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accelerando  作者: 奏多悠香


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31 真夏の雪解け

 間もなく始まったお盆休み、わたしは家でごろんごろんしながら自堕落な毎日を過ごしていた。

 出掛ける予定があるでもなく、行きたい場所があるわけでもない。観たい映画は山ほどあったはずなのに、真吾の家のホームシアターに慣れてしまうと自分の部屋の小さなテレビで見るのがなんだか味気なくて退屈だった。

 慣れっていうのはこわいものだ。狭い部屋にいると何となく落ち着かない。いつの間にか、真吾のあの広い部屋に馴染んでしまったらしい。


「あーお腹空いた」


 寂しいのでつい独り言が出た。

 外に食べ物を調達しに行くのも面倒なので冷凍庫を開けると、課長が来てくれた時の脳みそうどんがまだそのまま残っていた。

 おぞましい形のそれをつまみあげ、レンジに入れてチン。レンジの中でクルクルと回りながら、うどんはうどんへと戻ってゆく。

 それを取り出して冷水でしめ、しょうゆを垂らしてずるずるとすすると、脳みそうどんはあっけなく胃の中に吸い込まれていった。

 あれから真吾とは会っていない。でも美咲を介して互いの近況は知っているし、それほど離れてしまった感じはなかった。

 美咲は「まったく、やりづらいったらありゃしない」と珍しくご立腹で、「いつになったら仲直りするの?」と尋ねられた。


「別に喧嘩したわけじゃない」


 と返すと、


「喧嘩したわけでもないのに連絡を取らないってどういうことなのよ」


 と困り顔。


「うーん、意地?」


 そう言うと、美咲は呆れたように笑った。


「真吾さんと同じこと言ってる」


 私もそれを聞いて笑ってしまった。

 一人になってあの対決の日を思い返してみると、真吾は一貫して私を好きだと言ってくれていた。そして彼もまた、私が彼のことを好きなのはわかっているはずだ。

 私自身の問題なのだ。

 伊織さんにこだわっているのは、真吾ではなく私。

 倉持家にこだわっていたのも、私。

 気にしていないふりをしながら、昔の彼女がどんな人だったのかを気にしていたのも私。

 だから、パーティーでのあの会話を誤解した。

 そう言われても仕方ないと心のどこかで思っていたから、私の耳にはそう聞こえたのだ。「倉持家の真吾」に私はふさわしくない、と。

 だけど、ただの真吾だったらどうだろう。

 映画好きで、コーヒー好き。ここの好みはばっちり合う。

 それに、キレイ好き。ここは真逆だけど、すごく助かる。散らかし魔なところまで同じだったら家が大変なことになるし、キレイ好きが二人いると二人がそれぞれに片づけたがるので何をどこにしまったかわからず面倒なのだ、と真吾が言っていた。

 家でぐうたら過ごすのも好きだけど、一度外に出るとアクティブに動き回るところも同じ。

 私も真吾も体を動かすのが好きで、一緒に走りに行くこともあった。

 それに、喧嘩にもならない。たぶん真吾が大抵のことを笑顔で流してくれるので、私が天邪鬼でも何とかなるのだ。そして真吾は、私のように言いたいことを割とはっきりと言う相手の方が疲れないのだと言っていた。


 ――ほら、ぴったりじゃん。


 ごろりとベッドに寝そべって天井を見上げながら思う。

 「ただの真吾」と私の相性はぴったり。それなら、何の問題もないのだ。

 伊織さんに敵わないのは相変わらずだけど、伊織さんに対する真吾の気持ちが叶わないのも相変わらず。だったら、気に留める必要すらないのだ。ホテルのバーに迎えに行った日のように、真吾が小さな少年になってしまったときには私が黙って抱きしめてあげればいい。

 それができるのは、真吾の気持ちを知っている私だけ。

 そしてその意味では、私は彼にとっての特別なのだろう。

 バカだなぁ、私。

 簡単なことだった。

 ごろごろと転がりながら一人で笑った。

 美咲の結婚式で会ったら、一番に謝ろう。

 真吾はきっと笑って許してくれる、そう確信しながらごろんと体を横に向けたところで、お腹がぐぎゅぎゅと音を立てた。

 む。不穏な音だ。


「うっ」


 ぐぎゅぎゅぎゅぎゅ。

 その音は、明らかに腹の異常を伝えていた。

 平和なごろ寝は突如としてうめき声を上げながらのた打ち回る様へと変貌を遂げ、しばらくベッドの上で苦しんだ。


「いたたたたた……」


 うどんか、脳みそうどんが原因か。

 いや、それとも朝食べた昨日のツナパンか。

 昨日の食べかけを意地汚く食べたりするからこんなことになったのだろうか。


「うっぷ」


 あわててトイレに駆け込んだ。

 それからしばらくトイレで過ごしたあと、悟った。

 これは、ただごとではない。

 冷や汗が大量に出て来るし、物が二重に見えるし、お腹が軽く痙攣している。何より、痛い。とにかく痛い。

 朦朧としたまま、なんとか携帯を手に取ってSOSを送った。

 かすんだ意識の中で一番最初に浮かんだのは、やっぱり彼の顔だった。



***************



「おい! ハルカ! 入るぞ!」


 ドアの外から声が聞こえ、鍵ががちゃりと回る。

 真吾の部屋の合鍵をもらったときに私の部屋の鍵も渡してはいたものの、部屋を見られたくないため「許可なく入室するべからず」と言ってあったので、付き合い始めてから結局真吾は一度も私の部屋に足を踏み入れたことはなかった。


 ――あー、相変わらずの汚部屋、ついに見られるんだなぁ。


 痛みで白目になりながらもそんなことを気にするあたり、私にも乙女心というものがかすかに残っているらしい。


「大丈夫か!」


 部屋に飛び込んできた男は、その長い足で障害物――またの名を、積み上げた洗濯物の山――を乗り越え、ベッドの脇に転がっていた私を抱え上げた。ちょっとベッドの枠に収まっていられないくらい痛かったものでね。


「どうした」

「……おなかが……いたい……」


 彫刻が二体見える。分身の術か。どっちが本物だ。


「病院行くか」

「でも、車の中ではくかも……」

「そんなの別にいいよ。『倉持』の財力なめんなよ。車の中丸ごとクリーニングするくらい、屁でもない」

「それならよかった……」


 わたしはぐったりとその腕に体重を預けた。

 大きいなぁ、この人。

 そう軽くもない私をやすやすと横抱きにしちゃって。

 あー、王子様みたい。

 かすんでいる意識のまま車に運ばれ、「原因はわかるか」と問われた。


「脳みそうどんか……食べかけのツナパンか……」

「食中毒か」

「たぶん……う……」


 おへぇ。


「もうちょいで着くから頑張れ」


 真吾が励ましてくれるハスキーな声が頭上から響いて来て、それだけで安心してしまう。


「ごめ……ごめん……」

「いいよ。別に。車出すくらいお安い御用だ」

「ちが……こないだの……わかってたんだよ。ちゃんと、わかってるから……ごめんね……ごめん……」


 痛みのせいで自分が何を言っているかよくわからなかった。

 だけどどうしても、伝えておきたいことがあった。


「しんごさんは……みりょくてきだよ。『倉持』じゃなくても……これまでのひとたちだってきっと……」


 『倉持』じゃなければ見向きもされないなんて、そんなはずはないのに。

 モテる要素をたくさん備えてしまったが故に、相手がそのうちのどの要素に惹かれて寄ってきたのか、わからなくなってしまうのかもしれない。

 人がそれ目当てで寄ってくるほどのお金も無く、美貌もなく、胸もなく、特別なものを持たない私は、なぜこの人が私なんかを好きになったのかと不安だった。だけどきっとそれは、お金目当てでも外見目当てでも胸目当てでもないことの何よりの証明で、むしろ安心すべき材料だったのかもしれない。


「しんごさんがもてるのは、しんごさんだからだよ」


 真吾は黙っていた。スイッチを入れたスピーカーからは、あの音楽。星のきらめきがお腹の痛みをしばし忘れさせてくれる。

 痛みのせいなのかなんなのか、涙が目尻から一粒こぼれて流れた。


「まぁ、食中毒ですね。1日〜2日で出きってしまえば止まりますよ。ただ、脱水症状がひどいので点滴打ちましょう」


 お医者さんの見立てによれば、食べてからの時間や症状から考えて、原因はツナパンだろうとのことだった。脳みそうどんではなかったらしい。でも、半年も前から冷凍庫に入っていてしかも一度解けた冷凍うどんを食べるのは危険すぎるので二度としないようにと念を押された。冷凍しとけば平気ってものでもないようだ。

 点滴を打っている間、真吾はそばに座って笑っていた。


「なんで笑ってんの」

「いや? 再会がとても感動的なシーンだったんで嬉しくてね」

「何それ」

「部屋に上げてくれなかった理由を噛みしめてるとこ。部屋に入った瞬間、ハルカがどこにいるかわかんなかった」


 そう言って、こぼれる笑みを誤魔化すように下唇を噛み、片側の口角を上げる。


「汚くて悪かったね」


 目を細めて睨んでやる。


「いや。別にそうは言ってないけど」

「同じことでしょ」

「まぁね」


 そう言ってからもう一度笑って、大きな手がなだめるように私の額を撫でた。


「俺さ、本当にハルカ好きだよ」

「変な奴だから?」


 ツナパン食べて食中毒なんて。

 かっこ悪すぎて。

 そりゃあ物珍しさもあるだろうて。


「いや、違う。楽しいんだ。まじで。ハルカと一緒にいるといっつも笑ってる」


 笑わせているというよりも嗤われている気がするが。

 それでも、泣かれるよりはましか。


「ハルカの物の見方が好きなんだよ。異常に前向きで。あと単純なとこもな」


 褒められてるのか、けなされてるのか。


「だって、もう出会って結構経つぞ。俺たちが出会ったの、去年の3月だ。もう1年半も前。物珍しさはそんなに続かないよ」

「そっか」


 ――1カ月。

 そっか。

 あの芸能人が言ってた壁なんて、とっくに乗り越えた後だったんだね。


「伊織にちゃんと言ったよ」


 ぼそりと真吾がつぶやく。

 別のことを考えていた私は、急に意識を引き戻されて真吾の目を見た。そこには穏やかな光が映り込んでいた。


「物心ついたときから好きだったって。過去形だけどな」

「そっか。……何だって?」

「俺のことは弟としてしか見たことなかったし、これからも見れないって。結婚してようがしてまいが、関係ないって」

「そっか。よく頑張ったね」


 点滴の針が刺さった腕をそっと持ち上げて、真吾少年の頭をぽんぽんと軽くなでる。


「うん。口に出して初めて、ふって飛んでいくのがわかった。ハルカが言うとおり、伝えなかったせいでずっと亡霊みたいになって漂ってたんだ。やっと成仏した」

「よかったね」

「おう。だから、抱きしめてよ」


 急に偉そうに言った真吾の言葉に、私は思いっきり笑ってしまう。

 おへぇ。

 また嘔吐感に襲われたけど、真吾がベッド脇のバケツを抱えてくれた。

 あぁあ、感動的な再会のシーンが、あんまりだ。

 点滴が終わると、心配だとか体力が落ちてるからとか看病がしやすいとかあの汚い部屋では絶対にまた体を壊すとか色んな理由をつけられて、半ば強引に真吾のマンションに連れて行かれた。

 でも、きっとこれでいいのだ。

 私は渋々って顔をして真吾について行くけど、真吾はそれが私の望みだってちゃんとわかっている。

 それから私が回復して体力が戻った五日後、私たちは初めて契りを交わした。

 真吾はとても嬉しそうだったし、私も幸せな気持ちになった。

 恐怖とか痛みとかそんなものはほとんど感じなくて、包み込まれるような感覚にただただ身を任せた。

 そして私は、あのタンスの一番下の段に自分の下着をぎっちり詰め込んでおく。ありったけの怨念を込めて。

 もし誰かがこのタンスを開けたら、あまりの貧乳っぷりに驚いて逃げ出すに違いないのだ。




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