞いた兵士たちの動揺。ヘッセン全土を駆け巡る不気味な噂。
そして、自分たちが今置かれている、極めて危険で危うい現在の戦況。
王女の言葉を一つずつ耳にするたび、ローズの表情はみるみるうちに強張り、驚愕に凍りついていった。
そして、ついにその限界を迎えた瞬間――。
「――はぁっ!?!?」
ローズはベッドから飛び起きるように勢いよく上体を起こした。
「吉田が……あのアレッシオの騎士を、八百人も壊滅させたっていうの!?」
「……正確には、壊滅、だな。数はそれでおおよそ合っている」
背後に控えていたアルウィンが、淡々と事実を告げた。
「そんなの、絶対に何かの間違いよ!辻褄が合わないわ!」
「だが、奴は間違いなくそれを成し遂げた」
「あり得ない! そんなの、絶対に不可能よ!!」
「我々この目で、文字通り直に目撃したのだ」
ローズは信じられないという風に、ロボットのようなぎこちない動きでゆっくりと首を回した。
まず、困ったように頭を掻いている吉田を凝視する。次に、大真面目な顔をしたカサンドラを見つめる。
そして、嘘を吐くはずのない頑固なアルウィンを。
最後に、彼女は信じがたい現実に頭を抱え、深く額を押さえた。
カサンドラは、その様子を見てふっと小さく、楽しそうに笑った。
「……これから、どうするつもりなのですか?」
ローズは、沈痛な声を絞り出すように尋ねた。
「戦争を継続します。当然でしょう」
王女の返答は、一滴の迷いもない、あまりにも即座なものだった。
ローズは言葉を失って完全に凝固した。
「……はい? 今、何て……?」
「継続する、と言ったのよ」
「……正気ですか? まだ、あの作戦をそのまま続けるつもりなのですか?」
王女はただ不敵に微笑むだけだった。
「ええ、おそらくそのままでしょうね」
「吉田は『魔王』なのよ!?」
「分かっていますわ」
「世界中の人間が、その事実を知ってしまったのよ!?」
「それも、百も承知ですわ」
「それなのに……それでもなお、このまま進むつもりなのですか!?」
「当然でしょう?」
ローズは驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
彼女の優秀な頭脳をもってしても、この状況で突き付けられた王女の異常なまでの超然とした態度に、返す言葉が全く見つからなかった。
カサンドラは、動かない両手を膝の上に静かに置いたまま、厳しい美しさを宿した。
「私たちの置かれた状況は、吉田の正体が判明する前から、すでに十分すぎるほど絶望的でしたわ」
「だからと言って、これは次元が違いすぎます! 何も変わらないはずがないわ!」
「いいえ――これで、すべてが変わるのよ」
王女はベッドの傍らに静かに座っている少年の姿を、慈しむような、しかし底知れぬ眼光で見つめた。
「吉田自身が、私たちを助けると、その言葉で約束してくれた。――違うかしら?」
「それは……そうですけど……」
「彼は、この世界を滅ぼそうなどとは考えていない」
「……」
「誰かを無意味に傷つけることなど、望んでいないわ」
「……」
「それに、何よりも――」
カサンドラの微笑みが、ゾッとするほどに残酷で、魅力的なものへと変わる。
「奴は今、我が陣営における『最大最強の軍事力』そのものですわ」
ローズは唖然としたまま目の前の王女を凝視した。
次に、その背後で当然のように腕を組んでいるアルウィンを見る。
さらに、いつの間にか天幕に入ってきて無言で頷いているエリックを見る。
最後に、再びカサンドラのあの不敵な顔へと視線を戻し――彼女は、これまでにないほど深く、長い溜息を吐き出した。
「……王女殿下、最大の敬意を込めて、一言だけ言わせていただきますわ」
カサンドラは楽しそうに、首を動かさず視線だけで僅かに小首を傾げるような仕草を見せた。
「ええ、何かしら?」
ローズは諦めたようにそっと両目を閉じた。
そして、心の底からの、一点の曇りもない絶対的な確信を口にした。
「――ゼドリエル一族の人間は、どいつもこいつも、完全に頭が狂っていますわ」
数秒の間、天幕の中が水を打ったように静まり返った。
次の瞬間、カサンドラは耐えかねたように、鈴の転がるような高い笑い声を響かせた。
そして、その場の誰もが驚いたことに――あの偏屈で、滅多に感情を表に出さないアルウィンまでもが、ついに堪えきれずに、豪快な爆笑の声を上げたのだった。




