30 対決
「やっと捕まえた」
大きな手に、腕を掴まれた。
なんだか懐かしくて笑えた。
去年の秋、私は今と同じようにこの人から逃げ惑っていた。
違うのは、大っ嫌いだったはずのこの人を、うっかり好きになってしまったこと。
「あの、ここはちょっと。場所を変えて……」
「逃げるだろ」
「逃げないから」
そう言って真吾の後ろに視線を投げた。よくぞまぁそんなにあからさまによく覗けるもんだ、と思うほどたくさんの顔がフロアの入り口に並んでいる。
真吾は振り返ってそれに気づいたらしく、ふうと息を吐いた。
「オーケー。場所を替えよう。うちでいい?」
「うん」
ちゃんとうなずいたのに全く信じてもらえなかったらしく、掴まれた腕は車に乗り込む直前までずっとそのままだった。
車で真吾の家に向かう間、車内の空気は窒息するほど重かったけど、スピーカーから流れてくる音楽に思考を持っていかれた。それは私が誕生日プレゼントに用意していたCDだった。あの日、パーティーの会場に置き去りにしたものだ。
ホテルで酔っ払った真吾に弾いてあげたあのピアノ曲を、有名なピアニストが演奏したもの。
きらきらとした音が、重苦しい空気の中で浮いては消える。
彼はずっとこれを聴いていたのだろうか。
なぜ? 会うのが辛いとまで言った相手のプレゼントを、一体どんな気持ちで聴くのだろう。
真吾の考えていることがわからない。
運転している横顔を盗み見ても、彫刻のような表情からは何も読み取れなかった。
それから数十分の後、結局一言も交わさないまま真吾の家に着いた。私が飾り付けた誕生日祝いの拙いデコレーションがまだくっついていて、でもどこかくたりとよれていて、それが物悲しかった。外してあげてほしかった。失われたわけではないのにすっかり萎れてしまったそれが、自分の真吾への気持ちみたいに感じられて。
「なんで、また逃げ回るんだよ」
向かい合ってソファに座るなり傷ついたような顔で言われ、心がぐらぐらと揺らいだ。
傷ついたのはこっちだっていうのに。
こういうとき、じめっと落ち込むのは性に合わない。だから私はそれを別の感情へと変えて発散させるのだ。それは逃げ惑う楽しさだったり、目の前の人へぶつける怒りだったり。そしてどうやら今回は、怒りに変換されたらしい。
ふつふつ、ふつふつ。
お腹のなかが熱くなった。
ぎゅっと握ったこぶしが体の横でぶるぶると震えた。
あの日の真吾の嫌そうな声が、頭の中でこだました。
「……私を連れ歩くの恥ずかしい、友達にも会わせたくない、それなのに無理して付き合ってくれてた?」
「何だよそれ。俺はそんなこと一言も」
「言ったよっ! 笑われたくないって! それに、我慢の限界だって!」
真吾はほとんど表情を変えず、眉根を寄せて記憶をたどっているらしかった。自分があのとき口にしたことを、この人は覚えてすらいないのか。
「私がそれを聞いて、傷つかないとでも? 我慢して付き合ってくれたことに感謝しろとでも? チャラい御曹司には、遊ばれて傷つく人の気持ちなんてわかんない?」
最後はほとんど叫ぶように言うと、真吾は一度目を閉じて大きく息を吸ってから、深い深いため息を吐いた。
「結局、同じなんだな。金目当てで寄ってくる女と、同じだ」
ぽつりとつぶやかれたその言葉に目を見開いた。
「なんでよっ」
涙がほとばしる。
誰が、いつ、お金なんて。
そんなものが欲しいだなんて、思ったこともない。いや、ちょっと訂正。お金はいつだって欲しいけど、自分で必要なお金は自分でちゃんと賄うから、それをこの人に期待したことはない。それなのにお金目当てだなんて、バカにされた気がして、悔しくてたまらなかった。
「お金なんてっお金なんてっ! 考えたこともないのに! なんでまるで私のせいみたいにっ! 物珍しいからって、私みたいな凡人に触手を伸ばしたのはあなたでしょ!」
そんな風に思われていたなんて。
「ちがうよ。俺が言ってるのは金目当てってことじゃない。俺を見てる、枠の話だ」
わく……?
「金持ちのボンボン、チャラ男、オレ様? ハルカも結局、その枠で俺を見てたんだ。それに寄ってくるか嫌悪感を抱くかの違いに過ぎなくて、捉えてる枠は他の奴らと同じなんだな。俺は結局『倉持家の』真吾でしかないか。映画が好きで、家でぐうたら過ごしながらコーヒーを飲むのが好きなただの男にはなれないのか。どうして倉持家にこだわるんだよ。どうせこだわるなら、まだ金目当てで寄ってこられた方がましだよ。俺のバックボーンを毛嫌いするハルカより、それを好きでいてくれる、そういう女の方がまだましだ」
その言葉は私の胸に突き刺さった。
お金目当てで寄ってくる女の子の方がいいの?
「遊んでた頃は、顔は可愛い方がいいし胸はデカい方がいいって思ってたし、そう公言もしてた。でもあれは、お互い様だった。寄ってくる奴の大半は、俺が『倉持』じゃなければ見向きもしなかっただろう。だから、俺の気持ちがどこに向いてるか、誰ひとりとして気づかなかった」
気持ちが向いている相手。
それは……伊織さん。
体が震えて、声がでなかった。
「ハルカは違ったんだ。違うと思ったんだ。俺を、見てくれたと。なのに、物珍しいからって、なんだよそれ。どんだけ俺のことバカにしてんだよ。そんな理由で人を好きになったりしない。伊織のことだって、美人だから好きになったわけじゃない。あいつが美人って言われるようになったのは大人になってからで、小さい時は背がひょろんと高くてガリガリで目だけやけにギョロっとしてたから、当時流行ってたアニメの妖怪に似てるって言われてたよ。優雅なのだって見た目だけで、中身は男だ。それでも俺は、子供のころからあいつのことが好きだった」
美人で優雅で、上品で……伊織さんを見て、敵わないと思った。こんなに素敵だから仕方ないって。だけど、彼が好きになったのは伊織さんの外面じゃない。美人だから好きになったわけでも、優雅だから好きになったわけでもない。それはつまり、伊織さんのすべてが好きだということ。
私は打ちのめされていた。
「最後まで聞けよ。俺はハルカが好きだ。物珍しいからじゃない、好きだから付き合ったんだ」
ハルカが好き。
ハルカも好き。
その二つの違いを、私はたぶん甘く見ていた。
「……伊織さんを好きなら、ぶつかればよかったんだよ」
「何言ってんだ。俺が伊織を好きだったことは前から知ってただろ? 何を今さら……」
「知ってたよ。越えられると思ってたわけでもない。二番目でも好きだって思ってくれるならそれでいいって思ってた。でも、きっと違う。私は二番目なんかじゃない」
「どういうことだよ」
「伊織さんと、その他大勢。これまでのたくさんの彼女たちワンナイトガールたちは、みんなその他大勢だったんだよ。私もそう。二番目なんていない。結局伊織さんだけ」
「ちが」
言いかけたその言葉を遮った。
「ぶつけなかったから、こうなったんだよ。気持ちを、ぶつけなかったから」
「どういう意味だ」
真吾の声が一気に低くなった。
「振られるのが怖くて気持ちをぶつけなかったから、恋心が成仏せずに二人の間を漂ってるんでしょう!」
「自分のこと好きじゃないってわかってる相手に気持ちをぶつけろってか。困らせるだけだ」
「ちがうよ、困らせるのが嫌だったから伝えなかったわけじゃないでしょ。意気地なしだからだよ。怖がりだからだよ。好きだから、決定的な一言をもらうのが嫌で逃げてたんでしょ! 逃げ惑ってたのは私だけじゃない、真吾さんもだよ!」
「……何だと?」
「困らせるのが嫌だなんて偽善だよ! 伊織さんは真吾さんの気持ちなんてとっくに知ってる。知ってるけど、直接言われてないから動けないんだよ。それでずっと普通に接してるんだよ。真吾さんだってそれくらい、わかってるでしょ? 振られるのが怖くて言えなかっただけのせいに、まるで伊織さんのためみたいなこと言って! かっこつけないでよ!」
ぜいぜい、と肩で息をした。
かっこつけきれてないくせに、かっこつけて。スマートなくせに、不器用で。完全無欠のオレ様に見えるこの人が見せる、わずかな隙が好きだった。人間くさくて、情けなくて。完璧な姿よりもよほど魅力的に見えたから。だけどその隙は、いつだって伊織さん絡みで現れる。
声が掠れた。
「……わかるよ。本当に好きだったら、失うの怖いよね。関係が壊れるの怖いもんね。伝えられないよね。わかるよ。わかるんだよ。真吾さんの気持ち、よくわかるよ。だから……真吾さんは、私に気持ちを伝えられたんだよ」
「ちょっと待て、それって」
「失ってもいいと思えたから、伝えられたんだよ」
「ちがう」
「違わないよ! 伊織さんにはずっと言えなかったくせに! 好きだっていうたった一言を口にできなかったくせに!」
本気すぎて伝えられなかった気持ち。
その代わりに、たくさんの女性を相手に甘い言葉をささやいてきた男。
ほらね。
伊織さんには言えなくて、他の人には言えるんだ。私にも、言えたんだ。
「伊織さんには言えなくて私には言えるなんて残酷だよ。真吾さんは、残酷だよ……」
視界が涙でぼやけて、真吾の姿が揺れた。泣き顔が可愛くないってことはわかってる。こんな風に泣くなんて最悪だ。私ばかりが必死になって、泣いたり笑ったり。それを大人な顔をして眺めている隙のない男。
この男の心を揺らすのはたった一人、あの綺麗な花。
「思ってた。絶対に傷つくって。だから好きにならないように一生懸命だった。やっぱり、好きになんてならなければよかった」
後戻りできない最後の一言を放つと、真吾がかすかに息をのむのが分かった。
私はカバンを握りしめてのろのろと立ち上がり、玄関へ向かう。足が重くて喉が痛くて、鼻も痛い。一番痛いのは、ない胸だった。
「ハルカ。わかった。もうよくわかったから。ただ、ひとつだけ言わせて。いや、お願いだから聞いて」
背中に掛けられた静かなその声に、私はつい立ち止まる。
でも、振り向かない。懇願するようなこの人の顔を見てしまったら、負けるのが分かっているから。
「誕生日の話は誤解だ。俺がハルカを友達に会わせたくなかったのは、ハルカと一緒にいるときの俺自身を見られたくなかったからだ。ハルカといると気が緩む。茜にも笑われたくらいだ。だから、そんな自分を友達に見られるのが恥ずかしくてハルカを連れて行きたくなかった。友達にもそう説明してた。だから、友達は俺をからかって楽しんでたんだ」
――見られたくねぇんだって……
ああ、あれは私のことじゃなく、真吾さん自身のことだったのか。
「我慢の限界だって言ったのは、ハルカのそばにいたくないって意味じゃない。俺が、付き合って5ヶ月も手を出さなかったのなんて初めてなんだ。でもハルカは大事にしたいと本気で思ってたから、別によかった。ただ、ハルカは薄着だし無防備だし……その意味で我慢の限界だった。それを友達が『ご愁傷様』って言ったんだ。俺はハルカに会いたくないなんて一度も思ったことはない。それだけは本当だ」
俯いた私の視界の端っこに真吾の足が見えた。
胸につかえていた塊がひとつ溶けて、体の中に流れ込んでいく。
振り返って誤解してごめんって、そう言えばいい。
簡単なことだ。
それなのに、どうしても振り返ることができなかった。夢に見た小さな少年が、なぜ肩を揺らして泣いていたのか。不意に思い出したからだ。伊織さんへの想いが敗れた小さな真吾少年は、夢の中でも泣いていた。
この人をただの少年にしてしまうあの女性には、私はきっと一生かなわない。
好きになればなるほど、きっと私は苦しむだろう。
ゆっくりと家を出た。
苦しさから逃げ出したはずだったのに、胸がつぶれるかと思うほど痛かった。
蝉がうるさく鳴きわめく真夏の夜に、私は一人でわんわん泣いた。




