表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/78

第37話:騎士の誕生

 

 吉田が深い疲労に負けて眠りに落ちている間に、気づかぬうちに朝は訪れていた。

 最初に覚醒したのは視覚ではなく、聴覚だった。


 入口の木の扉を激しく叩く、規則正しくも騒がしい音が室内に響き渡る。


「おい、起きろ!」


 通路からシェイリーの苛立った声が響く。


「さっさと開けなさい!」


 吉田はゆっくりと目を開けた。

 窓からは夜明けの光が差し込み、小さな部屋の中に浮遊する塵の粒を微かに照らしている。

 彼は寝ぼけ眼のまま、本能的にマットレスの反対側へと手を伸ばした。


 だが、シーツはすでに冷え切っていた。

 ローズの姿はもうそこにはない。


 扉を叩く音はさらに激しさを増していく。


「まだ寝てんの、あんたたち!?」


「今行く!」


 狭い洗面所の奥からローズの声が返ってきた。

 その声音には明確な苛立ちと焦りが混じっている。


 吉田は顔を手で覆い、重い溜息をついた。

 この世界で毎日目を覚ますという現実が、未だに酷く不条理に思える。

 彼は怪我に響かないよう慎重に身を起こすと、窓の外へ顔を覗かせた。

 朝の新鮮な空気が流れ込み、ぼんやりとした頭をすっきりとさせていく。


 外の練兵場は、すでに活気に満ち溢れていた。

 数人の兵士たちが中庭で木剣を交わし、硬く規則的な動きを繰り返している。

 その奥では、物資を山積みにした馬車が森の小道をゆっくりと進み、朝日に照らされた砂煙を上げていた。


 そこにあるすべての光景が、泥臭く、そして痛烈なほどの生気に満ちている。

 かつて自分がいた世界の、あの灰色のモノトーンに塗られた退屈な日常とはまるで違っていた。


 カチャリ。


 洗面所の扉が開き、ローズが制服の縫い目を整えながら慌ただしく出てきた。

 旅のせいで少し擦り切れてはいるものの、そのスカートのデザインや折り目は、中世さながらの石壁の部屋の中では奇妙なほど浮いて見える。


 彼女の凛とした騎士としての佇まいを美しく引き立ててはいたが、それと同時に、自分たちがこの世界の人間ではないことを絶えず突きつけてくる象徴でもあった。

 今回の彼女は、腰に聖剣を帯びていない。


 視線が交わると、ローズは昨夜の気恥ずかしさを隠すように、一瞬だけ視線を逸らした。


「王女殿下と会ってくる」


 彼女は日本語に戻り、いつもの冷徹で端的な口調で告げた。


「お前はここにいろ。まだ交渉の詳しい中身が分かっていない。お前が目立つのは得策じゃない」


 吉田は黙って頷いた。

 ローズは入口へと歩み寄り、勢いよく扉を開けた。

 案の定、そこには腕を組み、片眉を上げたエルフの少女が待ち構えていた。


「やっと出てきた」


 シェイリーが鼻を鳴らす。


「すぐ戻る」


 ローズは室内の吉田へ一言残すと、そのまま通路の奥へと歩み去っていった。


 扉が閉まり、再び静寂が戻ってきた。

 だが、それも長くは続かなかった。


 ◆


 それから十分も経たないうちに、部屋のドアノブが再び乱暴に回された。


「おい」


 吉田が振り返ると、シェイリーが不敵な笑みを浮かべてドアの枠に寄りかかっていた。

 それは親しみのあるものではなく、何か悪巧みを考えている悪ガキのような表情だった。


「ついてきなさい」


 少年がその言葉の意味を理解するよりも早く、エルフ の 少女は室内へ踏み込み、彼の手首をがっしりと掴んだ。

 そして、その華奢な体からは想像もつかない力で、彼を通路へと引きずり出した。


 その瞬間、磁力に引かれるかのように黒い閃光が部屋を駆け抜けた。

 机の上に置かれていた『黒い聖剣』が、再びその重みを受け入れた主の元へ戻るかのように、吉田の空いた手へと直接飛び込んできたのだ。


「――えっ!?」


 吉田にはエルフの言葉も、この剣の不可解な挙動も分からなかったが、シェイリーは彼に抗議する時間を与えなかった。

 そのまま目まぐるしい速さで、迷路のような石造りの回廊を連れ回していく。


 ◆


 同じ頃、屋敷の王女の私室では、ローズがその静謐な空間へと足を踏み入れていた。

 カサンドラは中央の机の傍らで車椅子に腰掛け、その身体に明らかな緊張を宿らせて待っていた。


「おはようございます、ロゼット・ベイカー」


 王女が挨拶を交わす。

 その声は穏やかだったが、 菫色の瞳には隠しきれない焦燥が浮かんでいた。


「王女殿下」


 ローズが一歩前へ進むと、背後で重々しい扉が閉まった。


「……何かあったのですか?」


「間者から報告がありました」


 カサンドラは膝の上で指を固く組み合わせた。


「内乱の火の手が、予想以上の速さで東部へと広がっています。私の親族たちの軍勢は、立ち塞がるものすべてを踏みつぶしながら進軍している。この地が戦火に巻き込まれるのも、想定より早まりそうです」


 私室の空気がにわかに重くなる。

 ローズは答えず、事態の深刻さを噛みしめるように拳を固く握りしめた。


「あなたには、覚悟を決めてもらわねばなりません」


 王女は冷徹に言い放った。


「もし防壁が破られれば、これ以上隠れ潜むことは不可能です。あなたにも、戦ってもらいます」


「承知しています」


 ローズは机の上の地図を見つめながら、短く返した。


「それから、もう一つ……」


 カサンドラは意図的に間を置き、その菫色の瞳を真っ直ぐに女騎士へと向けた。


「あの少年のことです。……ヨシダを、これからどうするつもりですか?」


 その問いは、酷く居心地の悪い宣告のように、室内の空気に漂い続けた。


 ◆


 一方、屋敷の外にある中庭では、それとは全く異なる空気が流れていた。

 吉田が連れてこられたのは、遮るもののない太陽の光の下だった。


 そこには、訓練を中断した五十人近い兵士たちが集まり、彼を完全に取り囲んでいた。


「ほら、連れてきたわよ!」


 シェイリーは大声で宣言すると、吉田の背中をポンと押し、中庭の中央へと彼を突き出した。


 武装した男たちが一斉に距離を詰めてくる。

 ある者は純粋な好奇心の目を向け、ある者は明らかな懐疑の目を向けていた。

 兵士たちの囁き声が、ざわざわと風に混ざり合う。


「おい、例のガキってのはあいつか?」

「異国の人間のようだが?」

「あの凄まじい重さの黒い剣を扱えるって噂だが……」


 吉田には言葉の意味こそ分からなかったが、彼らの「意図」は正確に読み取れた。

 百戦錬磨の戦士たちの目が、自分の奇妙な衣服、細い腕、そしておよそ戦いには不慣れなその構えを値踏みしているのだ。


 シェイリーが一歩前に出ると、彼の背中を叩いた。


「ほら! あんたの実力を見せてやりなさい!」


 彼女は指を差し、少年が理解できずに瞬きを繰り返しているのを見ると、今度は剣を抜くジェスチャーをしてみせた。


「剣よ、剣。その剣を見せてあげなさい」


 吉田は自分の腰へと視線を落とした。

 黒い聖剣の柄が、彼の指先に向かって微かに脈動しているように感じられた。


 一瞬、躊躇いが生まれる。

 周囲の圧力は息が詰まるほど重かった。

 中庭を満たす静寂、男たちの期待、そしてシェイリーの小馬鹿にしたような視線が、彼に答えを要求していた。


 ふぅ……。


 彼は肺の空気をゆっくりと吐き出し、己の身体の中心にある重心を探し求めた。

 そして、右手で柄の革をしっかりと包み込む。


 シュリ。


 漆黒の刃が鞘から滑り出ると、朝の光を浴びて深淵のような黒い輝きを放った。

 それは見る者を吸い込むかのような、冷徹な美しさだった。


 兵士たちの間に、一斉にどよめきが走る。

 その武器は美しく、威厳があり、そして危険極まりないものだった。


 吉田は刀身の重さを測るように、一瞬だけ静止した。

 その時、体に伝わったのは本能的な感覚だった。完璧な重量、空間を切り裂く刃の正確なバランス。


 彼は考えるのをやめ、身体の記憶にすべてを委ねることにした。


 一歩踏み出し、空間を水平に切り裂くように一閃を放つ。


 その動きは単純で、この世界の洗練された軍隊の剣技とは異なるものだった。

 だが、息をのむほどの精密さ、速さ、そして圧倒的な自然さで放たれた一撃だった。


 刃が鋭い風切り音を立てて空気を割る。

 吉田がその軌道をピタリと止めた時、剣の先端は空間の一点に固定され、彼の手首には微かなブレすら生じていなかった。


 ヒュン。


 中庭が、完全な静寂に包まれた。

 一秒、二秒。


「――おおおおっ!」


 次の瞬間、兵士たちの間から爆発的な歓声が沸き起こった。


 先ほどまでの懐疑的な表情は、一瞬にして驚愕と心からの称賛へと塗り替えられた。

 数人のベテラン兵たちが深く満足そうに頷き、盾を手のひらで叩いて拍手を送る。


 シェイリーは胸の前で腕を組み、得意げな笑みを浮かべて仲間たちを見渡した。


「見た? 言ったでしょ、ただの足手まといじゃないって」


 エルフの少女が鼻を高くする。


 吉田はゆっくりと刃を下げ、慎重に鞘へと収めた。

 ヘッセンの言葉はやはり一言も分からなかったが、浴びせられる歓声と、肩を叩かれるその手の温もりに翻訳は必要なかった。


 この呪われた世界に落ちて以来、初めてのことだった。

 自分の衣服や奇妙な容姿を、憐れみや疑いの目で見る者は誰もいなかった。

 彼らは、この男たちが唯一絶対の基準とする共通の言語で彼を見ていた。


 鋼への敬意。

 それだけが、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ