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第42話:極東の黒い雫と、時間をかける知恵


 夕闇が迫る頃、村の広場にはいくつもの焚き火が焚かれ、パチパチと薪の爆ぜる心地よい音が響いていた。

 背景には、私たちが抉じ開けた水脈から、豊かで清らかな水が轟々と流れ下る音が聞こえる。灰にまみれていた村は、たった半日で確かな『生気』を取り戻していた。

「……すげえな、職人ってのは」

 私は丸太の椅子に腰掛け、焚き火の向こうで冷や酒を酌み交わしながらガハハと笑い合っている二人の老人――石工のタツ爺さんと、刀鍛冶の爺さん――を見つめながら、ぽつりとこぼした。

「どうかしたか、ルミナ」

「いや。私はアルトから、魔法に頼らない『物理』の強さを教わってきたつもりだった。だが、力任せに圧力をかけるだけじゃ、あの岩は割れなかった。石のことわりを読み解く目と、岩すら切り裂く極限の鋼……。その土地で何十年も泥をすすってきた人間の『知恵』には、到底敵わないと思い知らされたよ」

 私が素直に感服の息を吐くと、隣で野営用のまな板に根菜を並べていたゲンが、嬉しそうに目を細めた。

「あの爺さんたちは、俺たち極東の誇りだからな。……だが、知恵ってことなら、極東の凄さは石や鉄だけじゃねえぞ」

 ゲンはそう言うと、背負い袋から大切そうに二つの小さな壺を取り出した。

 一つには漆黒の液体が、もう一つには褐色のペースト状のものが詰まっている。

「あんたが村の水を護ってくれた礼だ。今日は、極東の『本当の味』を教えてやる。……こっちの黒い液体が『醤油しょうゆ』、褐色のやつが『味噌みそ』だ」

「ショウユに、ミソ……?」

「ああ。どっちも、大豆と塩、それに特別な菌を混ぜて作るんだ」

 私は壺に鼻を近づけ、思わず「おっ」と声を漏らした。

 宿場町の飯屋で嗅いだ、あの複雑で暴力的な食欲をそそる匂いの正体はこれだったのか。ツンとするような塩気の中に、えも言われぬ深い甘みと旨味の香りが隠れている。

「早速作ろうぜ。ルミナ、あんたのその最高の鍋を貸してくれ」

 ゲンは私の『新生・黒片手鍋』を火にかけ、獣の脂を引くと、豚肉と細かく刻んだ根菜を豪快に炒め始めた。

 鍋の圧倒的な蓄熱性が具材の旨味を瞬時に閉じ込める。そこに、取り戻したばかりの清らかな川の水をたっぷりと注ぎ込んだ。

「ここからが魔法だ」

 具材が煮え立ち、豚肉と野菜の出汁が出たところで、ゲンは火を弱め、あの褐色のペースト『味噌』を鍋のスープに溶かし入れた。

 ――フワァァァッ。

 途端に、焚き火の周囲にいた村人たちが一斉に腹を鳴らすほど、強烈で芳醇な香りが広場を包み込んだ。

「完成だ。極東のソウルフード、『豚汁とんじる』だ。……それから、こっちもな」

 ゲンは、昼間に村の女衆が握ってくれた白飯の『おにぎり』を焚き火の網の上に乗せ、そこにハケで黒い液体『醤油』をたっぷりと塗った。

 ジュゥゥゥゥッ!!

 醤油が火に炙られ、焦げる音。それはもう、暴力以外の何物でもなかった。香ばしい焦がし醤油の匂いが脳髄を直接揺さぶり、私の口の中は一瞬で唾液の洪水になった。

「食ってみな。焼きおにぎりと、豚汁だ」

 私は熱々の焼きおにぎりを両手で持ち、大きくかぶりついた。

 カリッとした表面の食感。焦げた醤油の香ばしさと強烈な塩気が、噛むほどに溢れ出す米の甘みと完璧に融合する。

 そして、すかさず熱い豚汁を喉に流し込む。

 豚の脂、根菜の甘み、それを全て包み込んでまとめ上げる『味噌』の圧倒的な旨味の底力。

「…………っ!! なんだこれ、美味すぎる!」

 私は目を見開き、一心不乱におにぎりと豚汁を胃袋に流し込んだ。

 パンと干し肉の文化圏では絶対に味わえない、複雑怪奇にして完成された味覚の暴力。

「美味いだろ? だがなルミナ、この醤油や味噌は、炎の魔法みたいに一瞬じゃ作れねえんだ」

 ゲンは自分の豚汁をすすりながら、焚き火の炎を見つめて言った。

「大豆を仕込み、蔵の中で暑い夏と寒い冬を越えさせる。職人が毎日毎日かき混ぜて、一年以上の『膨大な時間』をかけて、ようやくこの旨味が生まれる。石工の技術も、刀鍛冶の鋼も、そしてこの調味料も……俺たち極東の強さは、一瞬の力じゃない。長い時間をかけて自然と向き合い、積み重ねてきた『知恵』なんだ」

「……時間を、かける」

 私は空になったお椀を見つめながら、その言葉をゆっくりと反芻した。

 思い返せば、私自身の旅もそうだった。十六歳で村を出て聖剣を握った時、私はただ「早く魔王を倒さなければ」と焦り、力任せに前へ進むことしか考えていなかった。

 だが、あの無精髭の師匠に無理やり立ち止まらされ、火を起こし、『飯を炊く時間』を教わった。

 そうやって泥をすすり、多くの人と関わり、時間をかけて歩いてきたからこそ、三年前に魔王を倒せたし、今日のあの巨大な岩盤だって抉じ開けることができたのだ。

 結果だけを焦り、一瞬で山を吹き飛ばして生態系を焼き尽くす『東の勇者』のやり方。

 それとは対極にある、時間をかけて石の目を読み、鋼を鍛え、大豆を発酵させる極東の人々の営み。

「……結果だけを求めて過程を焼き払えば、後には灰しか残らない、か」

 私は食後の熱いお茶をすすりながら、小さく息を吐いた。

「なあ、ゲン。その性急な『東の勇者』だが……一体どんな奴なんだ?」

 私が焚き火越しに尋ねると、ゲンは忌々しそうに眉をひそめ、懐から煙管きせるを取り出して火をつけた。

「名前はゲイルって言ったか。二十歳そこそこの若い男でな、泥ひとつ跳ねてないピカピカの白銀の鎧を着込んで、身の丈ほどの巨大な剣を背負ってる。……まるで、絵本から飛び出してきたような『いかにも』な勇者様だよ」

「なるほど。で、その絵本の勇者様は、これまでどんな『正義』を性急に執行してきたんだ?」

「ここに来る前は、南の港町で海竜シーサーペントを討伐したらしい。だが、トドメに雷と炎の複合魔法を海にぶち込んで、湾内の水を丸ごと煮え立たせやがった。海竜は死んだが、湾内の魚も全滅だ。今頃、南の漁師たちは干上がってるだろうよ。その前は、山賊の砦を山ごと吹き飛ばして、街道を土砂崩れで塞ぎやがった」

「……ろくでもないな。完全に歩く災害じゃないか」

 私は呆れて天を仰いだ。

 悪を倒すという大義名分のもと、人々の生活基盤を躊躇なく破壊していく独善。

「その歩く災害は、今どこに向かっている?」

「極東の中心、『帝都』だ。なんでも、帝都の近くの霊山に、魔王の残党である古の妖狐が目覚めたとかで、それを討伐しに行くらしい。……都の連中は、被害の実態を知らねえからな。強大な勇者が助けに来てくれるって、手放しで歓迎してやがる」

「……帝都の霊山で、山ごと吹き飛ばす爆裂魔法を使われたらどうなる?」

 私の問いに、ゲンは煙を細く吐き出し、首を振った。

「火砕流と土石流で、帝都の半分は飲み込まれるだろうな」

「……負けるわけにはいかないな」

 私は顔を上げ、焚き火を囲んで笑い合う村人たちを見た。

 彼らの泥臭い笑顔と、この途方もない時間をかけて作られた飯の美味さが、護るべきものが何なのかを証明している。

「ゲン。ごちそうさま。最高に美味かった」

「おう。お粗末さまだ」

 私は立ち上がり、新しく生まれ変わった相棒――黒片手鍋――の縁を優しく撫でた。

 この極東の地に息づく、深く温かい知恵。それを自分の血肉にできたことが、何よりも嬉しかった。

 明日を護るための力は、破壊の中にはない。

 私は確かな矜持を胸に、「東の勇者」が向かったという帝都の方角へ、鋭い視線を向けた。

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