立志
正造は下野に帰り、富蔵の元に身を寄せました。心身の消耗は容易に回復しませんでした。寝たり起きたりして日を過ごし、やがて農作業を手伝うようになりました。しかし、身体が思うように動きません。やむなく夏の繁忙期には人を雇いました。村人が驚いたことに、よりによって正造は穢多を雇いました。穢多は、いうまでもなく士農工商の下層に位置づけられていた最下層民です。正造は獄中で西洋思想に触れるうち、平等思想に出会い、これに深く共感していたのです。
(これは実に正しい)
そう思えば子供のような無邪気さで実行してしまうのが正造です。普通の人はそうではありません。本を読んで感心したくらいでは、社会の慣習を打ち破る動機にはなりません。人は慣習の奴隷なのです。ところが正造は、読みかじりの知識で永年の慣習に挑戦してしまいます。このあたりが正造の正造らしいところです。生まれながらの革新者かも知れません。「狂者は進取す」とは、このことを言うのでしょう。正造は穢多とともに働き、汗を流し、喉が渇けばひとつの茶碗で水を呑み交わしました。仕事が終われば穢多を風呂に入れ、座敷に上げ、ともに食事をとり、酒を酌み交わしました。こうした正造の行為は村人の嫌悪と非難を招いてしまいました。正造は村人に詰問される都度、むしろ胸を張って平等思想の何たるかを説きました。いくら説いても通じはしません。村人は江戸時代の感覚で生きているからです。平等思想など宇宙語のようなものであって、理解できるはずがありませんでした。そのうちに、ついには正造自身が穢多同様に扱われるようになってしまいました。父の富蔵は困り果てましたが、正造は平気です。そんな頃です。
「うちの番頭をやってみないか」
赤見村にある蛭子屋という造り酒屋から正造に誘いがきました。正造は引受け、赤見村に移りました。やってみると実に愉快です。やはり正造は働くことが好きなうえ、しかも商才があります。薪を割り、酒樽を運び、酒を商い、接客し、会計を閉める、それらの作業がどれも心地よいものでした。かつての元気を徐々に回復していきましたが、同時に悪い虫までがよみがえってきました。強情の虫です。蛭子屋に二年ほど勤めた頃、正造は造り酒屋の主人と衝突して馘になってしまいました。それでも退職金四十八円が支払われましたから、正造の仕事ぶりには申し分がなかったのでしょう。正造は夜学校を開いて子供達を教えることにしました。
明治十年、西南戦争が始まると政府は軍費調達のため紙幣を増刷しました。
「インフレイションが起こるぞ。通貨が膨張するのだ」
正造は世の先行きを予想し、人にも話しました。獄中で学んだ経済知識を披露したのですが、周囲の誰もが理解できません。
「土地を買え。儲かるぞ」
正造は人に勧めましたが、誰もが怪しんで信じません。それならばやってみせようと、正造は田中家に残る古道具や不要品を売り払って五百円の金をつくり、近傍の田畑を買えるだけ買いました。数ヶ月後、地価はグングン上昇しはじめ、ついには十倍を超えました。正造は土地の一部を売り、たちまち三千円を手に入れました。インフレーションの動向を上手くつかんだ正造は、一家の借金を全て返済し、父の富蔵には隠居料を渡し、田中家の家産を蓄えました。見事な商才と親孝行ぶりです。
父の富蔵からみると正造という惣領息子は頼もしくもあり、あぶなかしくもあり、世話が焼けるようでもあります。その正造から富蔵に封書が届きました。読んでみると正造の決意が述べられています。正造は政治を志すというのです。そして、覚悟を固めるために商売から足を洗うと書いてあります。
「今より自己営利的新事業のため精神を労せざる事」
そればかりか、これまでに蓄えた財産をことごとく政治に蕩尽させるとも書いています。
「一身一家の利益を擲ちて政治改良の事業に専らならん」
惜しい、と富蔵は思いました。正造は身を粉にして働くことを厭わないし、商才もあり、投機にさえ強い。商道を志せば財を為すに違いありません。ところが当の正造は政治をやるというのです。それも中途半端にではなく、専念したいという。ついては自己利益のための商売を放擲し、すでにある家産をも消尽させる覚悟です。正造らしい極端さです。政治と商売の両方をやればよさそうなものですが、正造の主義は一意専心であるようでした。幼い頃、正造は勉学が苦手でした。そのとき生じた劣等感は今なお正造の記憶に色濃く残っています。同時に、この劣等感を克服するための秘訣が正造の心中に生まれました。
(ひとつのことに専念すれば人並み以上の能力を発揮できる)
これが正造の自分自身に対する信仰です。数々の極端な言動は、ここから生まれているようでした。だから、政治を志すにあたっても商売を棄てて政治に専念するというのです。
「天は即ち我が屋根、地は即ち我が床なり」
たとえ粗衣粗食に甘んじてでも政治活動に専心する覚悟を正造は高らかに書き送りました。正造らしい果断です。富蔵は喜色を表わしてつぶやきました。
「よくぞ申した。お前らしい」
既に老境に達している富蔵は達観しています。批判がましいことは抜きにして、一首を書き送って正造の前途を祝しました。
死んでから仏になるは要らぬこと 生きているうち よき人となれ
田中正造の晩年における赤貧洗うが如き生活は、この時に確定したと言ってよいでしょう。既に西郷隆盛は世に亡く、武力内乱は止みました。政治の季節が来ています。民権論者は藩閥政治を批判し、議会開設の請願運動を全国各地で起こしつつあります。その風潮に正造のような気質の男が感応するのは自然の成行きでした。
この時代、新聞社が民権論者の牙城となっていました。「栃木にも新聞社を」という県内民権論者の希望に応えるかたちで斎藤清澄が首唱して新聞社設立が計画されました。正造もこの運動に参加し、明治十一年六月に栃木新聞社が発足しました。ところが嗤うべきことに、新聞経営の経験者がまったくいませんでした。そのためやむなく正造が編集長になり、周囲の経営責任者たちも肩書きだけの新聞人になりました。いい加減なホラ吹き仲間が勢いで新聞社を設立したようなものです。
それでもなんとか栃木新聞第一号の発行にこぎつけることができました。記念すべき第一号を祝して栃木新聞社は大々的な祝宴会を開催しました。経営陣の面々はみな鼻高々です。ですが、肝腎の販売部数は五十部ほどでしかありませんでした。販売体制は本社社屋での直売りのみであり、紙面には広告がまったくなく、配達員はひとりも居ませんでした。こんなことで経営が成り立つはずがありません。
「なぜ売れないのか」
この問題で経営会議が大紛糾しました。誰にも知恵がありません。やむなく正造は獄中で読みかじった経済学を披露しました。
「経済の原則に需要と供給がある。需要がないのに新聞を発行しても売れないのは当り前である。まず新聞の有益なことを人々に知らしめねばならない。世の動きを知るに役立ち、商品の宣伝に役立つことを周知する必要がある。ともかく商業広告を募集しなければ経営は成り立たない。読者の便宜のために配達販売の方法も設けねばならない。そうして需要を喚起してはじめて万人の読者を得られるのである」
この程度の発言が万雷の拍手を以て歓迎されました。結局、一番わかっていそうな正造に営業が一任されました。正造は自身の月給全額をはたいて自社新聞を大量購入し、それを人々に配っては購読を勧誘しました。幸いなことに役所関係に対する売り込みが好調です。新聞という新しいものに対する人々の関心は高く、正造の東奔西走の営業活動によって発行部数は徐々に増えていきました。
明治時代の前半、全国各地に数多くの新聞社が簇出しましたが、どこも設立当初は栃木新聞と似たり寄ったりの状況だったようです。新聞社は政府寄りの吏党系新聞と、反政府の民権系新聞とに分かれました。民権論に拠って立つ新聞社は果敢に政府批判、藩閥批判をくり返しましたが、藩閥政府は各種の条例によって言論を弾圧しました。民権新聞各社は、発行禁止や営業停止を覚悟の上で果敢に政府批判記事を掲載し、甘んじて処分を受けました。
「悪法を犯し、犯したことを認め、刑に服する。しかし、その刑に服する人の多さ、論理の異常さによって、人々はその法の悪法なることを知る」
創成期の新聞人の志は実に高々しく、勇猛でした。
政治家田中正造の出足は順調だったといってよいでしょう。栃木新聞社設立の翌月、正造は栃木県第四大区三小区の区会議員に選出されたのです。聞き慣れぬ選挙区ですが、これは大区小区制という地方行政区です。江戸時代的な庄屋名主制から郡区町村制への過渡期に八年間だけ施行された制度です。翌明治十二年四月、栃木県会が開設されることとなり、第一回県会議員選挙が行なわれました。正造は当選して県会議員となりました。
全国的に国会開設運動が盛り上がっていました。正造は栃木県内で大いに運動し、多数の署名を集めて国会開設を政府に請願しました。また、関東各地で演説会を開催し、著名な民権論者を弁士として招聘し、自らも演説しました。
一方、栃木県会においては経費節減と地方税の軽減を主張しました。栃木県令藤川為親は当初こそ難色を示しましたが、県会議員の多数が減税に賛成であると知り、態度を変えました。これにより栃木県の地方税支出額は、明治十四年度の五十四万円から翌十五年度には三十一万円にまで減じました。県会は十分に強かったと言えるでしょう。
そんな栃木県会の前に立ち塞がったのは、三島通庸という典型的な藩閥官僚です。薩摩藩士として生まれた三島通庸は、西郷隆盛に仕えました。戊辰戦争に参戦した後に内務官僚となり、大久保利通に重用されました。次いで酒田県令、山形県令、福島県令を歴任し、行政官としての実績を積み重ねてきています。しかし、その実績とは、自由民権運動に対する容赦ない弾圧と大規模土木事業でした。
三島通庸は歌道に明るい教養人ではありましたが、他面、強烈な郷党意識の持ち主でもありました。そのため藩閥政治を糾弾する自由民権運動家に対しては常に厳しい態度で臨みました。「鬼県令」と呼ばれるほどでした。「土木県令」の異名もあります。明治日本にとって社会資本整備は焦眉の急でありましたから、三島は赴任地において道路、橋梁、隧道などの整備を大胆に進めました。当時、道路交通機関といっても人力車や馬車しかなかった東北地方に、列国にも匹敵する高規格な道路を整備したのです。
三島通庸は確かに文明の推進者でした。しかしながら問題は、三島通庸の行政手続きがおよそ反文明的だったことです。江戸時代の悪代官よりもなお加虐的でした。道路整備で最も厄介な土地収用も三島方式なら迅速です。収用前に収用予定の田畑を土砂で埋めてしまい、その後に安値で収用したのです。領民には租税に加えて寄付金を課し、さらに無償の労役を強いました。沿道の領民はたまったものではありません。すでに租税を支払っているうえに土地を取り上げられ、寄付金を課され、使役されるのです。しかも一連の作業過程には必ず強権と暴力が介在し、反抗的な領民は容赦なく打擲され、逮捕されました。
悪い噂も流れていました。領民から絞り上げた金で三島通庸は私腹を肥やしているというのです。領民たちが抗議運動に起ち上がるのは当然でした。これを三島は容赦なく弾圧しました。そこに自由民権運動家が関わっていれば、三島の弾圧は苛烈さを加えました。明治十五年の福島事件では二千人もの逮捕者が出ています。西洋文明にかぶれた三島の目には、同朋たる日本人が無知蒙昧な未開人に見えていたのかも知れません。
「三島通庸が栃木県令を兼任するらしい」
この噂に栃木県民は戦慄しました。栃木県官吏の一部は、三島に仕えることを潔しとせず、辞表を提出したほどです。しかし、他の一部は東京の三島邸を訪ねてご機嫌を伺いました。栃木県下の民権論者は三島を恐れて早々に四散しました。資産家の一部は東京に転居して資産の保全を図りました。逃げられる者はよいのですが、大多数の県民は為す術もなく、「鬼県令」の到来をただ天災のように怖れるしかありませんでした。
正造は仲間の県会議員とともに三島の県令就任に反対し、藤川県令の留任を求めて運動しました。しかし、県令は官選です。内務省の人事を動かすことはできません。やむなく正造は覚悟を固め、同志に秘かに決意を示しました。
「予は之より三島の狼心に抵抗し、三島をして寸時も本県に止まる能わざらしむるを任とせんのみ」
すでに正造は不惑の年令を越えていましたが、若造のように目を輝かせます。天は正造に配するに鬼県令を以ってしたのです。正造にとっては苛烈な運命でしたが、同時に生き甲斐でもあります。命を燃やす対象を与えられたのです。生甲斐は死甲斐です。正造は、暴政の親玉に対する闘志を燃えあがらせました。
県令三島通庸の側から見れば、県会議員田中正造など虫けら同然であり、眼中にさえありません。なにしろ三島は今をときめく藩閥官僚です。やろうと思えば何でもできました。日本にはまだ憲法もなければ帝国議会もないのです。文字どおりの藩閥専政時代であり、藩閥には万能のフリーハンドが与えられていました。藩閥官僚は、そのフリーハンドを用いて善も悪も為し得ます。
三島通庸が栃木県令に任命されたのは明治十六年十月である。赴任に先立って三島は県庁官吏の大幅な人事刷新を行ないました。息のかかった官僚を各郡の郡長や土木課長に送り込み、それらに警察署長を兼務させました。これが三島人事の特徴です。土木工事に対する反対運動に出遭った場合、迅速に警察権を発動できます。三島は施政の方針を次のように訓示しました。
「予の施政方針は土木の振興にあり。之を決行するに、宜しく江河の決するが如く、泰山の崩るるが如く、電光一閃、民をして迅雷耳を掩うに遑あらざらしむべし。汝等能く之の方針を守って人夫を募集し、寄付金を徴発し、工を督し、民を役し、日夜を分かたず、息をもつがせず、拮居黽勉汲々、以てその速成を期せよ」
拮居黽勉汲々とはすさまじい。要するに官吏は休むな、民を休ませるなということでした。その三島がいよいよ栃木県に赴任したのは明治十六年十二月です。結果的に、三島の栃木県令在任期間はわずか一年二ヶ月ほどでしかありませんでした。しかし、この短期間に三島は県庁移転、塩原新道の開削、陸羽街道の大改修などの大規模事業を断行しました。施政方針どおりの強権発動でした。