三河足利
大きな湖を見ながら歩く。
「遠淡江じゃ」
美しい湖が見える。天気がよいので、振り返れば、小さく富士が見えることもある。
歩きながら長生が言う。紫苑にも聞こえるようにだった。
「ヒナギク君、三河、さらに尾張に入ります。いかに?」
言葉遣いが変わったことに紫苑も気づく。
「どちらも足利領じゃ。三河では吉良に行かねばカッコつかん。尾張も素通りはできない」
ヒナギクの答えに、長生は方針を理解する。ただし、紫苑はわからない。長生が何か言おうとすると、ヒナギクがさえぎる。
「紫苑姉、ここからは死地かもしれん。姉様の生き方を変えてしまう気がする。帰るべきだと思うよ」
まっすぐに、大切な人に言う。ヒナギクの優れたところだった。
「帰らない、と答える予定だけど」
紫苑の言葉に、ヒナギクは小さく笑う。
「いいの?」
紫苑はうなずく。ヒナギクはホッとした顔になる。
そこから、長生とヒナギクは、現在の鎌倉幕府の情勢を語る。ヒナがあちこちの武家や寺社をたらいまわしにされて生きてきたこと、長生はその護衛であることを伝える。
紫苑は驚いた。そして、妹だと思っていた娘の、儚き人生を知る。兄だと思った人の、殺伐とした荒野を理解する。
「こんなにひどい運命です。兄様だけが、一緒に行くと言ってくれました。姉様はね、そうしなくていい。里のみんなに……」
言いかけたとき、紫苑が叫んだ。
「ヒナ! そんなときこそ、いてあげるのが姉でしょ? 見くびらないでよ! あなたは私のたったひとりの妹よ。一緒にいます」
ヒナギクはうれしかった。
「ごめん、姉様。私、姉様に甘えるね。ひとりじゃ、もう、生きていけない。この3人でツキと一緒に、どんなときも一緒にいたい」
紫苑は笑うことにした。自分の何もかもを変えてくれた、この一行の宿命を知った。自分ができることは、みんなの不安を少しだけ減らすくらいだろう。それが、私の役割なのだ。
「ヒナ、大丈夫。私はあなたの姉よ。そして、兄者。私を教育してくれ。ふたりの役に立つ人間に」
長生がまっすぐ見てくれた。そして、悲しい顔になる。
「ごめん、紫苑。お前を巻き込む。でも、ワシとヒナには、お前が必要なんじゃ」
驚く。自分は確かに巻き込まれるのだろう。でも、このやさしき姫と戦士にそうされるのだ。何の後悔があるだろう? 大好きなふたりなのだ。
「ふたりとも、気にしないで。私にも、あなたたちが必要なの」
そう答えた。そう言えた自分も好きだった。私に必要なのは、このやさしい兄と妹なのだ。
三河は足利氏が代々守護を任されてきた地だった。このため、足利の分家があちこちに居館を構え、本貫の下野以上にその拠点となっていた。一色、今川、細川、仁木という足利一門が栄える中、吉良家はその一番手ともされる。
川を眺めるように歩き、その居館にヒナギクは向かう。長生は門前で声をかける。
「ヒナギク君をお連れしたと、お伝え願えれば。ここに鎌倉のお屋敷からの書状も携えております」
ここへの書状は、高師直名義でなく、足利高氏のそれであった。滞ることなく、一行は中に導かれる。離れの間を用意され、ヒナギクには一室が与えられる。
紫苑は驚き、猛烈な緊張をした。すると、ヒナが近くに来て言う。
「姉様、怖がらなくていい。豪勇の兄様がいるよ」
その言葉に、紫苑は長生を見る。やさしく、目を合わせてくれる兄。
「私はずっと怖かった。でも、兄様ができてから、何も怖くない。長生兄は、必死に守ってくれる。それで及ばんのなら、死んでもいいと思うことにした。気楽になった」
ヒナギクは自身の経験を素直に言う。聞いて、紫苑も落ち着いてくる。そうだった。長生と一緒に死ねるなら、何も怖くない。それは、いい人生とさえ思える。
「わかった。私はヒナにお仕えの女じゃ。女向きのことは、なんでも世話する役」
ヒナは笑う。
「ありがとう。それで通して。余計な話は、私がやっつける!」
ヒナを中心に、自分たちは運命共同体なのだ。やってやろう、と思う。
廊下にドタドタと足音がする。初老の男が駆け込んできた。
「ひ、ヒナギク君! お久しぶりでございまする」
その顔を見て、ヒナギクは笑う。
「貞義のオッサン、いや、もうじい様かの? 久しぶりですまん。急じゃが、一晩、世話になりたい」
男は頭を床にすりつける。
「大きう、本当に大きうなられた。もう、貞義とは遊んでもらえんほどに、お美しい姫になられて……」
ヒナギクはブスっとする。
「貞義、私は同年の娘よりはるかに小さい。嫌味を言うたか?」
言われた貞義が低頭する。
「そ、そんな! ヒナ様は大きう見えまする。老いた私の目が悪いのです。もう、齢ですから、御成敗いただければ」
笑う貞義。ヒナも笑う。
「あいかわらず、貞義のオッサンはおもろいの。楽しかったのはおぼえておるよ。ありがとう。今日も甘えるね」
貞義は頭を下げる。でも、帰らない。ズリズリとヒナギクに近寄る。
「ホンマにかわいらしい姫になって……」
ヒナギクもうれしくなって貞義に近づく。あたたかく抱かれる。
「オッサン、後でメシでも食って、思い出話でもしよう。そのとき、そこにいる関長生と関紫苑が同席する。あ、そこの犬もじゃ。私の家臣じゃからな、許せよ」
貞義はうんうんとうなずく。
「もちろん、もちろん。ヒナ様と過ごした時間は、私の豊かな思い出ですから!」
そう言って、うれしそうに去っていく。




