第38話:シェイリーと吉田
兵士たちの熱狂は、引き潮のように少しずつ引いていった。
それぞれが己の過酷な訓練へと戻り、中庭には再び木剣のぶつかり合う鈍い音が響き渡る。
荒々しい号令と、踏み固められた土を蹴る軍靴の音が練兵場を満たしていく。
吉田に向けられていた視線は、集まった時と同じ速さで霧散していった。
しかし、シェイリーだけはその場を動く気配がなかった。
彼女は中庭の隅に置かれた木箱の上に腰を下ろす。
いかにも気まぐれといった様子で、自分の隣の空いたスペースをぽんぽんと叩いて吉田を促した。
吉田はこの見知らぬ世界に対する本能的な警戒心から一瞬躊躇したが、結局は折れて腰を下ろした。
エルフの少女の意図はまだ読めなかったが、少なくともそこに悪意がないことだけは、彼の直感が告げていた。
シェイリーは頬杖をつきながら、じっと吉田の顔を覗き込んだ。
「……」
少年が完全に困惑して固まっているのを見て、エルフの少女は作戦を変えた。
彼女は小さく息を吐くと、大袈裟な身振りを交えながら、自分の胸を指差す。
それから彼を指差し、言葉の音節を一つずつゆっくりと区切り始めた。
「シェ・イ・リ」
長い耳をぴくぴくと動かしながら、彼女は強調するように告げた。
吉田はその意図を察し、瞬きをしながら応じた。
「……吉田」
シェイリーは満足そうに、その端正な顔立ちに笑みを広げた。
「よし!」
その瞬間から、二人の間に奇妙な穏やかさが流れ始めた。
シェイリーは身振り手振りと拙い言葉で空間に意味を描き出し、吉田はそれを可笑しいほど真剣な表情で受け止めていく。
その混沌としたやり取りの割に、意思疎通は不思議と成立していた。
吉田は、このエルフの少女を酷く独特な生き物だと思わずにはいられなかった。
衝動的で、騒がしく、感情の起伏が激しいが、決して不快な相手ではない。
太陽の生々しい光の下で彼女を間近に見つめると、これまでの戦闘の最中では気づけなかった細部が視界に入ってきた。
短髪の隙間から覗くエメラルドグリーンの輝き、周囲の音に敏感に反応する長い耳の繊細な曲線、そして好奇心に満ち溢れた澄んだ瞳。
彼女は全身から生命力を放っていた。
旅の途中でローズから半ば強引に叩き込まれた数少ない単語を思い出し、吉田は一か八か試してみることにした。
彼は自分たちが腰掛けている木箱の木目を指差した。
「机……」
平坦なイントネーションで彼が呟くと、シェイリーは嬉そうに両手を振って頷いた。
「そう! 机!」
手応えを得た吉田は、そのざらついた木肌を表現する別の言葉を記憶の底から手繰り寄せた。
彼は平らな表面を指差し、言葉の確認を求めるように口を開いた。
「……板」
その瞬間、中庭の空気が凍りついた。
シェイリーは瞬きをし、その音節を脳内で処理した。
次の瞬間、彼女の瞳の輝きは純粋な憤慨の火花へと変わった。
「……いた? まな板ってこと!?」
彼女は眉をひそめ、声を荒らげた。
「誰がまな板よ!?」
シェイリーが突如として立ち上がったため、吉田は本能的に上半身を後ろへのけぞらせた。
「喧嘩売ってんの!? 私は平らじゃないわよ!」
彼女は頬を真っ赤に染めながら、己の胸を強く指差した。
「これでも人並みにはあるわよ、この大馬鹿!」
「え?」
吉田は完全に置いてけぼりを喰らい、首を傾げた。
なぜこれほどありふれた単語が、彼女の逆鱗に触れたのかが全く理解できなかった。
シェイリーはふんと鼻を鳴らし、エルフの言葉で悪態を吐きながら背を向けた。
だが、その場の緊張感は、状況そのものの滑稽さによってすぐに霧散していった。
エルフの少女は深い溜息を吐き、再び腰を下ろすと、今度は憐れみの目を少年に向けた。
「あんた、私が言ってること一言も分かってないわね?」
吉田は至極素直に首を横に振った。
それを見たシェイリーは肩の力を抜き、諦めたように小さく笑った。
二人はそれ以上言葉を交わさず、ヘセックスの険しい山々が澄み切った青空を切り裂く地平線を、静かに見つめ続けた。
◆
「……何をしている、お前たちは」
背後から響いたローズの冷徹な声が、その静かな時間を破った。
二人が振り返ると、彼女が軍人らしい冷ややかな表情を浮かべ、確固たる足取りで近づいてくるのが見えた。
「退屈だったから話し相手になってあげてただけよ」
シェイリーは悪びれもせず肩をすくめた。
「それに、あんたがこの可哀想な男をあのクローゼットみたいな狭い部屋に閉じ込めるからでしょ。少しは外の空気を吸わせてあげようと思ったのよ」
ローズは疲弊したように溜息を吐き、指先で眉間を押さえた。
そして断りを引くこともなく、木箱の僅かな隙間に身体をねじ込み、吉田のすぐ隣に腰掛けた。
肩が触れ合った瞬間、吉田の身体に微かな気恥ずかしさが走り、彼は無意識に背筋を硬く伸ばした。
シェイリーはローズのその様子を観察したのち、コホンと咳払いをし、先ほどまでの傲慢さを少し和らげて口を開いた。
「あのさ……街での戦いのことは悪かったわ。あの時は冷静じゃなかった」
ローズはそちらを見ようともせず、練兵場の新兵たちに視線を固定したままだった。
「もう済んだことだ」
「……そう。勝手にしなさい」
シェイリーは視線を逸らした。
「ちなみに、あの女海賊は今夜発つそうよ。エレノアは海に戻るって言ってたけど、南の港で増援を探すとか何とか言ってたわ」
ローズは何も答えなかったが、膝の上の拳が微かに固くなった。
そして、彼女の視線は隣の少年へと移る。
「……何て言ってるの?」
会話の濁流の中で、吉田は日本語という救命胴衣を求めるようにローズに尋ねた。
シェイリーは即座に聞き耳を立て、その長い耳を好奇心でぴくつかせる。
「それ、どこの国の言葉よ?」
二人はエルフの少女を完全に無視し、自分たちだけの暗号を使い続けた。
「お前が気にするようなことではない」
ローズは日本語で答え、その冷たい表情を吉田にだけは微かに和らげてみせた。
シェイリーはのけ者にされた苛立ちから目を細めた。
「ちょっと、ずるいじゃない……」
しかし、吉田の発した言葉の抑揚が、エルフの記憶のどこかにある引き金を引いたようだった。
彼女は不審そうに眉をひそめ、考え込んだ。
「その響き……賢者アネアネルが古い羊皮紙に記していた記述に似ているわ。北の森の奥深くで、確かに聞いた記憶がある……」
ローズと吉田は一瞬だけ視線を交わし、動きを止めた。
だが、シェイリーの追及はそこまでだった。
言葉の壁に阻まれた彼女は、結局不満そうに腕を組み、二人が日本語で短い会話を続けるのを横で黙って睨みつけるしかなかった。
◆
屋敷の高窓から、内側の光を背に受けたカサンドラ王女のシルエットが中庭を見下ろしていた。
彼女はその紫の瞳で、庭の一角を凝視している。
「……面白い顔触れですね」
彼女の車椅子のすぐ後ろには、老騎士アルウィンが石像のように微動だにせず控えていた。
「まさか我らの陣営に、三名もの『加護なき者』が揃うとは思いも寄りませんでした、殿下。書類上だけで言えば、彼らの戦力は正規兵三百人に匹敵します」
「彼らが協力してくれれば、の話ですがね」
カサンドラは現実的な冷徹さを込めて言葉を返した。
「ロゼット・ベイカーは約束を守るでしょう。ですが、彼女は開けた戦場で『聖剣』を抜くことを拒むはずです」
王女は短く言葉を切った。
「あの刃の輝きが、魔導王たちを直接私の首元へと引き寄せることを、彼女は知っているのです」
アルウィンは不満そうに眉をひそめた。
「それでは、最前線における彼女の戦略的価値は著しく低下しますな」
「必ずしもそうとは限りません」
王女は膝の上で静かに手を重ねた。
その紫色の視線は、シェイリーの執拗なちょっかいを必死にかわしようとしている吉田の細い体躯へと注がれている。
「もし戦うのがあの少年であれば、世界はワーウィックを見ない。ヘセックスを見るのです」
老騎士は沈黙し、その言葉の恐るべき含意を頭の中で反芻した。
「……殿下?」
「アルウィン、あなたは我が国に残された、最も容赦のない武器の師範のはずです」
カサンドラの声音から一切の温かみが消え去り、王冠が持つ冷酷な響きが宿った。
「あの少年を、鍛え上げなさい」
老将は目を見開き、視線を中庭の異邦人へと向けた。
「彼を、ですか!? 殿下、あれはただの素人です。身体の骨組みも、血筋も、およそ兵士には――」
「吉田を、ヘセックスの騎士にするのです」
王女は反論を許さぬ冷徹さで言葉を遮った。
「たとえロゼットが彼を守り、血の舞台から遠ざけようとしても……あの少年はすでに、私たちの嵐のただ中にいるのですから」
今度ばかりは、車椅子の王女は意見を求めてはいなかった。
彼女は内乱という名のチェス盤の上で、冷酷に最初の駒を動かしたのだ。




