無敵
〇時を過ぎた頃だった。突如、電話の早馬が駆けめぐった。
――お父さんがいない!
京子が狂気のようになって電話をかけていた。
次郎は家を出たきり、戻らずにいた。車は置いてあり、携帯もサイフも残したままである。
京子はリンゴ園を探しまわり、蒼に柵を見に行かせた。
やがて人々が出てきた。坊主ふたりの姿を見て、京子は泣きそうになった。
「あんたたちのところに行ってない? お父さん、変だったの。怒り狂って、憑き物にでも憑かれたみたいになって。柵を壊すって」
母さん、と蒼が自転車で戻ってきた。
「780番の支柱が折れて、金網がぐしゃぐしゃになってる」
「――お父さんは」
「いない」
人々は当惑した。
――次郎がなぜ?
突然の激怒のわけがわからない。
山ノ怪か、とだれかがささやいた。
テツがさえぎるように、
「とりあえず女の人は家に戻ってください。男は――」
「あのひと死ぬ気かも!」
京子は悲鳴をあげた。
「どうしよう。首――」
ふりかえると黒々と山がそびえている。光ひとつない黒い影が覆いかぶさるように見えた。
京子はおそろしい想像に喘いだ。駆け出そうとするのをテツが掴み、
「あわてない、無事ですよ」
「行かなきゃ」
「わたしが探してきますから、――蒼!」
蒼を呼んで、母親を託した。
「ふたりは家電のそばで待機」
テツは手をあげ、おだやかな声を出して言った。
「みなさん、三好さんがどっかで倒れてないか、ちょっと近所を見てください。酔っ払ってるかもしれません。その際、かならず二人組み行動で。最終二時までには帰宅してください。――春田さん、中山さん、ラミさん、よっしーさん」
四人の人影に向かい、
「すみませんが、車出してください。ふたりずつ組んで、緩衝帯を北回りと南回りで捜索。――この時間は危険なので、絶対に山には入らないように」
お市が補足した。
「みんな、携帯は持ってってねー。見つけた人は、すぐ三好家に電話――見つからなくても、報告してから帰ってねー。――てっちゃん、おれもいく?」
「いい。おまえは中で情報を集約しろ。二時には全員の安否確認」
テツはお市から携帯を受け取ると、暗がりに消えた。
シゲは、辰吉とモトに声をかけた。
「おい、山行くぞ」
「――」
ふたりは、黙ってついてきた。
三人の老人が杖と懐中電灯を手に、暗い山道を登っていた。
三好家の山だった。七十年親しんできた山で、暗がりでもおよその道はわかる。
――首を吊るなら、あの辺り。
という目あてもあった。
時折、モトが杖で、パンと木の幹を叩いた。クマよけのためである。
春になり、すでにクマが目撃されていた。この時期は子連れのクマもおり、鉢合わせると惨事になる。
辰吉は背後の物音に耳をそばだてつつ、
「シゲさんよ」
聞いた。
「おまえなんか知ってんのか。次郎のこと」
「――」
いや、とシゲは言った。懐中電灯で木々の間を照らしながら、杖で枝や蜘蛛の巣を払い、闇へ踏み入っていく。
「だが、だいたいこうだろうなってのはわかるぜ」
モトがまた無造作に木の幹を打った。
シゲが聞いた。
「たぬ吉、おまえ、井上さんのリンゴ喰ってどうだった?」
「……」
辰吉は聞こえなかったように黙って歩いた。いくつも根を踏み越えた後、ふと、
「正直、親父にひっぱたかれたみてえだったよ」
「――」
「おまえらが信じるか知らんが、おれなりに謙虚になったよ」
「――章介は?」
モトは嘆息して言った。
「向いてる方向が違うんだよな。リンゴ作ってる動機が違う」
「おまえはどう思ったんだよ」
「……あんな楽しい人生は、いいなとおもったよ」
また、木の幹を打った。
シゲは言った。
「おれはあのリンゴ喰って、リンゴ辞めようと思ったぞ」
「――」
「チェーンソー持って、畑全部伐り倒そうと思った」
ふたりの老農家は暗い道を踏みしめ、黙って聞いた。
シゲは少し自嘲的な笑いを含んだ声で、
「もうリンゴ屋だなんて、えらそうな顔なんかできねえよ。完敗だ。ひとに言った言葉が全部自分に返ってきた。おまえごときがリンゴ作ってるなんて言えるのかってな。伐らなきゃいけなかった」
シゲはしばらく思いにふけるように、黙って山道を登った。
枝がざわめき、風が湿った朽ち葉のにおいを運んでいた。
やがて、
「でも、伐らなかった。急にわれに返ったんだ。なにやってんだ? たかがリンゴじゃねえかって」
乾いた声で言った。
「自分でびっくりした。おれの人生ではじめてだよ。たかがリンゴ、って思えたのは」
「……」
老農家たちは神妙に聞いていた。石ころを投げ打つように言ったその言葉は、この男の五十年でもあった。
シゲは言った。
「エンジン止めたら、目の前に、木が立っててよ。はじめておれを見るような、きょとんとした感じで」
「――」
「ただの木って感じでよ。ただ地面があって、木が生えてる。その前におれが立ってる」
「……」
シゲはしばらくなんの木だかすら忘れていた、と言った。
「だんだんリンゴの木だなあって思い出したんだが、なんか、悪気もなく立ってんだ。今年も当然、実をつけるつもりで、花芽の準備して、なんか、のびのびと太平楽に立ってた」
「――」
「それ見たら、おれも可笑しいような、ばかばかしいような気がしてよ。どうでもいいやって家に帰った。辞めちまおうとも思ったが、どうせヒマなんだ。ヒマつぶしに続けるかと思ってよ」
シゲは口を閉ざした。
月はなかったが、満天の星で空が明るかった。地面がほの白く浮き立って見える。その枝影を踏み、老農家たちは黙って歩いた。
モトが言った。
「ああ、ヒマつぶしでいい。多少の手抜きもありだ。そんくらいでなきゃ井上周五郎には勝てねえよ」
彼はまたパンッと立ち木の幹を叩いた。
辰吉は聞いた。
「それは、次郎の話と関係あんのか」
「次郎は今、チェーンソー持って立ってんだよ」
「え」
その時、頭上で小枝の折れる音がした。葉の間を大きなものがすべり落ちてきた。黒い大きな塊がふわりと地面に落ちる。
三人はぎょっと飛び退った。シゲは思わず懐中電灯を取り落とした。
だが、それは立ち上がり、口をきいた。
「何してんだ」
テツだった。きびしい声で、
「山に入るなと言ったはずだが」
辰吉は息をつき、――カラス天狗かと思った、とつぶやいた。
シゲは言った。
「おれらは、おまえに命令してもらうような身分じゃねんだ」
「下りてくれ。二次災害は困る」
「次郎を探してやらなきゃならねえ」
「いまは無理だ」
モトが言った。
「おまえはなんでいるんだよ」
「おれはクマぐらいあしらえるからだ」
星明りがわずかに坊主頭の輪郭をかたどっていたが、肩から下は闇に溶けるように気配がない。表情もまったく見えなかった。
おれもあしらえるぜ、と辰吉がうそぶいた。その手には熊スプレーがあった。
「そこをどきな、小僧。生意気言ってると、こいつをひっかけるぞ」
「やめとけ」
影は言った。
「風向きを見ろ」
風は影の後ろから吹いていた。スプレーすると自爆してしまう。
「……」
「おれが探してくるから、戻ってくれ」
影は言った。
「次郎さんが死ぬ気なら、死ぬのは彼の自由だ。だが、あんたらが巻き込まれる必要はねえ」
だが、シゲは言った。
「次郎は、あのガキは仲間のせがれだ。おれら集落の人間が探してやらなきゃなんねんだ」
「――」
「木にぶら下がってても、どっかでかくれんぼしてても、村のおとなが行ってやんなきゃいけねんだよ」
「……」
「じゃなきゃ、あいつはさびしいじゃねえか」
影は動かなかった。異界の門を守る番人のように、無言で立ちはだかっていた。三人の老人もまた引かなかった。
が、やがて、テツは舌打ちするように、
「マジか」
と、つぶやいた。
ふもとのほうで、クマ鈴のかすかな音が登ってきていた。別の方角から、次郎、と呼ぶ春田の声が細く聞こえていた。
寛円は赤目に言った。
「たとえば、おまえは強い。しかし、手津丸には負ける。手津丸がおれば、おまえが世の頂点に立つことはないわけじゃ。不愉快じゃな?」
「……」
「しかし、世の中すべてから敵が消え、父母のような味方ばかりであればどうじゃ? たとえば、赤が日当たりのよい野原で昼寝をしていても、たれも寝首を掻きに来る心配はない。むしろ、冷えぬように大きな葉をかけてくれるかもしれぬ」
寛円は言った。
「春、赤が柔らかいタケノコを掘りたくなる。なわばりから、ほかの獣を追い散らす手間なぞいらぬ。シシもクマも、『赤よ、喰え』と場所をあけてくれる。もし、そこにタケノコがなければ、たれかが探しに行ってくれる。持っている者に呼びかけても、赤にタケノコを喰わせるであろう。赤をよろこばせるためじゃ。味方ゆえにじゃ。敵なければ、世の中のどこもかしこも赤の家。まったくの安心な棲家じゃ」
寛円は言った。
「それこそが無敵よ」
「――」
赤目は猿臂をのばし、寛円の頭を掴んだ。
「これでも無敵と言えるか」
「――」
「おぬしが何を悟り、どんな境地にあろうと、世に悪意はあり、生きものには仏性ならざるものがついておる。食わねば死ぬ。食われればつらい。それを見ぬふりするのが、仏の教えか」
「生は苦なり。苦界にあって、その真実を見るのが仏法」
「寛円、わしに喰われて、なんの真実が見える」
「そなたの目は松明の炎を含んだようで美しい。これが真実じゃ」
赤目はぬっと顔をゆがめた。
急に眼前の僧が大きく見えた。その黒い双眸が宇宙のようにひろがり、地平の彼方から見ているように思えた。
しかし、そのまなざしは、誰ひとり咎めてはいなかった。苦界を見つめてなお、途方もなくおおらかで、のんきだった。星々を覆うほどのすさまじく壮大なのんきさで、出会った命を祝ぎ、抱きしめていた。
赤目のなかで小さな砂嵐が起きた。
この愚かでふしぎな人間には、恐怖はおろか、僧らしい哀れみもない。ただその澄んだ眸で、赤目にはうかがいしれぬ美しい真実を見ていた。
赤目はその頭から手を放した。
「たれかがわしに、タケノコを食わせてくれる世界があるのかの」
「ある」
「世のたれもが、わしにタケノコをくるるのか」
「そうじゃ」
「人間はみな、そこへ行くのか」
「そのために、わしが仏縁を授けてまわっておる」
「……」
赤目はにわかに崩れるように肩を落とした。そのとたん、血があふれ、はらわたが流れ出た。
「赤」
「たれかがわしに、タケノコを食わせてくれる世界へ、いく」
赤目はみるみるしわばみ、老いていった。
「わしもいつか、おぬしのように――なにものも畏れぬ――」
赤目のからだは枯れしぼみ、一堆の木くずのようになった。それは風に吹かれて森のなかに散った。
寛円は合掌して妖怪を送った。