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渡良瀬義記  -田中正造の生涯-  作者: ジュウシマツ


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8/12

苛斂誅求

 三島通庸(みしまみちつね)は着任の翌月、つまり明治十七年一月、早くも栃木県庁の移転を布告しました。栃木町から宇都宮町へ県庁を移すというのです。

 さかのぼれば明治六年、宇都宮県と栃木県とが合併して栃木県になった際、栃木町が県都とされ、県庁、監獄、官舎、病院、学校などが整備され、新官衙(かんが)が完成して十年ほどしか経っていません。その際、官費、寄付金、賦役などおよそ十万円の投資が行われたばかりです。県都の地位を失う栃木町では反対運動が起こりました。

「不経済じゃないか」

 栃木町で十万円を費やし、今また宇都宮町で十万円を費やすのは無駄です。しかし、宇都宮町民は大いに喜び、県庁誘致運動を起こしました。わが町が栄えると単純に信じた宇都宮の人々はやがて(ほぞ)()むことになります。

 県庁移転が布告されて後、およそ二ヶ月間にわたって県庁官吏による苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)がくりひろげられます。用地買収に必要な資金はおよそ十万円と見積もられていましたが、宇都宮町民に課された寄付金もほぼ十万円でした。つまり用地買収費は寄付金によって賄われたのです。寄付といっても実質は強制徴収です。寄付を渋れば「家宅捜索するぞ」と脅されました。町民は泣く泣く承諾書に署名するしかなありません。

「私儀、本県県庁庁舎建設費として署名捺印の上、献金仕り候儀、確実に御座候」

 全くの偽書です。寄付金ばかりではありません。市街地では数万坪の民地が無償で献納させられました。唯一の例外は本田某という士族でした。本田家の敷地は県庁表門の予定地でしたから、官吏は真っ先に押し掛けて土地献納を要求しました。本田家の当主は激怒しました。先祖伝来の槍を持ち出し、刃音も高くしごいてみせると大音声に呼ばわりました。

「我が家は先祖の槍先に得たり、これを失うもまた槍先にあり。速やかに来たって勝負を決せよ」

 これには官吏の方が震え上がりました。弱きに強く、強きに弱いのが官吏です。結局、三倍の広さの代替地が本田には与えられました。これは唯一の例外であり、ほとんど全ての市街地住民は恨みを呑んで土地献納に応じざるを得ませんでした。そして、いざ工事が始まると、住民たちは無賃人夫として狩り出されました。労役をさぼったり、遅刻したりすれば容赦なく鞭撻の刑が与えられました。労役の大義名分は受益者負担という理屈でしたが、実質は三島通庸の私的な租庸調(そようちょう)でした。

 被害は宇都宮町だけではありません。栃木県内九郡で官庁街の改築が強行されていました。足利郡助戸村の豪商木村浅七などは最も悲惨な目に遭わされたひとりです。羽二重織物の製造と販売で財を為した木村浅七は、百名を越える職人と行商人を抱え、宏壮な敷地と土蔵数棟と織物工場と屋敷を所有していました。これに目をつけた三島通庸は、新道を意図的に木村の敷地にぶつけました。木村浅七は、郡吏からの献地と献金の要求を峻拒しました。すると郡役所に召喚されました。

「家宅七棟を毀つべし。しからざれば人夫を向けて官にて破るべし」

 暴政というしかありません。木村浅七は腸が煮えくり返るのを抑えつつ、冷静に損得を勘定しました。鬼県令と戦っても得はありません。やむなく木村浅七は、家人や使用人を指揮して織機や家財道具などを運び出させはじめました。不服ながらも土地を明け渡し、織物工場を移転させようと思ったのです。ところが鬼県令は木村の予想以上に酷烈でした。突如、郡官吏に雇われた人夫多数が乱入してきたのです。人夫どもは酒に酔っており、手当たり次第に暴れました。容赦ない破壊が行なわれ、濛々たる粉塵とともに木村の家宅、土蔵、工場、織機、家財道具は無残に毀たれました。

 この間、正造は事態の推移を見守るしかありませんでした。本来ならば栃木県会において県令三島の暴政を質し、非難し、その修正を要求すべきでしたが、三島通庸が県会を開かせなかったのです。正造は切歯扼腕(せっしやくわん)するしかありません。

 県庁工事の着工は四月と決まり、それに先立って県庁建設予定地では地鎮祭が開かれました。地鎮祭が終わると、そのまま野外での大宴会となりました。県会議員も招待されていたので、少なからぬ県会議員が出席していました。正造は出席しませんでしたが、かといって無視もしませんでした。正造は県庁予定地を見下ろす丘の上に登り、冷や酒をあおってはスルメを(かじ)り、丘下の様子を睨みつけました。やがて酔いが回ると丘下めがけて罵声を投げつけました。

「馬鹿!」

 四十才を過ぎた大人のやることではありません。が、鬱憤がたまり過ぎていたのです。やがて丘下からも反撃の罵声が上がり、大人げない雑言合戦となりました。

 県令三島通庸は、県庁や郡庁の官衙整備のほか、塩原新道建設と陸羽街道改修を進めつつあります。ある日、県令三島から県会議員に参集の依頼状が届きました。不審を感じながら正造は出かけました。行ってみると県会議員による塩原新道区間の視察要請です。県官吏の態度は実に慇懃(いんぎん)です。

「昨今、山王峠より塩原間の新道工事中につき、なにとぞ御見聞ありて、三島が土木の御批評を願いたし」

 塩原新道は三島通庸にとって念願の道路です。三島は福島県令として会津三方道路を構想し、これを推進してきました。会津若松を中心に西の新潟、北の米沢、南の日光、という三方へ道路を延伸するのです。このうち南へ向かう道路は会津若松から県境の山王峠まで完成していましたが、栃木県側の道路が全く進捗していませんでした。これを座視できなかった三島は、栃木県令を兼任し、この栃木県側の道路を建設しようとしたのです。

 その塩原新道の工事現場を視察してくれという県庁側の依頼です。県会議員として拒む理由はありません。正造を含む県会常設委員の一行は塩原新道工事現場の視察旅行に出発しました。行程は宇都宮、塩原、山王峠、会津若松です。途中、塩原と山王峠の間には道路らしい道路がまだありません。一行は崖をよじ登りながら進みます。しかし、それ以外の区間では県官吏が議員一同をもてなすこと懇切丁寧にして、饗応豪華を極めました。

 二週間ほどで議員団は塩原まで戻りました。県官吏は温泉宿に議員を留めようとしましたが、正造のみはここで一行と別れ、一足早く宇都宮に戻りました。

「こそっぱい」

 至れり尽くせりの接待旅行がどうにも肌に合わなかったのです。宇都宮に帰った正造は、そこに驚くべき光景を見ました。すでに県庁庁舎は完成に近づいており、監獄、警察、師範学校等の予定地も収用され、更地になっています。

「謀られた!」

 正造は事実関係を確認するため栃木新聞社に向かいました。記事を読み、記者の話を聞きました。記事は県下の惨状を連日伝えており、主筆丸山名政は三島県令の暴戻を糺弾し続けています。記事によれば陸羽街道の改修工事や、各郡官衙の改修も大いに進んでいます。建設予定地の住民は家を逐われ、家財を奪われ、土工に狩り出されていました。巡査は人夫を斬り、人家は毀たれ、田畑は新道に埋もれ、桑畑は変じて泥田と化しています。栃木全県にわたって暴政の嵐が吹き荒れていたのです。

 その夜、正造は見晴らしのよい丘の上に立ちました。陸羽街道に沿って延々と篝火が焚かれています。まるで侵掠(しんりゃく)の景色でした。それでいて宇都宮の色街では管絃と嬌声が響いており、栃木県の官吏どもが饗宴に興じています。

「一身、国に殉ずるは之れ此の時」

 正造は覚悟を決めました。乙女村へ行こうと思いました。栃木新聞の伝えるところによれば、陸羽街道沿いの乙女村では全村民が村を棄てて難を避けているといいます。いわゆる乙女村事件です。

 栃木県は陸羽街道沿道の村々に寄付金、無償労役、土地献納を強制しました。乙女村も例外ではありません。抗う術のない村民は素直に従いました。ある日、ひとりの人夫が労役に遅参しました。たったそれだけのことです。ただそれだけのことに一巡査が激怒しました。思い上がった官吏ほど暴逆なものはありません。巡査は村の総代小川善平宅に乱入の上、善平を乱打し、捕縛しました。善平は平謝りに謝りましたが巡査は許しません。見るに見かねた村民一同が土下座して詫びを入れました。が、それでも許さない。そして、巡査は善平を警察署に引っ立てようとしました。その時、村民たちの怒りが爆発しました。村民は多人数で官吏どもを取り囲み、農器具を振り回して巡査を追い散らし、善平を救い出しました。助け出された小川善平は喜ぶよりも、むしろ後難を憂えました。ひどい反撃が待っているに違いないと考えたのです。

「わしは出頭する」

 善平は村役場へ出頭し、寛大なる処置を懇願しました。しかし、警察は善平を直ちに逮捕し、五十名を越える巡査をそろえて乙女村へ踏み込み、手当たり次第に村民を打擲し、七十三名の村民を逮捕しました。小川善平の家族は最も悲惨でした。出産直後の妻と病身の弟が苛酷な拷問を受けました。残った村民は、あまりの恐ろしさに震え上がり、村を捨てて逃げ散ってしまいました。

 正造が馬を駆って乙女村に到着したのは事件から数日後です。正造の馬ではありません。放れ駒を偶然に見つけたのです。放れ駒は世が乱れている証拠といってよいでしょう。乙女村に入った正造は住人を捜しましたが人気がなく、ただ牛、馬、鶏、犬、猫などがいるばかりです。やむなく思川を渡って網戸村に入りました。須田治右衛門宅を訪ねると家内はひどく荒らされ、見るも無残です。妻君に聞くと、数日前に数名の巡査が抜刀して踏み込んで来たという。乙女村の村民を捜索しに来たのです。捜索とはいえ、破壊行為と同じでした。

「強盗のような巡査です」

 須田の妻は訴えました。話を聞くうち、乙女村の青木新平という者が須田宅に密行してきました。正造は詳しく事件の模様を聞き出すことができました。正造は、その内容をいちいち記録しました。

 須田家を辞した正造は改修工事中の陸羽街道に出てみました。数多くの人夫たちが使役されています。馬に跨り堂々胸を張って騎行する正造を見て、労役に狩り出されている人足らは頭を下げました。みな近村の住人なのでしょう。正造のことを土木官吏と勘違いしている様子です。

(都合がいい)

 正造は悠然と馬を進め、ひとりの人足頭らしき男に話しかけてみました。

「この辺りの道路は約束期限までに完成するか」

 人足頭は平身低頭しながら答えます。

「恐れ入りますが、とてもできません。数日前、巡査がひどい乱暴をして、村人が逃げ散ってしまいました。人足の頭数が不足しています。よほど遅れると思います」

「うむ」

 この人足頭は近村の庄屋か総代であるに違いありません。内心、気の毒には思いましたが態度には現さず、正造は馬に鞭を当てました。馬首を間々田宿に向けました。巡査を見つけたので、そちらに向かって馬を歩ませました。巡査は正造に敬礼してきました。やはり土木官吏に見えるようです。もっとも正造は県会議員ですから官吏に遠慮する必要はありません。

「乙女村の顛末を知っているか」

「はっ」

 巡査はキビキビした言葉遣いで詳細に説明してくれましたが、途中から語調が変わりました。

「だいたい有富がやり過ぎました」

 小川善平を強引に捕縛した巡査は有冨という名のようです。

「ご苦労」

 正造は言い捨てて古河に向かいました。古河から舟運を使って東京へ上ります。収集した証拠を持って政府要人を訪ね、栃木県民の窮状を訴えるつもりです。三島通庸に鉄槌を加えるためには政府要人を動かすしかありません。

 この時代、しかるべき人物の紹介状さえあれば政府要人にでも比較的容易に会うことができました。江戸の遺風です。正造は旧知の改進党員角田真平に紹介状を書いてもらい、内務大輔土方久元に会いました。内務大輔とは今で言えば内務次官であり、三島通庸の上司です。正造は熱弁を揮って惨状を訴えましたが、相手の反応は鈍いものでした。土方は土佐藩出身の志士あがりです。薩摩閥に対して遠慮があるのかも知れません。次いで正造は、演説上手として名高い民権政治家島田三郎の同伴を得て、内務大臣山県有朋に面会しました。やはり反応は芳しくありません。山県は長州藩出身であり、薩閥に遠慮があったのでしょう。あるいは潔癖症の山県は、正造の汚らしい風体に拒絶反応を起こしたのかもしれません。

「しょうがあんめえ」

 正造は万策尽きました。これといった妙手もないまま数週間が過ぎるうち、思いがけない吉報が届きました。栃木臨時県会が九月に開かれるというのです。正造は欣喜雀躍しました。県会という公の場で三島通庸の非を鳴らすことが出来るのです。さっそく同志とともに三島通庸弾劾の決議文案を練りました。反三島の態度をとる県会議員、代言人、新聞記者らは連日集まって県会対策を策しました。

 県令三島通庸は県会を甘く見ていました。すでに栃木県庁庁舎は完成し、県庁官衙も整いつつあります。三島は、太政官政府顕官を招いて華々しい開庁式を挙行するつもりです。その際、県会議員がそろって出席を拒否したりすれば体裁が悪い。そこで形ばかりの県会を開き、議員らの機嫌をとり結び、開庁式に出席させようとしたのです。

 九月十日、真新しい県会議場には傍聴人が山のように集まり、息を呑んで待ちました。やがて開会が宣言され、県会議員が順次発言しました。誰の口からも三島の圧政に対する非難が噴出しました。

「際限なき寄付金と労役を課せらるる県民、何を以てか飢餓を免かるるを得ん」

「土木官吏のために殴打を受けて死に至りたる者幾人なりや」

「寄付金を拒んで警察に拘引されたる者何人なりや」

 発言する議員は声涙ともに下り、満場の聴衆は凝然として暗涙に(むせ)んでいます。正造も立って発言し、三島県令弾劾決議文案を読み上げ、その提案理由を囂々(ごうごう)と述べたてました。この間、三島通庸は官吏用の番外席に座り、黙然と目を閉じています。正造が弾劾決議文案を朗読し終わった時、一瞬、議場に静寂が訪れました。

「クー、スー」

 議場に響き渡ったのは、あろうことか三島の(いびき)です。二日酔いの様子でした。

(彼奴め)

 激怒した正造は「議長、議長」と連呼して発言許可を求めました。議員はみな激昂しています。議場全体が騒然となりましたが、三島はなお目を閉じています。思わぬ展開に議長はマゴマゴしています。正造は黙りました。満腔に空気を吸い込むと、全身の筋肉を動員して一気に噴出させました。

「ぎちょー!」

 正造は、議長ではなく三島に向けて咆吼(ほうこう)しました。正造の大声は有名です。どういうわけか正造は声量の抑制が不得手で、人からは「談話なのか喧嘩なのかわからぬ」と苦情を言われたりします。その馬鹿声が役に立ちました。三島はビクッと身体を震わせると目を覚まし、コソコソと退席していきました。あとは議員側の主導で議事が進みました。三島の提出した議案はすべて否決され、三島弾劾決議案が可決されました。これにより正副議長が上京委員に任命され、内閣法制局に出頭して三島通庸による専断と不当を訴え出ることに決したのです。

 これに対して三島は直ちに県会の閉会を宣言しましたが、予定されていた開庁式は中止となり、式典用に設営されていたアーケードなどの設備一式が無駄になりました。

 その夜、県会議員宿舎の河内屋は興奮に沸き返っていました。反三島の議員、住民、記者らが集まり三島弾劾決議の成立を祝います。正造も大いに溜飲を下げ、談話に花を咲かせていました。そこへ県令三島の使者が来ました。田中正造を宴席に誘ってきたのです。

「議場の戦争は相互の職権の争いなり。私交は別に温めざるべからず」

 正副議長もあわせて招待されており、土木課長が接待するといっています。明らかに三島の籠絡手段です。酒と女で黙らせようというのでしょう。正造は正副議長と相談の上、この誘いを断わりました。するとまた使者が来ました。気の毒なことに使者は四度まで往復しました。正造らは頑として誘いを断わります。すると、しばらくして屋外が騒がしくなりました。窓外を見ると、五十人ほどの人夫どもが四人の壮漢に率いられ、河内屋の玄関前にひしめいています。壮漢四人は正造ら三人の部屋に踏み込み、力ずくで三人を引きずり出そうとしました。この時に大声を発して一同を粛然たらしめたのは意外にも正造ではありません。副議長の小峯新太郎でした。

「騒ぐなかれ。我々は公務繁多なり。往きて喰らうの暇なし。御馳走あらば、持ち来たれ」

 宿舎内の県会議員が騒ぎを聞きつけて参集し、轟々たる悪罵を壮漢にぶつけました。このため、さすがの壮漢も人夫を引き連れて退散しました。翌朝、正造は正副議長より一足先に上京していました。内閣法制局への奉書上程の下準備のためです。途上、同志の人々と会合しながら旅し、牛込神楽坂の赤羽万次郎宅に落ち着いたのは九月十二日です。赤羽万次郎は新聞記者であり、信濃毎日新聞や北国新報で主筆を歴任したことで知られています。

 早々に上京したことは正造に幸いしました。というのも十一日、県令三島は田中正造捕縛の命令を栃木県下に発していたからです。県会議員の懐柔に失敗した三島は、ついに警察権を行使する強硬手段に出たのです。しかし、正造の行方は杳として知れませんでした。とはいえ、そんなことで諦める鬼県令ではありません。正造の知己同志らが捕縛拘引され、連日糾問される事態となりました。正造の身を案じた犬伏町の大野甲三はわざわざ上京して正造を捜し廻り、九月二十一日、ようやく探し当てて事の次第を正造に告げました。

「足下しばらく身を潜め、時機到来を待て」

 正造は大野の足労を謝し、自身の存念を述べます。

「これより下野に帰りて三島の罪跡を調査し、その証明書を集めて之を告発し、白昼彼を召捕らんのみ」

 大胆にも正造は危険な下野に潜入するというのです。大野は驚きましたが、正造の決意は堅く、揺るぎませんでした。藩閥の寵児と渡り合うには、客観的な証拠を集める以外に方法がありません。


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