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鉄槌

 杏花集落から、井上農園に見学ツアーバスが出て行く。

 ふだん挨拶もしないような農夫たちが十二人、奇跡のように集まり、バスにおさまっていた。

 井上老人から、


 ――是非、うちにも遊びにきてください。


 というあたたかい誘いを受けていた。彼らも、ぜひに、と返事をしてしまった。

 人づきあいにはおそろしく不精な農家たちだったが、一面律儀者でもあった。口に出した以上は行かねばならない。


 しかし、バスの中は静かである。たがいに会話はない。

 三銃士はそれぞれ古武士のようにいかめしい顔をして座っている。ほかの農家はそれぞれスマホをいじったり、目を閉じて居眠りしていた。


 その実、誰も画面を見ておらず、寝てもいない。誰かが自分のことを言いはせぬかと、全身で耳をそばだてている。いつでも銃を抜く用意があった。

 次郎がマイクをとり、挨拶して、


「本日は、井上農園、井上周五郎さんのご好意により、農園見学を催行することになりました。最初に井上さんと農園をまわり、最後に事務所でお弁当をいただきながら、井上さんと質疑応答の時間をもちます。帰りは二時ぐらいを予定しております。皆様、今日一日どうぞよろしくおねがいします」


 誰も何も言わない。針山のような空気の中、バスは松本へ向かった。





 井上老人は目じりにくしゃくしゃとしわを寄せて、うれしそうに杏花の農家たちを受け入れた。ひとりひとりに挨拶し、


「お待ちしておりました。さっそく回りましょう」


 農夫たちは老人のあとをアヒルの子のようについて行った。

 彼らは神のリンゴ園に入り、神妙な顔つきをして、立ち並ぶリンゴの木を見つめた。

 枝ぶりを見て何かを学びとろうとしたり、土を調べている者もいる。


「僕個人の畑はこっちの一ヘクタール。あとは会社の仲間の畑で、僕がちょいちょい冷やかしにいってます。でも、獣の柵は村のほかの農家さんと協力して、ぐるっと全部、広域柵で囲んでます」


 井上はリンゴ農園を見せながら、さりげなく獣害用の柵も見せた。

 高さ二メートルのポールが一定間隔に並ぶ電気柵である。


「このへんはクマが出てくるので、どうしても電気柵が必要です。それでも、たまにイノシシに破られるので、一週間に一度の見回りを当番でやってます」


 ちょうど若い女が柵の向こうを歩いていた。


「こんにちはー」


 ニコニコと手を振っている。井上は社員だと紹介し、、


「――きいちゃん、ごくろうさん。なんかあった?」

「二四七、三〇二番に、アライグマの足跡あったけど、中には入ってないよ。大成功」

「よっしゃ。こりゃ米の飯炊いてお祝いしなくちゃいかんな」


 井上は農家に向かい、


「どうしても小さい獣が入ってくるから、このネットを貼ったんです。これを駆け上って、この上の電線で落ちます。埼玉の白落(はくらく)くんのまねです」


 農家がうなずきつつ、


「草刈りはどうしてます?」

「うちは牛です」

「ああ――」

「いまね。レンタルあるんですよ。牛をレンタルで借りてきて、草食わせてます。牛はクマよけにもなるらしいですから」


 農園の入り口にはカフェなどいくつか店がある。ジャムやジュースの加工品や野菜が売られ、買い物客が群がっていた。みな、車で買いに来るらしい。


「みんな、リンゴ買いにくるんですか」

「リンゴはもうないんです」


 井上は笑い、


「でも、あそこのパン屋さんのパンが評判で、お客さんがついでにジャムやジュースも買ってってくれるんですよ。あと、あの野菜は同じ村の農家さんたちのです。これもおいしくてねえ。今日のお昼ごはんもその野菜で作ってます」


 戻ってくると、若者たちが昼食の支度をしてくれていた。

 二十代から三十代の男女がくるくると動き、食事の膳を配っている。


「外、寒かったでしょう。どうぞ」


 若者たちは愛想がよかった。味噌汁や膳を運びながら、目が合うとニコリと微笑む。その笑顔がまばゆかった。

 農家たちは我知らず恐縮して、頭を下げた。

 井上はいっしょにテーブルにつき、


「僕のリンゴはもう在庫がなくて。これは家族で食べる分にとっておいたサンふじです。どうぞ、召し上がってください」


 膳にはリンゴがひとつずつついていた。





 シゲは自宅に戻ると、玄関のかまちに落ちるように座り込んだ。

 長く、そのまま動けなかった。

 白髪頭を掴み、歯を喰いしばって震えた。

 声をかけてくる家族はない。静まった家のなかで、シゲはひとり玄関にうずくまって苦い涙を流していた。





 辰吉もまた自宅に帰ると、泣いていた。

 辰吉には女房がいた。


「井上農園でなんかあったの?」


 辰吉はふとんにくるまって泣いていたが、出てきて女房に、


「おれは、日本一じゃなかった」


 大きな両目から滝の涙をたらして泣いた。

 女房は話を聞いてやった。

 辰吉は泣きじゃくりながら、井上老人のリンゴを食べた話をした。


「うまいただのリンゴだよ。ほんとにうまい、ふつうのサンふじだ。だが、すごく――気持ちがほわあーっと」


 辰吉はリンゴを食べた時、意外にふつうだ、とおもった。バランスのよさ、味の気品は一流だが、とっぴなところはない。

 だが、喰った後なぜか、涙が出た。腹にふしぎな心地よさがあった。やさしいものに包まれているような、幸福に近い気持ちが起こった。


「元気になるっていうかよ。いいもの喰ったって、深いところの満足感があってよ。――なんていうか、愛情いっぱい喰った感じなんだよ」

「――」

「この感じ、畑にいる時から感じてたんだよ。あそこには井上さんの愛情がいっぱいあるんだよ。リンゴへの愛情だけじゃない。食べる人への愛情がさ」


 辰吉は洟をかんだ。


「おれ、何やってたんだろうな!」


 あれに比べたら、自分のリンゴなど稚戯にひとしい、とおもった。


 ――五十年かけて作ってきたのは、ただの皮のキレイなリンゴだ。


 女房はにぶい目をして聞いていたが、


「お父さんだから、そういうことがわかるんだよ」

「……」

「わたしら凡人から見たら、ただの高いリンゴだ。名人のお父さんだから、その違いがわかるんだよ」

「そうだ。おれにはわかるんだよ!」


 辰吉はわめいた。


「あのひとがおれの畑を見て、おれを理解してくれたように、あのひとの神様みたいなやさしさがわかるんだよ。人柄が、出るんだよ。愛情のない人間が作ったリンゴは、愛情がねえんだ」


 ――あそこの木、みんな誇らしげだった。


 幸福そうだった、と思った。従業員も幸せそうだった。

 だが、女房はやさしく言った。


「お父さんだって、愛情あるじゃない。リンゴはわが子だって、いつも可愛がってるでしょ」

「……」

「あんた、極端だよ。あんただって天才だよ」


 辰吉は洟をすすった。この女房は軽々しく天才という言葉を使いすぎるが、それを聞くのは悪くなかった。


「おれは落ち込んでるんじゃねえんだ」


 辰吉は洟をすすってうなずいた。


「うれしいのさ。今日、天の高みを知った。おれにはまだ伸びしろがあるんだ。まだまだ成長して、さらに高みをめざすんだよ」


 辰吉は濡れて赤い頬をひきあげ、ゆがんだ笑顔を作った。





 モトは泣いてはいなかった。

 こたつに背を丸め、女房のつけてくれた燗酒を舐めながら、ぼう然としていた。

 ふと、問わず語りのように言った。


「おれのじいさんはさ。ヒエだの雑穀作ってて、喰えなくてさ。戦後、親父がリンゴやるようになって、いきなり御殿建てた。リンゴ御殿だ。そこらみんな、リンゴ御殿が建ってた。三種の神器も早くからそろえてよ――」


 女房はその歴史を知っている。だが、黙って酌をしてやった。

 モトは口をつけ、


「だから、おれもリンゴさえ極めればと思って、やってきたんだよ。極めたつもりだったんだよ。でも、どうしてか儲からねえ。資材費ばっかりかかって、稼ぎは華々しくねえ」

「……」

「時代が悪いと思ってたのよ。子どもの顎が小っさくなって、リンゴを食える口じゃなくなったってな。

――でも、ちがうんだわ。売れてるリンゴは、やっぱり違うんだ」


 猪口をあおり、ぼんやり宙を見つめた。

 女房はまた酌をしてやり、


「井上農園、なんかすごい仕掛けでもあった?」


 いや、とモトは言った。


「あたりまえのことを、あたりまえにやってるだけだよ。べつにドローンで散布してるとか、AIで管理してるとか、特別なことはねえ。――ただ、楽しそうだった」

「――」

「元気な若い子がいっぱいいて、覇気があって。井上さんのことを周ちゃん、なんて呼んでんだ。生意気なこというやつもあってさ。でも、みんな仲よしだったな」

「――」

「ああいう楽しそうなところだから、あんなリンゴになるんかなあ」


 モトは倒れ、畳の上に仰向いた。

 女房は自分で酌をして、猪口をあおった。


「井上さんていくつ?」

「八十二」


 モトは若々しい幸せそうな老人を思い出した。せいぜい六十すぎぐらいに見えた。十も下の自分のほうが老け込んでいるように感じる。


(この差はなんなんだよ。この人生の質の差はよ)



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