親しくなるのに遠慮はいらない その2
すぐ前にいるというのに、声が掛けられない。
彼の背中が自分を拒絶している。
信利の態度の変化に、希美はそう思えてならないのだ。
原因を探ろうと、交わした会話を思い返していく。
「……そういえば」
彼は入店してすぐ、周囲を見渡し、店長をみつけて挨拶をしていた。
だが、目的がそれだけではなかったとしたら。
信利が語ったある言葉を、希美は思い出す。
『私がこの店に来たときに、お前の姿は見えなかったんだが』
いとこである浦元征明に対し、彼はそう話していた。
彼のもう一つの目的は、この店に知人がいないかを確認すること。
そう考えれば、征明を見つけてからの彼の態度が変わっていたのも納得できる。
彼ら二人の会話は、いたって普通のもの。
話していた言葉からも、互いが決して嫌っていたり、困らせるものではなかった。
つまりは、征明に『希美といるのを見られたくなかった』ということではないか。
出してしまった結論は、希美の心に暗い影を落としていく。
泣きそうになるが、ここでそんなことをしたら彼を困らせるだけ。
悲しい感情を追いやろうと、無理矢理に笑顔を作り、彼の後を追う。
涙をこらえる事は出来た。
だが、代わりに生まれてくる気持ちは、どうしても止める事が出来ない。
逃げ場を求めるように、希美の口からぽつりと、その欠片がこぼれだす。
「あはは、どうしよう。心が、……すっごく痛いなぁ」
◇◇◇◇
この時間を思い出にしたい。
だが、彼に望んでいない時間を過ごさせていいものなのか。
この二つの考えが、ずっと希美の頭の中で回り続けている。
テーブル席に向かい合わせで座ったはいいが、なんと声をかければいいものか。
ごまかすように、メニューを手に取り眺めてみる。
商品名や写真が目には映るものの、それらは全く頭に入ってこない。
メニュー越しにこっそりと彼をのぞき込めば、何やら考え込んだ様子をみせている。
綺麗だ。
男性に使う言葉ではないのはわかっている。
だが、目を伏せた、憂いを含んだ表情。
その美しさに見惚れてしまい、視線を逸らすことが出来ない。
無心で見つめ続ける希美に、やがて顔を上げた信利が気づく。
それでもほうけたような顔でいる自分へと、彼は声を掛けてきた。
「打木さん、あの」
戸惑い気味な声が耳に届き、ようやく希美は我に返る。
「すっ、すみません! 私ったら失礼な行動を」
「それは、……こちらの言葉です。本当に申し訳ない」
なぜ、彼が謝ってくるのだ。
予想外の返事に、希美は目をしばたかせる。
「一水さんは、失礼なことなんて全くしていないですよ? むしろ私が……」
「いいえ。打木さんにそんな思いを抱かせる行動をしてしまった。それが根本にあるのです。『一水の機嫌が悪い』。おそらくあなたは、そう思ったのではないですか?」
「そ、それは……」
当たらずとも遠からずなだけに、とっさに否定が出来ない。
希美の表情を見て、信利はため息をついた。
「打木さん、私の正直な思いを今からお伝えします。機嫌がわるそうに見えたのは、あなたに対してではありません」
「えっ、でもずっと一緒にいたのは私なんですから……」
驚き答える希美へと、信利は言葉を続ける。
「公園でもお伝えしましたが、私は女性と話をするのが得意ではありません。さすがに仕事のときには、区切りをつけ対応してはおりますが。征明のように物怖じしない行動が出来れば、こんな事を言わずに済むのでしょうけれどね」
少し離れた席で談笑している征明へと、信利は視線を向けた。
寂し気に映るその姿に、希美は問いかける。
「一水さんは、浦元さんのようになりたいのですか?」
「征明に、……ですか」
希美へと再び向き直り、信利は目を閉じる。
「そうかもしれません。彼は自分にはない明るさと、人を惹きつける魅力がある。持ち合わせていないものを羨んでも仕方がない。それは分かっているつもりなのですが」
目を開いたものの、希美と視線が合ったのは一瞬。
すぐに彼は、目をそらしてしまう。
「変わりたい。そう思い、努力した時期もあったのです。けれども結局、私には出来なかった。……変えることが出来なかった」
信利の顔に浮かぶ後悔の表情に、希美は思う。
彼も自分と同じように変わりたいと願い、もがいているのだと。
何か出来ることはないのだろうか。
自分は真加瀬に背中を押され、こうして彼の前にいる。
ならば自分にも、背中を押すことは……。
いや、真加瀬のような行動力を自分はまだ持ち合わせていない。
どうすればいい。
今の自分に、出来ることを考えるんだ。
これからは諦めない。
そう決めたじゃないか。
「……あぁ、そうか」
呟いた言葉に、信利がこちらを向く。
「一水さん、変わるってすごく難しいことではないですか。挑み、失敗をしてしまうと自分には無理だったんだって思ってしまう。だから私、提案したいんですけれども」
宣誓をするかのように、手のひらを自分の顔の横に添える。
「変わろうとするのは、やめちゃいましょう」
「へっ? やっ、やめる、……んですか?」
かなり予想外だったようで、彼は驚きのあまり、ぽかんと口を開けこちらを見つめている。
「えぇ、その通りです。だって、変われなくて辛いのって嫌じゃないですか。だからその気持ちを捨てちゃうんです」
手のひらをぐっと握りしめ、「えいやっ」と言いながら腕を振りかぶる。
一連の行動に呆然としている信利へ、希美はにこりと笑ってみせた。
「変わるのは難しい。だったらまずは、前を向くことから始めればいいのではないかと」
人差し指を立て、自分の顔の前へと持って行く。
つられるように、希美へと信利は目を合わせてきた。
とっさの思い付きである、今からの行動に自信はない。
だがこれで、彼も新たな視点を持つきっかけになれば。
見つめられていることにより、顔が熱くてたまらない。
それでも、だからこそ勇気を振り絞り、希美は語るのだ。
「いっ、一水さんは女性が苦手。私は人と話すのが苦手です」
震え声になってしまったことに、恥ずかしさはある。
「私は女性。一水さんは私とお話を嫌がらずしてくれる。私たちは克服したいものを、お互いにそれぞれ持ち合わせています。だっ、だから!」
彼は目をそらさない。
大丈夫だ。
声は、思いは、きちんと届いている。
「私も一緒に前を向ける手伝いをします。あなたは今日から一人ではありません。だからどうか!」
声だけでなく、震えてしまっている手を彼へと差し出していく。
「お、お友達になってください。よろしくお願い、……します」
最後は消え入りそうな声ではあったが、望んだ行動は出来た。
後悔こそないものの、恥ずかしさにたまらずうつむいてしまう。
待ってみるものの、彼からの言葉はない。
席について間もないが、さすがにこのまま食事をするのは無理だ。
申し訳ないが、帰らせてもらおう。
挨拶をしようと顔を上げた、希美の目に映った光景。
それは、あまりにも予想外のものだった。
自分の指先に触れるか触れないか。
そこまで彼の手が、伸ばされかけている。
希美が今、顔を上げるとは思っていないのだろう。
真っ赤な顔で、ぎゅっと目と口を固く閉じ、信利は手を伸ばしては戻しを繰り返している。
――見てはいけないものを、見てしまった気がする。
いや、正直に言えば、その際の彼の表情を、可愛らしいとすら思ってしまった。
本能的に目を閉じ、再び顔を伏せる。
勝手に顔を見てしまった罪悪感と共に待つこと数秒。
指に触れる感覚に、希美は顔を上げる。
手を握る、ではない。
彼は希美の人差し指の指先を、まるでつまむかのように触れてきている。
おかしな握り方なのは理解できるが、これが今の彼の精一杯なのだ。
その証拠に。
「わ、私からも。よ、よろしく、……お願い、します」
視線をそらし、頬を染めながらそう語る声は、先程の希美よりもずっと震えている。
それでもこうして彼は、前へと一歩、踏み出したのだ。
喜びを声に乗せ、希美も返事をする。
「はい、一水さん! どうかこれからも、よろしくお願いします!」