第12話:空から落ちた少年
【吉田視点】
強く目を閉じる。
次に訪れるであろう、すべてを粉砕する衝撃を待つ。
狂ったような風が容赦なく顔を叩き、私はただ、底知れぬ空虚へと呑み込まれていった。
……怖くはなかった。
死への恐怖など、落下が始まるよりもずっと前に、どこかへ消え失せていたのだから。
胸の中に残っているのは、ただ一つ――疲労。
肉体的な限界を超えた、魂の底から滲み出すような、古くて深い疲れ。
(もう……いいんだ)
暗闇の中で辿り着いた答えは、あまりにも静かだった。
唯一の逃げ場は――死。
この世界で唯一の支えだった兄貴、リュウジンを失った今。もう、生きたいと願う理由などどこにもなかった。
思考が濁り、意識が深い沈黙へと沈んでいく。その時だった。
何かが、私の身体を優しく、それでいて力強く包み込んだ。
重い瞼を開く。
……ローズ。
彼女は私を強く抱きしめていた。共に、死の淵へと落ちていく。
激しい風に栗色の髪が乱れ、その瞳には――隠しきれない恐怖と、それを上回るほどの峻烈な決意が宿っていた。
「吉田!」
その叫びが、虚空を裂くように響く。
真っ白になった頭に、理解の追いつかない光景が飛び込んできた。
「何をしているんだ!? 離せ!」
思わず叫び返すが、彼女はさらに強く私にしがみついた。
背中に食い込む指の感触。
それは、二つの魂が引き裂かれるのを拒むかのような、必死の抵抗だった。
彼女が私の耳元で囁く。
風の轟音の中でも、その声は不思議なほど静かに、そして真っ直ぐに届いた。
「落ちるというのなら……貴方を、一人にはさせません」
……わけがわからない。
どうして、こんな無茶をする。私という絶望に、彼女を巻き込むつもりなんてなかったのに。
くそ……。
ふと視線を上げると、そこには太陽があった。
……おかしい。
その光は異様なほどに強く、まるで意志を持つ生き物のように脈動している。
「全部……あたしのせいなの……」
ローズが、絞り出すような声で告げた。
「あたしが関わらなければ……リュウジン先生も、貴方も……」
次の瞬間、光が爆発した。
一気に視界を埋め尽くし、あらゆる色彩を奪い去る。
――まぶしい。
何も見えない。世界が、輪郭を失って消えていく。
狂った風も、落下の重力も、どこまでも続いていた空も。
一瞬。
すべてが止まった。
――無音。
完全なる闇。
そこは、何一つ存在しない空白の世界だった。
身体が浮いている。
重さがない。風の抵抗もない。落下しているという感覚さえも、霧のように消えていた。
……気づく。
今まで私を縛り付けていた「不自由」を感じないのだ。
車椅子の冷たい感触も、動かない足の重みも、呪縛のような肉体の限界も。
「……ここ、は……」
声を出してみる。
だが、その声はどこにも響くことなく、闇に吸い込まれて消えた。
(……俺は、死んだのか?)
自問したその瞬間――。
世界から、強引に弾き出された。
それは自然な落下ではなかった。
背後から巨大な力で押し出されるような、強制的で暴力的な転移。
私たちは、別の「場所」へと放り出される。
ドサッ――!
激しい衝撃が全身を貫き、肺から空気が押し出される。
熱、圧力、速度、そして再び戻ってきた、圧倒的な世界の重さ。
意識が戻る。ローズは、まだ私を離していなかった。
薄らと目を開く。
……落ちている。私たちは、まだ空の中にいた。
でも――。
決定的に違っていた。
慣れ親しんだ街並みはない。ビルも、学校も、黒いアスファルトも。
視界に広がるのは――砂。
果てしなく続く砂の波。それはまるで金色の海のように、世界の果てまで広がっている。
その先、遠くに街の影が見える。見たこともない様式の、見知らぬ都市。
さらに向こうには、深い紺碧の海が広がっていた。
そして、空。
そこにあるのは、燃えるような赤。
それは決して美しい夕焼けなどではなかった。裂けた傷口から光が滴っているような、禍々しい空だ。
……なんだよ、これ。
こんな景色、見たことがない。
ここは――日本じゃない。
「ローズ! おい、ローズ!」
名前を呼ぶが、反応はない。
彼女はぐったりと私に寄りかかったまま、すべての力を失っていた。
まるで、終わりを静かに受け入れてしまったかのように。
一直線に落下する。
荒れ狂う風が肌を叩き、無慈悲に地面が迫りくる。
どんどん。
近く。
もはや回避など不可能な距離。
その瞬間だった。
生まれて初めて、心の底から本能が叫び声を上げた。
……死にたくない。
私は強く、強く目を閉じる。
そして――。
すべてが、底なしの黒へと沈んでいった。




