第36話:二人きりのベッド
交渉は、エレノアの予想よりも遥かに早くまとまった。
壁際に追い詰められた今の自分に、選択の余地などない。
ローズはそれを痛いほど理解していたのだ。
「今は選べる状況ではない。協力しよう」
ローズは真っ直ぐにカサンドラ王女を見据え、毅然と言い放った。
「だが引き換えに、保護を要求する。私と……彼の身の安全を」
その意図を、カサンドラは瞬時に察した。
王女の紫色の瞳が再び吉田へと向けられる。
品定めするような視線がしばらく彼に留まった後、再び女騎士へと戻った。
「私の陣営に、あなたたちを匿えと? 世界中の目から」
「その通りだ」
王女は、どこか哀愁を帯びた柔らかな微笑を浮かべた。
「それを果たすためには、まずこの戦争に勝たねばなりませんね」
「大きな賭けですね、王女殿下」
ローズが目を細める。
「ええ。ですが、あなたが求めている対価も同じように大きい」
カサンドラは毅然とした態度を崩さずに返した。
ローズは一瞬沈黙し、その言葉の重みを天秤にかける。
やがて、諦めたように深く息を吐き出した。
「魅力的な提案だ。……分かった、力を貸そう」
ほどなくして会談は終わり、重々しい扉が開かれた。
一同はそれぞれの目的のために、屋敷の通路へと散っていく。
◆
反乱軍の騎士に案内されて廊下を歩いていると、聞き覚えのあるハスキーな声が彼らの足を止めさせた。
「おい」
そこにいたのは、いつも通りの不敵な笑みを浮かべたエレノアだった。
彼女の右手にはずっしりと重い革袋が握られている。
軽く揺らすたびに、硬貨の擦れ合う明瞭な音が通路に響き渡った。
チャリン、チャリン。
確実な、現金の音だ。
「あのジジイから、前金としてこれを受け取ってね。……まあ、アタシたちの同行もここまでってわけさ」
吉田は困惑したように瞬きをし、ローズは明確な不快感を露わにして眉をひそめた。
「もうか? 早すぎるだろ」
「何を期待してんだい?」
エレノアは無造作に肩をすくめた。
「王族との交渉を取り持ってやり、命を救ってやった。これだけあれば、まともな船を買い戻すには十分さ。そろそろ海へ帰る時間だよ、お嬢ちゃんたち」
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
吉田は視線を落とした。
この世界の言葉を理解するのはまだ難しかったが、彼は空気を読むことに長けていた。
あの金貨の袋を見ただけで、胃のあたりに奇妙な喪失感が広がる。
あのやかましくて、いつも酒臭かった女海賊が去ろうとしているのだ。
ローズはしばらく黙ったまま、目の前の女を凝視していた。
「お前は、呆れるほど無責任だな」
「あんたは、呆れるほど頑固だよ」
エレノアはさらに笑みを深めて言い返した。
二人は数秒間、互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。
言葉にする必要のない、確かな敬意がそこにはあった。
「……体に気をつけろ」
ローズの声音が、ようやく柔らかくなった。
エレノアは面白そうに片眉を上げた。
「おや、しおらしい見送りかい? らしくないねぇ、女騎士。アタシはまだ死ぬつもりはないよ!」
それから、エレノアは吉田に向き直ると、悪戯っぽくウインクしてみせた。
「お前も死ぬんじゃないよ、坊主。アタシはまだ、お前の世界の面白い話を聞かせてもらってないんだからね」
吉田は小さく頷いた。
言葉は出なかったが、感謝の念は十分に伝わったはずだ。
エレノアは背を向けると、一歩ごとに金貨を鳴らしながら、振り返ることなく通路の奥へと歩み去っていった。
◆
「おい、ついてきな」
シェイリーが冷ややかに遮った。
エルフの少女は腕を組み、不機嫌そうな表情でそこに立っていた。
こちらの返事を待つこともなく、彼女は背を向けて迷路のような回廊の案内を始める。
屋敷は広大だったが、限界まで人が詰め込まれていた。
傷ついた鎧を纏った兵士たちが慌ただしく行き交い、低い声で戦略を囁き合っている。
やがてシェイリーは、簡素な木製の扉の前で足を止め、遠慮もなくそれを押し開けた。
「ここよ」
吉田が室内へ顔を覗かせた瞬間、数回瞬きをし、その場で完全に硬直した。
「……え?」
部屋は信じられないほど狭かった。
小さな机が一つ、木製の椅子が一つ。
そして――ベッド。それだけだ。
たった一台の、シングルベッド。
吉田は自分の目が狂ったのかと思い、何度も目を擦った。
「……え?」
彼の後ろから入ってきたローズもまた、言葉を失っていた。
彼女の顔色が、みるみるうちに鮮やかな真紅へと染まっていく。
二人の精神的混乱など知る由もないシェイリーは、至極当然といった様子で彼らを振り返った。
「そんなところで突っ立ってないでよ。この屋敷には百人以上の近衛兵が潜伏してるの。ここは軍の拠点で、高級ホテルじゃないんだからね。屋根があるだけでもありがたいと思いなさい」
「ありがとう……」
吉田は無意識に、自分の言葉でそう呟くのが精一杯だった。
シェイリーは目を細め、彼を上から下まで見定めた。
「妙な男。……じゃ、休みなさい」
エルフは扉を引き、容赦なく閉めきった。
ガチャン。
錠の降りる冷たい音が室内に響く。
部屋は濃密で、酷く気まずい沈黙に支配された。
吉田は床を見つめ、それから狭いベッドを見つめ、最後にローズへと視線を移した。
ローズは完全に茹で上がったように顔を赤くし、羞恥心で顔を火照らせていた。
「……説明しておく」
彼女は、吉田が確実に一言一句を理解できるよう、日本語を選んで言葉を紡いだ。
その声はあまりにも真剣だった。
「私たちは……同じ部屋を使う」
「うん」
吉田は生唾を飲み込んで頷いた。
「ベッドもだ」
「うん」
「それから、湯浴み場(洗面所)も」
致命的な間が空いた。
吉田は生存本能から、思わず後ろへ一歩下がった。
「ごめん……」
ローズは状況に屈し、深く長い溜息を吐くと、重い体をマットレスの上へと投げ出した。
「これは……問題だな」
吉田は部屋の中央に立ち尽くし、手持ち無沙汰にただ固まっていた。
石造りの冷たい床と、ベッドを交互に見つめる。
「俺、床で寝るよ」
彼が冷え切った床板を指差すと、ローズは横目で彼を睨みつけた。
「駄目だ。床は冷えるし、お前は怪我人だろ」
「大丈夫、本当に」
「大丈夫ではない」
彼女は照れ隠しのために壁へと視線を逸らしながら、言い放った。
「……いいから、来い」
「どこに?」
「ここだ!」
ローズは隣の僅かなスペースを指差し、恥ずかしさのあまり声を裏返らせた。
吉田は完全に石化した。心臓が跳ね上がる。
「……本気?」
「いいから、早くしろ!」
吉田は息が詰まるのを感じながら、まるで地雷原を進むかのような極限の遅さでベッドへと近づいた。
端の方に腰掛け、それから丸太のように全身を硬直させたまま横になる。
視線は天井の木目に固定され、深呼吸をすることすら躊躇われた。
ローズは彼に背を向けていたが、その身体からは彼女特有の、軍人らしい硬さが伝わってくる。
マットレスが狭すぎる。
二人の体温が、恐ろしいほどの速さで混ざり合っていく。
吉田の肩に、ローズの肩が微かに触れた。
彼女の髪からは、鉄錆の匂いと、男の理性を狂わせるような微かな森の香りが漂っていた。
静寂が部屋を包んでいたが、空気はこれまでにない熱を帯びていく。
「……ローズ」
数分間の拷問のような時間の後、吉田が囁いた。
「何だ?」
彼女は即座に答えた。
完全に覚醒している証拠だった。耳まで真っ赤なのが、背中越しでも分かる。
「俺、近い?」
「……ああ」
吉田はベッドから落ちるのを恐れながら、身体をさらに数センチほど端へと縮めた。
だが、その拍子にシーツが擦れ、二人の距離はさらに縮まる。
「ごめん」
息が詰まるような、甘く痛烈な時間がゆっくりと流れていく。
「……吉田」
不意に、彼女が低い声で名を呼んだ。
「うん?」
「もう動くな。そのままでいろ」
「……分かった」
再び静寂が戻ってきた。
だが、当初の気まずさはいつの間にか薄れていく。
代わりに、互いの鼓動が伝わるほどの密着感が、二人を包み込む奇妙な温かさへと変わっていった。
吉田は静かに目を閉じ、ローズもまた同じように瞼を閉じた。
戦火に囲まれた砦のただ中で、長い旅路の末にようやく触れ合った互いの存在。
その温もりだけが、恐怖を忘れさせ、彼らの心を深く満たしていく。
二人は今、世界のどこよりも確かな平穏を感じていた。




