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単独行

 翌朝、正造は両国から汽船に乗りました。江戸時代に発達した河川舟運はなお盛んです。ここから汽船に乗れば隅田川から江戸川、利根川を経て渡良瀬川まで行けるのです。偶然、船内に知人が居ました。足利の原田という男です。知人同士の会話になりました。正造は例の大声で話します。これから栃木県下に単身潜入するにしては随分な不用心です。やがて汽船は利根川から渡良瀬川に入りました。正造は終点の笹良橋寄航場で下船しました。ここは栃木県三鴨村です。郷里の小中村の近くです。それなのに正造は顔を隠しもせず堂々と歩きました。無警戒なのは性分なのです。当然、顔見知りに出会いました。

「どうしてこんな所にいる」

 誰もが正造の姿を見て驚きかつ心配しましたが、正造は慌てる風もありません。

「心得て候」

 そう言って栃木町へ向かいます。日暮れて後、友人や同士の家宅を訪ね廻って情報を集めました。気になっていたのは、正造捜索のために逮捕された親類や同志たちのその後です。幸い、皆すでに釈放されているとのことでした。正造は安蘇郡から足利郡まで隈無く歩き廻り、三島通庸の暴政の証拠となる書類を収集し、被害者の証言を筆記しました。正造が顔を出せば誰もが喜んで食事を与え、寝床を貸し、被害を証言しました。みな三島を憎んでいたし、六角家騒動以来の正造の活躍に信頼を寄せていたからです。こうした人々の協力がなければ、とうてい鬼県令と渡り合うことはできなかったでしょう。しかし、三島を恐れるあまり正造を忌避する者もいました。正造は決して責めませんでした。責めるべきは、それほどまでに領民を恐怖させている鬼県令三島です。

 その日も正造は夜道を歩いていました。ちょうど狭間新道に出ると、人力車の車列が近づいてきました。正造は道路脇の草むらに身を潜めて行き過ぎるのを待ちます。官吏と芸妓らを乗せた人力車五十両ほどがリンリンと鈴の音を響かせて行き過ぎます。提灯の明かりが列をなし、闇に映えて美しい。おそらく宇都宮で宴会が開かれるのであろう。

「ふっ」

 正造は不意に笑い声を漏らしました。

(俺はいったい何なのだ)

 田中正造は歴とした栃木県会議員です。それが虫けらのように草むらに這いつくばって身を潜めているのです。そんな自分の境遇が、不意に滑稽に感じられたのです。その夜、正造は梁田郡に入り、家々を訪問し、証拠の収集に努めました。翌日には山田郡に足を伸ばす予定です。

 苦労の甲斐あって三島暴政の証拠が集まりつつあります。九月二十六日には重要な日誌を目にすることができました。足利町で三泉堂という書店を切り盛りしている川島平五郎のもたらした資料です。日誌には足利郡西部における土木工事の経緯が詳しく記録されています。正造はパラパラとめくってみました。

「八月二十九日、足利町、柿沼忠吉ら十二家の軒廂及び本棟毀たる。遠近火災、戦争の如し」

「九月十九日、午前八時、郡長仕込杖をひらめかし、土足で人民集会席へ躍り上がり、総代大島彦右衛門を罵り、無賃人夫を畜生と大声に呼ばわりて威張り回る。一同恐怖、山に逃げ、河に落ち、あるいは学校に隠れ、遠くは両替山、近きは土蔵二階および縁の下に潜み、皆四方八方へ逃げたり」

 これだけでも暴政の一端を論証するに足るものです。正造はその夜のうちに日誌を筆写し、川島平五郎にはさらなる証拠収集を依頼しました。

 翌日、日没を待って正造は足利郡助戸村の木村浅七宅に向かいました。すでに木村の宏壮な屋敷は無残に破壊され、その残骸があちこちに積み上げられています。新道の縄張りがなされ、篝火が焚かれ、郡官吏どもが屯しています。正造は剛胆にも堂々と踏み込んでいきました。すると遠目から身振り手振りで合図する者がいます。

「隠れろ」

 と言っているようです。正造は崩れ残った土蔵の一角に身を潜めました。しばらくそこで息を潜めていると木村浅七が忍んで来ました。これほどの苦難に遭いながら木村浅七の目は生気に満ちています。ちなみに木村は、この後、織機工場を再興し、近代的な自動機械を導入して安価な織物製品を製造し、海外に輸出するまでになります。

(たいした男だ)

 感心しながら正造は木村浅七に来意を告げて協力を請いました。

「証拠が欲しいのだ」

「ある」

 木村は肯くと正造を連れて出ました。仮住まいの掘っ立て小屋に入ると、木村浅七は図面を見せてくれました。木村屋敷の平面図です。織機工場、土蔵、住居などの輪郭が描かれていますが、その上に白い紙が貼られて修正が加えられている。新道です。これを見れば木村家の破壊状況が一目瞭然です。

「これを使え」

「三島の命脈もここまでだ」

 正造は大いに喜んで木村家を辞し、足利町へ向かうことにしました。木村浅七みずから道案内を買って出て、安全な間道に正造を導いてくれました。途中、木村と別れ、気分良く足利町へと歩きました。三島弾劾の証拠集めはほぼ成功したといえます。問題は、これらの証拠を何処へどのように持ち込むかです。そんなことを考えていると、向こうに提灯の灯が見えました。正造は警戒します。近づいてくるのはひとりらしい。しかも背の曲がった老人のようです。近づくと顔見知りの老婆です。名をキクという。正造の顔を見たキクは息を呑んで驚き、涙を流し、しばらく言葉が出ませんでした。キクがようやく語ったところによれば、正造の妹リンが警察に連行されたという。

「でれすけ、三島め」

「足利さ、えぐな」

 行けば捕まるに違いない。正造は足を群馬方面に向けました。途中、客待ちの人力車を拾うと一気に渡良瀬川を渡り、館林の斎藤楼という遊廓に登りました。

(あー、こわい、やれやれ)

 栃木県警の管轄下を逃れたという解放感と、連日の潜伏密行生活の疲れから、正造は正体もなくひたすら眠り惚けました。


 どれだけ眠ったのだろう。目が覚めると、見知らぬ男の顔がありました。

「あなた、命が危ないですよ」

 男は正造を揺り起こし、こんな所で寝ている場合じゃないと繰り返し言います。正造はまだ寝ぼけています。

「誰っぺ?」

「あなたは加波山事件を知らないのですか」

 男は名乗る代わりに、最新の社会情勢を説明し始めました。正造は潜伏生活を続けていたので初耳の事件です。新聞を読む暇などなかったし、新聞を手に入れるのも難しかったのです。正造が訪ねる先々は、三島の暴政のため新聞を購読する余裕さえ失っていたのです。

 加波山事件とは、自由党内の過激派が三島通庸や政府要人に爆弾テロを仕掛けようとして失敗し、ついに茨城県加波山に集結して挙兵したという事件です。挙兵といってもわずか十六名のことであり、間もなく鎮圧されました。しかし、政府はこの事件を重視し、関東一円に厳重な捜査態勢を敷き、民権論者を片っ端から捜索しています。正造は自分の迂闊さに気づきました。群馬県は少しも安全ではなかったのです。群馬どころか関東一円すべて危険です。

(よく無事でいられたものだ)

 今になって冷や汗が出て来ました。この事態は、栃木県令三島通庸には好都合でした。加波山事件の捜査にかこつけて田中正造の捜索を強化しました。事態を呑み込んだ正造ですが、不用心にも見知らぬこの男をすっかり信じてしまいました。

「ご忠告、誠にありがとう」

 正造は礼を言い、自身の事情を説明しました。三島の暴政を告発するため証拠集めをしていること、その作業がまだ中途だから今やめるわけにはいかないこと、などです。

「冒険の業、なお多々ならんと覚悟しています」

 正造は言いました。相手の男が偵吏なら一巻の終わりでしたが、正造は好運でした。

「その言や好し。足下に一助を与えよう」

 そういって男は正造を連れ出し、一軒の陋屋に案内しました。

「ここで待て」

 やがて夕刻になると、ひとりの婦人が食事を運んできてくれました。互いに何も言いません。それが双方のためです。万が一、官憲に捕まって厳しく尋問されても知らないことは答えようがない。夜になってしばらくすると屋外から声がします。先ほどの男の声でした。

「田中君、手を出したまえ」

 正造が手を出すと、物が落ちてきました。紙幣の束だとわかりました。

「僕は松本ですよ」

 そう言うと男は立ち去りました。

(松本?ひょっとして館林医院長か)

 そう思いましたが、確認はしません。それが互いのためです。なお正造は陋屋のなかにしゃがんでジッとしていましたが、未明になると別の男が来ました。その男は正造を二里ほど離れた赤岩の旅亭に連れて行き、じっくり眠らせてくれました。

 翌日、正造は迷いました。男は東京まで正造を連れていこうとしています。このまま東京へ行き、収集し得た証拠を持って政府要人を説き回り、三島県令の処分を訴えるのも悪くありません。しかし、おそらく今ごろ三泉堂の川島たちが新しい証拠物を集めてくれているはずです。それを放置するのはいかにも惜しい。迷った揚げ句、正造は同行の男に打ち明けました。

「なお正確なる証拠を得るため、一身を猛火に投じて市場村へ戻るべし」

 男は反対しませんでした。それどころか自らも証拠書類の収集に協力すると言ってくれました。ふたりは、三日後に大島村の小山孝八郎宅で落ち合う約束をして別れました。男は紙屑拾いの格好をして佐野方面に向かい、正造は夜を待って市場村へと向かいました。大光院から金山に登り、その山裾にある市場村へ降りました。福田という知人宅を訪ねると、福田は目を剥いて驚きました。

「どうしてこんな所にいる」

「証拠集めだ。三泉堂から証拠は届いておらぬか」

「馬鹿な」

 福田の話によると三泉堂の主人もその他の同志も警察に留置されているという。そういう福田自身、昨日まで警察で尋問されていたという。それがやっと釈放されたばかりだったのです。それだけではありません。正造の親類縁者ことごとくが家宅捜索を受けているといいます。福田は正造を家内に入れようとしません。

「悪いが早くここを立ち去ってくれ」

 言うが早いかピシャリと戸を閉められてしまいました。すると二階の窓から女の声がします。福田の嫁で名をヨネといいます。

「これっ」

 そういってヨネは草鞋三足を投げてくれました。草鞋の緒には紙幣が結ばれていました。

(ありがたい)

 夜道を駆けながら正造は思いました。正造に徒労感はありません。そもそも仕事好きの正造は、成果の有無をあまり気に止めないところがあります。労を惜しまないのが取り柄です。正造は暗夜を梁田郡に走り、旧友の織田龍三郎宅を訪ねました。龍三郎は不在でしたが、老父がわざわざ大島村への間道を案内してくれました。こうして一晩、歩きつづけて無事に小山孝八郎宅へ着きました。

 その日は激しい雨でした。正造は小山家の土蔵に潜んで三日待ちましたが、あの男はついに現われません。やむなく十月二日未明、東京へ向けて出立しました。小山孝八郎は正造のために金銭、弁当、道案内、宿泊先まであらゆる便宜をはかってくれました。正造は中仙道に出て鴻巣宿に至り、鴻巣駅から日本鉄道の汽車に乗ろうとしました。正造は社交的な性格で顔が広い。駅でたまたま友人某に行き会い、声をかけられました。すると、例によって正造は抑制の効かぬ大声を出しました。これがまずかったらしく、汽車に乗ると偵吏らしき男二人が鋭い目つきで正造を睨んでいるのに気づきました。

(しまった)

 とはいえ下手に動いては余計にまずい。汽車は桶川、上尾、大宮、浦和の各駅を通過していきます。正造にとっての好運は、たまたま数日前の大雨で洪水になり、荒川の鉄橋が流されていたことです。汽車は戸田で停車しました。ここで下車して荒川を船渡りするのです。正造は人混みにまぎれて船に乗り、下船すると偵吏の目をくらまし、偵吏を汽車へとやり過ごしました。発車する汽車を見送った正造は足を南東に向けました。そろそろ収穫期をむかえる練馬大根の広大な畑のなかを、正造はズンズン歩きます。板橋に着いた頃にはまだ日が高い。頭の天辺からつま先まで関東ローム層の黒土にまみれています。正造は泥だらけの身なりで遊廓に登楼しました。幸い懐には金があります。胡散臭げに睨みつけてきた遣り手婆に大金をつかませると、婆は露骨なほどに相好を崩しました。まずは風呂に入りたい。ついでに足袋や着物の洗濯を頼みました。風呂上がりに腹ごしらえをして、妓に手を延ばしましたが、そこで眠りに落ち、白い太腿に頭を突っ込んだまま鼾をたて始めました。

 日没後、目覚めた正造は遊廓を出て、牛込の赤羽万次郎宅を訪れました。赤羽は不在でした。今後の方針を赤羽と相談しようと思っていたのですが、その目算が外れました。身重の赤羽夫人が気の毒がって応対してくれました。

「眠いのでどうか寝かしてください」

 馬鹿な話で正造は眠くて仕方がありません。遊廓で眠ったはずでしたが、まだ眠り足りないようでした。子供のような無邪気さで正造は言ったのですが、外見は立派な大人ですから言われた方は戸惑ってしまいます。赤羽夫人は、正造とは初対面でしたが、その名前くらいは知っていました。どうしたものかと迷い、即答を避け、話題を変えました。

「昨日、この家も捜索を受けたのですよ。それでもいいのですか。新聞にはあなたが捕まったと出ていますが、脱け縄でもなさったのですか」

 夫人は朝野新聞を見せてくれた。記事によれば田中正造は捕縛されたことになっています。

「いえ、捕まってはいません。政府に訴え出るために田舎から出て来たばかりです。まだ捕まるわけにはいきません。どうか眠らせてください」

 また眠る話に戻りました。ここ数日来の潜伏夜行は、さすがに中年の身にこたえていました。正造はすでに四十代後半の年令です。江戸時代なら隠居できる年頃です。それが、よくぞ走り回ったものです。赤羽夫人は仕方なく正造を台所へ案内し、裏口の場所や戸外の地理を教え、竃のそばに眠らせてくれました。悪意からではありません。いざという場合に逃げ易いからです。正造は、山が転がるように寝ころびました。竃に残る熱が心地よく、すぐに眠りに落ちました。


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