鼻歌
翌朝、杏花集落の人々は駐在を呼び、捜索を頼むかどうか話していた。
その場へひょっこり、次郎のでかい顔がのぞいた。
「なにがあったんです?」
人々は一瞬の沈黙ののち、わめきだした。
次郎のとなりには瑛太がいた。ふたりの顔は血色がよく、つやつやしていた。ふたりは温泉にいた。
「瑛太くんの車で行きましたよ? サイフ? ああ、友だちのやってるとこに行ったので――え? 柵壊れたんですか? なんで?」
京子は真っ青になって息を震わせていた。亭主のでかい顔にビンタを食らわせると、憤然と帰っていった。
しかたなく蒼がみなに頭を下げて回った。柵の破壊は動物の仕業のようだった。
当の次郎はハタかれて、目をしばたいていたが、
「ちょうどよかった」
と、集まった人々に話しだした。
「じつは、昨日瑛太くんと飯を喰ってて、すごく面白い話になったんですよ。皆さんにも是非聞いていただきたい。ね、瑛太くん」
瑛太もコクリとうなずく。
人々はさすがにはらわたが煮えかかっていた。が、次郎は気づかず、
「じつは瑛太くん、お兄さんの会社を通して、オランダにリンゴを輸出してたんだって。その会社さんは、ヨーロッパのあちこちの高級老人ホームとかに、日本のフルーツを売り込んでんだけど、日本は長寿と健康の国だっていって、日本食とか日本のフルーツは人気なんだってさ」
「……」
「ただ日常的に食べるには高すぎるからさ。ちとリーズナブルな価格帯のリンゴが欲しいってんで、瑛太くん、規格外の小玉を送ってたんだって」
次郎は目を見開き、
「それがなんと、キロ百円になるんだってよ」
「!」
農夫たちはつい、吸い寄せられるように、ふたりに近づいた。
それでさ、と次郎は声を低くした。
「みんな、今、二百グラム以下の小玉、ジュースにしてるじゃない。タダ同然で。あの分、資材費丸赤だけどさ、あれ売らないか、って。――瑛太くんが提案したんだよね」
農家たちがおどろき、瑛太を見つめる。瑛太は真っ赤になってうなずいた。
「キロ、百円?」
「品種は?」
「何トンぐらい?」
次郎は鼻の穴をふくらませた人々を押さえ、
「ただね。時には為替の影響も受けるし、グローバルGAPも取得しなきゃいけないという条件もあるんだよ」
グローバル……と、にぶい目をした周りの年寄りに、モトが、ISOの親戚だ、と教えた。
次郎は言った。
「そこでね。おれはひとつ面白いことを考えた。これさ。150グラムぐらいの小玉、日本で売るのはどう?」
「……」
人々は目をしばたいた。日本では小玉はスーパーなどで扱いにくく、規格外となり、あまり売り先がない。
次郎は、
「外人は、小玉喰うわけじゃない? それは、ちょこっと小腹がすいた時に、籠なんかにつんであるやつを、がぶっと丸ごと食べるわけだ。皮もなんも剥かないで。すごく便利だよね? 皮剥かなきゃ、バナナよりも便利。お手軽――こんな風に、日本でも食べてもらえばいいんじゃない?」
おう、とお市が目を瞠った。
「次郎さん! それだ!」
しかし、農夫たちは今ひとつピンと来ない。ひとりの農夫が不安そうに、
「日本人は皮むくだろ。すぐ農薬がこわいとか言って」
お市は次郎より先に、
「そこを変えるんだよ! いまさ、残留農薬ってすげえきびしいんでしょ。皮ごと食べて全然問題ないんでしょ。それみんな、知らないからさ。皮つきでオッケーって宣伝するんだよ。『杏花の丸かじりリンゴ』とかなんとか――ミニサイズなら、若者にスナック感覚で食べてもらえる。とくに独身者。皮なんかアレ、ポリフェノールの塊だし、一日リンゴ一個で医者いらずだし、ヘルシーすぎる。コンビニのサラダに勝てる。いや、うまくすりゃコンビニで売ってもらえるよ?!」
若い農家たちもどよめいた。「――コンビニで!!」
辰吉も、そうそう、とあいずちを打ち、
「そうなんだよ。藤原学園のやつらも、リンゴは皮むきすんのが面倒だから喰わなかったって言ってたわ。なんだ、皮食わせればいいのか」
ほかの農家たちも感嘆した。ナイフをとって皮むきをするという手間がなければ、リンゴはほかの果物よりも扱いやすい。バナナやミカンのように皮が残らず、イチゴよりも携帯しやすい。
お市は言った。
「これは文化を変えるってことだからね。簡単じゃないよ。簡単じゃないかもしれないけど、すごく面白い! リンゴのシェアが倍化するだろうね。日本のリンゴの未来が変わるね」
「!」
人々の顔が明るくなっていた。
春田は少し惜しそうに、
「それで瑛太の、オランダの話はやんねえのか? キロ百円」
両方やれ、とシゲが言った。
「コンビニが小玉置いてくれるようになったら、どうせほかも参戦してくるんだ。手札は多く持ってたほうがいい」
次郎は大きな顔に笑みをひろげた。
「それじゃ、作戦会議やりましょうか。瑛太くんちで」
その晩、次郎は京子に手をついて詫びた。
彼女にははぐらかさず話した。
「おれ、すねちゃってたのよね」
柵が完成し、みなが喜んでいる顔を見ても、なぜか感激しなかった。
うれしいはずで、ホッとしてはいたが、人々の笑顔がわずらわしく、礼の言葉がそらぞらしく聞こえた。
「すごく見たかった風景なのにさ。親父が死んでから、あれこれがんばってきたのも、ずっとあんな風に感謝されたかったからなのにさ。すげえ腹がたってさ。うれしいっていうより、ざまあみろっていうか。これで文句ねえだろ、ちくしょうって。なんか復讐みたいなうらめしい気持ちでさ」
「……」
「結局は、おれってなんなのっていう、いじけた子どもみたいな気分だったんだよね。柵ができれば、おまえらおれを認めるのかよ。おれは柵なのか。ここはおれのふるさとじゃねえのかってさ」
突如、二年間の村八分同然の扱いへの怒りが現れ、この集落が憎くてたまらなくなった。しかし、ようやく訪れた和と笑顔を絶対に壊したくなかった。
「でさ、シゲさんのとこに坊主いただろ? あそこに怒鳴り込んでやろうと思ってさ」
「!」
「いや、会わなかった。でも」
次郎はあの晩、シゲの家をたずねた。獰猛な怒りに苛まれていたが、毛ひとすじの理性で踏みとどまり、家屋の前でうろついていた。
「シゲさん風呂に入ってたらしくてさ。ガラッと音がして、テツ坊がさ。『背中流してやろうか』なんて言ってんの。やいやい言ってたけど、シゲさん、テツ坊に背中流してもらってんの。上機嫌で話しててさ。で、お市坊の声も聞こえんだよ。『おでんできたぞー』なんて言ってんだ。『酒、燗したぞー』とかさ。で、テツ坊が出て行った後、シゲさん、歌っててさ」
「――」
次郎の目はいつのまにかうるんでいた。
「鼻歌歌ってんだよ。あのひとが。おれ急に悲しくなってさ。シゲさんがあんまりに機嫌よくて、うれしそうで、胸が苦しくてたまらなくなった。このひと、ずっと誰にもいたわってもらってなかった、って」
「――」
「奥さんが亡くなって、息子さんも全然たずねてこなくて。ずっとひとりで飯喰って、ひとりでテレビ見て、正月もひとりで、――ひとりでリンゴ作ってきたんだなって。ひとりで、鬼みたいな顔して」
次郎は妻に言った。
「おれがさびしいんだから、ほかのひともさびしいんだ。なんでこんな簡単なこと気づかなかったのか」
「――」
「そういうのをなんとかするのが、おれの役目なんじゃないかって。そう思ったら、急に、腹にわあっと力が湧いてきたんだよ」
次郎は一番に瑛太を思い出した。その足で瑛太の家へ走った。
瑛太は家にあげたが、次郎はどう話を切り出したものかわからない。
迷ったあげく、先のテツとシゲのことを思い出し、
――温泉でもいこか。
という話になり、瑛太の車で行き着けの温泉に行った。
「裸のつきあいって言うじゃない。温泉でいっしょに湯につかって、そのあと飯喰って、やっと、ちょびちょびと話をした」
「――」
「あの子、むかしからハブには慣れてるから、べつに怒ってはいないって。それでも、うちに飯喰いにきてくれって言ったら、ハイって言ってたよ」
「――」
それから、じつは、とヨーロッパの商売の話になったという。
次郎は女房に言った。
「だからさ。おれはこういうのが、おれの役割なんだなと思うの。おれみたいにいじけちゃうやつがいたら、中に入れてやるのがね」
「そう」
京子はやっと言った。
「今度は大丈夫そうな顔してる」
次郎は頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「はい」
京子はゆるした。
「お詫びにしっかり稼いで、蒼と三人で旅行連れてってもらうからね」
その朝はやく、僧ふたりは荷を背負い、網代笠をかぶって、シゲの家を出た。
集落の者たちはふたりを送るために市道に出ていた。
ふたりは朝から元気だった。袖をひろげ、新しい衣の礼を言った。女たちがぼろぼろの衣を見かねて縫ってやったものだ。
集落の者たちは笑顔だったが、みなさびしさをこらえていた。
もよは昔話の結びを思い出した。
妖怪赤目に引導を渡した後、寛円和上は伏見の神から子ぎつね弥市を預かり、手津丸とともに山をおりた。避難していた村人を見つけ、
――もう禍は去った。
と、知らせた。村人たちはよろこび、寛円に村にいてほしいとすがった。
――どうか。寺を建てますから。
しかし、寛円は回国して仏法をひろめねばならぬ身。手津丸と弥市の木像を彫って渡した。
『わしが戻ることは容易ではないが、この者たちの足は速い。災いある時は、わが眷属を呼べ。たちどころに馳せ戻り、危難から救うであろう』
もよはお市に笑って聞いた。
「また、なんかあったら帰ってきてくれるんだよね?」
「はあ? おれら修行中だよ? すぐは来れないよ」
お市は指三本を曲げて耳にあて、
「電話して。おれの携帯に」
朝霧が出ていた。ふたりは手を振り、霧のなかに旅立った。
もよは叫んだ。
「ありがとうございました。お堂、きっと直しますからね!」
霧のなかから、何か返事があったが、明るい声としかわからなかった。
テツとお市は集落から見えなくなるころ、霧に溶けるようにして消えた。
――ということはなく、ふたりは国道の上をすたすた歩いていた。
「またこの暮らし。どんぐり暮らし」
お市は歌うように言った。
「ばーちゃんのきりぼし大根のおやき、うまかったなー。あれ餞別にいただきたかったなー」
「うまかったな」
「お堂にお礼が行くとはなー。おれ何度も人間だって言ったよなー」
「――」
テツは機嫌よく歩いている。襦袢も新しく、気持ちがよかった。
お市はテツに、
「次行く前に、善光寺によってかない? あそこなら、いかなキミでも托鉢できると思うの」
「んーん」
テツの口は笑っている。頭陀袋から白い封筒をひらりと出した。
え、とお市が目をひらいた。
「だ、だれから?」
「みんな」
お市は祝儀袋を開き、よろこびの悲鳴をあげた。拳と錫杖を高く振り上げて走り回り、キスを天に投げる。
「南無無畏大師! ありがとうございますー! おおお、オン諭吉ソワカー! 諭吉五名様だとお? あのケチな貧乏人どもが、無理しやがって――てっちゃん、温泉いこ!」
「いや、肉だろ。木曽牛だろ!」
「温泉かつ木曽牛でしょ! かつ生ビールでしょ!」
「馬刺しも」
「馬刺しかつ温泉かつ生ビール木曽牛!」
霧が晴れ、桜が薄紅の花を開いていた。萌黄色を帯びた田園の景色のなか、ふたりははしゃぎながら早足で歩いて行った。
―― 了 ――




