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第36話:二人きりのベッド

交渉は、エレノアの予想よりも遥かに早くまとまった。


壁際に追い詰められた今の自分に、選択の余地などない。

ローズはそれを痛いほど理解していたのだ。


「今は選べる状況ではない。協力しよう」


ローズは真っ直ぐにカサンドラ王女を見据え、毅然と言い放った。


「だが引き換えに、保護を要求する。私と……彼の身の安全を」


その意図を、カサンドラは瞬時に察した。


王女の紫色の瞳が再び吉田へと向けられる。

品定めするような視線がしばらく彼に留まった後、再び女騎士へと戻った。


「私の陣営に、あなたたちを匿えと? 世界中の目から」


「その通りだ」


王女は、どこか哀愁を帯びた柔らかな微笑を浮かべた。


「それを果たすためには、まずこの戦争に勝たねばなりませんね」


「大きな賭けですね、王女殿下」


ローズが目を細める。


「ええ。ですが、あなたが求めている対価も同じように大きい」


カサンドラは毅然とした態度を崩さずに返した。


ローズは一瞬沈黙し、その言葉の重みを天秤にかける。

やがて、諦めたように深く息を吐き出した。


「魅力的な提案だ。……分かった、力を貸そう」


ほどなくして会談は終わり、重々しい扉が開かれた。

一同はそれぞれの目的のために、屋敷の通路へと散っていく。



反乱軍の騎士に案内されて廊下を歩いていると、聞き覚えのあるハスキーな声が彼らの足を止めさせた。


「おい」


そこにいたのは、いつも通りの不敵な笑みを浮かべたエレノアだった。


彼女の右手にはずっしりと重い革袋が握られている。

軽く揺らすたびに、硬貨の擦れ合う明瞭な音が通路に響き渡った。


チャリン、チャリン。


確実な、現金の音だ。


「あのジジイから、前金としてこれを受け取ってね。……まあ、アタシたちの同行もここまでってわけさ」


吉田は困惑したように瞬きをし、ローズは明確な不快感を露わにして眉をひそめた。


「もうか? 早すぎるだろ」


「何を期待してんだい?」


エレノアは無造作に肩をすくめた。


「王族との交渉を取り持ってやり、命を救ってやった。これだけあれば、まともな船を買い戻すには十分さ。そろそろ海へ帰る時間だよ、お嬢ちゃんたち」


二人の間に重苦しい沈黙が流れた。


吉田は視線を落とした。

この世界の言葉を理解するのはまだ難しかったが、彼は空気を読むことに長けていた。

あの金貨の袋を見ただけで、胃のあたりに奇妙な喪失感が広がる。

あのやかましくて、いつも酒臭かった女海賊が去ろうとしているのだ。


ローズはしばらく黙ったまま、目の前の女を凝視していた。


「お前は、呆れるほど無責任だな」


「あんたは、呆れるほど頑固だよ」


エレノアはさらに笑みを深めて言い返した。


二人は数秒間、互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。

言葉にする必要のない、確かな敬意がそこにはあった。


「……体に気をつけろ」


ローズの声音が、ようやく柔らかくなった。


エレノアは面白そうに片眉を上げた。


「おや、しおらしい見送りかい? らしくないねぇ、女騎士。アタシはまだ死ぬつもりはないよ!」


それから、エレノアは吉田に向き直ると、悪戯っぽくウインクしてみせた。


「お前も死ぬんじゃないよ、坊主。アタシはまだ、お前の世界の面白い話を聞かせてもらってないんだからね」


吉田は小さく頷いた。

言葉は出なかったが、感謝の念は十分に伝わったはずだ。


エレノアは背を向けると、一歩ごとに金貨を鳴らしながら、振り返ることなく通路の奥へと歩み去っていった。



「おい、ついてきな」


シェイリーが冷ややかに遮った。


エルフの少女は腕を組み、不機嫌そうな表情でそこに立っていた。

こちらの返事を待つこともなく、彼女は背を向けて迷路のような回廊の案内を始める。


屋敷は広大だったが、限界まで人が詰め込まれていた。

傷ついた鎧を纏った兵士たちが慌ただしく行き交い、低い声で戦略を囁き合っている。


やがてシェイリーは、簡素な木製の扉の前で足を止め、遠慮もなくそれを押し開けた。


「ここよ」


吉田が室内へ顔を覗かせた瞬間、数回瞬きをし、その場で完全に硬直した。


「……え?」


部屋は信じられないほど狭かった。


小さな机が一つ、木製の椅子が一つ。

そして――ベッド。それだけだ。

たった一台の、シングルベッド。


吉田は自分の目が狂ったのかと思い、何度も目を擦った。


「……え?」


彼の後ろから入ってきたローズもまた、言葉を失っていた。

彼女の顔色が、みるみるうちに鮮やかな真紅へと染まっていく。


二人の精神的混乱など知る由もないシェイリーは、至極当然といった様子で彼らを振り返った。


「そんなところで突っ立ってないでよ。この屋敷には百人以上の近衛兵が潜伏してるの。ここは軍の拠点で、高級ホテルじゃないんだからね。屋根があるだけでもありがたいと思いなさい」


「ありがとう……」


吉田は無意識に、自分の言葉でそう呟くのが精一杯だった。


シェイリーは目を細め、彼を上から下まで見定めた。


「妙な男。……じゃ、休みなさい」


エルフは扉を引き、容赦なく閉めきった。


ガチャン。


錠の降りる冷たい音が室内に響く。

部屋は濃密で、酷く気まずい沈黙に支配された。


吉田は床を見つめ、それから狭いベッドを見つめ、最後にローズへと視線を移した。


ローズは完全に茹で上がったように顔を赤くし、羞恥心で顔を火照らせていた。


「……説明しておく」


彼女は、吉田が確実に一言一句を理解できるよう、日本語を選んで言葉を紡いだ。

その声はあまりにも真剣だった。


「私たちは……同じ部屋を使う」


「うん」


吉田は生唾を飲み込んで頷いた。


「ベッドもだ」


「うん」


「それから、湯浴み場(洗面所)も」


致命的な間が空いた。


吉田は生存本能から、思わず後ろへ一歩下がった。


「ごめん……」


ローズは状況に屈し、深く長い溜息を吐くと、重い体をマットレスの上へと投げ出した。


「これは……問題だな」


吉田は部屋の中央に立ち尽くし、手持ち無沙汰にただ固まっていた。

石造りの冷たい床と、ベッドを交互に見つめる。


「俺、床で寝るよ」


彼が冷え切った床板を指差すと、ローズは横目で彼を睨みつけた。


「駄目だ。床は冷えるし、お前は怪我人だろ」


「大丈夫、本当に」


「大丈夫ではない」


彼女は照れ隠しのために壁へと視線を逸らしながら、言い放った。


「……いいから、来い」


「どこに?」


「ここだ!」


ローズは隣の僅かなスペースを指差し、恥ずかしさのあまり声を裏返らせた。


吉田は完全に石化した。心臓が跳ね上がる。


「……本気?」


「いいから、早くしろ!」


吉田は息が詰まるのを感じながら、まるで地雷原を進むかのような極限の遅さでベッドへと近づいた。


端の方に腰掛け、それから丸太のように全身を硬直させたまま横になる。

視線は天井の木目に固定され、深呼吸をすることすら躊躇われた。


ローズは彼に背を向けていたが、その身体からは彼女特有の、軍人らしい硬さが伝わってくる。


マットレスが狭すぎる。

二人の体温が、恐ろしいほどの速さで混ざり合っていく。


吉田の肩に、ローズの肩が微かに触れた。

彼女の髪からは、鉄錆の匂いと、男の理性を狂わせるような微かな森の香りが漂っていた。


静寂が部屋を包んでいたが、空気はこれまでにない熱を帯びていく。


「……ローズ」


数分間の拷問のような時間の後、吉田が囁いた。


「何だ?」


彼女は即座に答えた。

完全に覚醒している証拠だった。耳まで真っ赤なのが、背中越しでも分かる。


「俺、近い?」


「……ああ」


吉田はベッドから落ちるのを恐れながら、身体をさらに数センチほど端へと縮めた。

だが、その拍子にシーツが擦れ、二人の距離はさらに縮まる。


「ごめん」


息が詰まるような、甘く痛烈な時間がゆっくりと流れていく。


「……吉田」


不意に、彼女が低い声で名を呼んだ。


「うん?」


「もう動くな。そのままでいろ」


「……分かった」


再び静寂が戻ってきた。


だが、当初の気まずさはいつの間にか薄れていく。

代わりに、互いの鼓動が伝わるほどの密着感が、二人を包み込む奇妙な温かさへと変わっていった。


吉田は静かに目を閉じ、ローズもまた同じように瞼を閉じた。


戦火に囲まれた砦のただ中で、長い旅路の末にようやく触れ合った互いの存在。

その温もりだけが、恐怖を忘れさせ、彼らの心を深く満たしていく。


二人は今、世界のどこよりも確かな平穏を感じていた。

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